凍剣 雪中行 13
「山高きが故に貴からず、か、そうは言っても、これは壮観だな」
背後からの朝光に照らし出された、北嶺山脈の威容は、白息を吐き出す御用猫に、感嘆の声を混じらせる。
「ことわざですか? ゴヨウさん、それは、どういった意味ですか」
手袋代わりに、くるぶしを抱き締めたサクラが、御用猫の隣に身を乗り出してくる。先程までは、ほわぁほわぁ、と鳴いていた彼女であるが、ようやく、この絶景にも慣れてきたようである。
「ん、諺というかな、師匠の受け売りさ……山の高さに意味は無い、その本質にこそ価値があるのだ、ってな」
「本質、ですか? 」
ことん、と首を傾げる少女を、御用猫は横目で眺め、片方だけ眉を上げる。サクラの頬は赤く染まっていた、少々、身体が冷えているだろうか、リチャード少年の呪いにて、てんてん丸に下げられた籠の中は温度を上げてあったのだが、やはり、チャムパグンの呪い程の効果は、得られていないようなのだ。
風除けになればと、彼の外套は預けたままにしてあったのだが、北嶺山脈に近くほどに気温も下がってゆくのだ、これは、早めに防寒着を揃えてやらねばなるまい。
「山というものは、一見して立派に聳え、不動にも思えるが、その実、細かい砂や石の集まりだろう? ……まぁ、簡単に言えば、見栄えのする、その理由こそが肝要……例えば、日々の積み重ねなんかが大事って事さ、偉大な剣士も、才能だけじゃ無い、地道な努力の上に成り立ってるってな」
「なるほど、良い言葉ですね! というか、ゴヨウさんも少しは、それに習ってください、全く、せっかくの大先生の教えなんですから、実践しなければ、それこそ意味が無いでしょう」
「いや、親父殿の言葉じゃないし」
御用猫の返しに、サクラは真っ赤になって、ぺしぺし、と彼の肩を叩くのだが、くるぶしを抱えたままでは、普段の様にはいかないだろうか。
「……若先生、大先生の他にも、教えを受けた方がいらっしゃるのですか? 僕は、初耳なのですが」
「ん? あぁ、田ノ上の親父は三人目かな……そもそも、親父殿とは流派が違うのだ、当然だろう」
珍しくも、リチャード少年の発言は、見当の違うものであったのだが、裏を返せば、それ程に、御用猫と田ノ上老の繋がりは、彼らの目にも、長く、強固なものに見えていたのであろう。
「田ノ上念流と、カディバ一刀流と……あとはゴヨウさんお得意の、野良猫剣法ですね、ちょうど三人ですか、納得いきまし……いたた、いふぁい、いふぁい、です」
「リチャード、そろそろ明るくなるから、てんてん丸を着陸させてくれ」
ふふん、と鼻を鳴らし、自慢気なサクラの頬を横に伸ばし、御用猫は少年に指示を出す。彼が手を上げて、祖霊鳥の腹を撫でると、その巨大なひよこは、ころころ、と喉を鳴らし、速度を落としてゆく。
あれから、ローエとイリヤラインの家で、一晩のもてなしを受け、御用猫達は空路にて北嶺山脈を目指したのだ。これには、リチャード少年の体力を回復させる、という理由もあったのだが、森エルフのしきたりを堂々と無視するイリヤラインが、少年と同衾しようと部屋に進入し、それを阻止するサクラとの激しい揉み合いが続いた為、おそらく彼に、落ち着いた休養は取れなかったであろう。
ローエとイリヤラインは、山エルフの集落を訪ねる旅にも同行を希望したのだが、それは、流石にオーフェンからのお叱りを受けていた。そのため、現状、祖霊鳥に運ばれる面子は、御用猫とチャムパグン、リチャード少年にサクラ、後はくるぶしと、てんてん丸の魔獣二匹である。
肉体的には、であるが。
「やぁ、随分と、テンゲレの扱いが上手になったものだね、これでも、彼女は気性が荒いはずなんだけど……ふふ、リチャード君は、魔獣に好かれる性質なのかな、それとも、女性に好かれるのか、なんとも、罪な男だね、貞操の堅い森エルフさえ誑かす程なのだから、ふふ、これは、相当に悪い先生から教えを受けているのかな」
「僕の口を、勝手に開かないでください」
にやにや、と普段のリチャード少年からは、およそ想像もつかぬ表情を見せた後、次には途端に、不機嫌そうな顔を造り出すのだ。
「なんだい、つれないね、魂の同居人を、そうそう無碍にするものじゃないよ、今から呪いを遣うのだから、少々目を覚ましただけさ……それとも、独力にて、変幻の呪いを行使できる様になったのかな? それは、凄い才能だよ」
くつくつ、と笑うリチャード少年は、端から見れば、独り言を繰り返している様にしか見えぬであろう。
三メートルを超える大きさの、巨大なひよこであるてんてん丸は、少々目立つ存在である。太陽が昇れば、こうしてホノクラちゃんの呪いで、その巨体を縮めなければならないのだ。
「……分かっています、しかし、自分の未熟さを、こんな形で痛感するとは……こんな事ならば、もう少し早くから、くるぶしに付き合ってもらうべきでした」
月狼よりも、更に高位の魔獣である雷鳥の幼生、てんてん丸は、ホノクラちゃんの呪いにて、自在に体長を変える事が出来た。以前、リチャード少年が、くるぶしを膨らませていたのと同じ原理ではあるのだが、彼の力では、とても圧縮出来ぬ程、てんてん丸の身体に流れる魔力は濃密で、膨大なものであったのだ。
「……そういえば、くるぶしは何か、大きくならんな、犬ころの成長は早いと思ってたが、やはり月狼は違うのかな」
「いえ、若先生、くるぶしは、身体の魔力回路……血管や神経の様なものですが、これを森の銀で代用していますので、こちらから干渉するか、追加で森の銀を与えなければ、これ以上成長しないかと」
少年の言葉に反応してか、なっふなっふ、と舌を出すくるぶしは、サクラの腕の中で、餅のように伸びている。
「可愛いから良いのです、ね、くるぶし」
でろり、と伸びる餅は、しかし、少々切なそうな表情にも見えるであろうか。確かに、くるぶしとしても、この姿では不便もあろうし、何より彼女は、こう見えて、誇り高き魔獣「月狼」その真の末裔であるのだ。
(いっときの事とはいえ、魔力を流せば成長するとか言ってたしな……ひょっとすると、リチャードと契約したのも、それを期待してたのか)
御用猫は、着地した籠から、ごつごつ、とした荒地に飛び降りると、外側から手を入れて、サクラごと餅を抱え上げる。
「まぁ、心配するな、いつになるかは約束出来ぬが……お前は、きちんと、大人の女にしてやるからな、期待して待ってろよ」
「なぁっ!?」
御用猫に抱えられ、少々居心地悪そうに俯いていた少女が、はっ、と顔を上げる。くちびるを震わせ、みるみる赤くなるサクラの顔は、すっかり、と見慣れてしまったせいで、何やら安心感さえ覚えるのだ。
(おっと、しまった、これは勘違いした顔だ……全く、耳年増な奴め、生娘のくせに……しかし、これは上手く説明せねば、いつぞやの二の舞か、上手く言葉を選んで……)
「いいかサクラ、勘違いするなよ、これは、そういった意味では無いぞ、あくまで、肉体的な事なのだからな」
「余計に悪いでしょう! 何ですか、責任を取らないつもりですか! 弄ぶつもりなのですね! そんな事は許しません! だいたいゴヨウさんは、いつもいつもそうやって、私だって分かっているのですからね! もう騙されませんよ! 照れ隠しにしても、限度というものがあるでしょう、何ですか、簪をつけていないからですか、残念でした、あれは、きちんとお洒落する時に使うつもりなのです、こんな旅に持ってきて、落としたり、傷を付けたら立ち直れませんからね、でも、首飾りは服の下にしてますので、安心してください! 」
横抱きに抱えられたまま、がくがく、と御用猫の襟首を掴んで揺さぶるサクラの腹から、ぽいん、とくるぶしが飛び降りる。丸々とした尻から生える短い尾を振り、下から見上げる子狼の目は、何か、機嫌が良さそうであり、御用猫は頬を緩めるのだが。
(……うわぁ、あっちは冷えてるなぁ、あれは、どちらの目かなぁ)
そろそろ春が近いとはいえ、未だ冷たく吹き荒ぶ、北嶺山脈からの雪おろしよりも、リチャード少年の視線は冷えて鋭く、御用猫の首筋を、痛い程に凍えさせるのであった。




