凍剣 雪中行 6
帰らずの森への旅は、五日程のものであった。これは、以前よりも早い行程であったのだが、その理由はいくつかある。御者をしてみたい、と、サクラが言い出したのも、そのひとつであろうか。
初歩的な事だけを説明すると、あとは走りながら覚えさせようと、初日から彼女に手綱を握らせていたのだが、どうやら彼女は、それが、いたく気に入った様子であるのだ。
今も御用猫の隣で鼻唄まじりに、いや、既にはっきりと声に出し、花吹団の新曲を口ずさむサクラは、なんとも御機嫌な様子にて、右へ左へと、その小さな身体を揺らしている。
(そういえば、リチャードもそうだったな……うぅん、こんなもの、何が楽しいのやら)
ちらり、と荷台の様子を伺えば、積み上げられた藁の布団の中で、卑しいエルフが首だけ出して鼾をかいている。その隣ではリチャード少年が、くるぶしを抱え、何やら呪いの練習中であった。
少年が白い子狼に手を添えるたび、くるぶしは、膨らんだり、しぼんだりしている。そもそもが、丸餅のような姿のくるぶしなのだ、その動きはまさに。
「なんか、本当に餅みたいだな……なぁ、リチャード、それ、何やってんの? 」
「魔力を圧縮して、くるぶしに蓄えさせています……以前は、いきなりの事にて意識を失ってしまいましたから、次は、そうならぬように、備えておこうかと……チャムさんに教わって、周囲の微量な魔力を少しづつ、集めて流し込んでいるのですが、これが、中々に制御が難しく……どうにか慣れてはきましたが」
くるり、と上体を捻り、御用猫に返答する少年の額には、玉のような汗が浮かんでおり、些か間抜けな見た目ほどに、楽な修行という訳ではなさそうだ。これは、二人共に知らぬ事であったが、本来ならば、魔力とは自らの体内の分だけで賄うものであり、その回復は食事と睡眠、つまり自然回復に任せるしかなく、周囲の魔力を集めるなどという技は、一部の者しか知らず、そもそも、扱う事の出来ぬ高等技術であるのだ。
「師事させる先を間違えたかなぁ……お前なら、一流の呪術師になれるだろうに、どうする? 今からでも」
「……若先生、流石に怒りますよ」
すい、と目を細められ、御用猫は肩を竦める。何か、最近では、こうして圧をかけられる事が増えてきたような気もするのだ。
「僕は、これでも剣士のつもりです……才が足りぬのは自覚しておりますが、それでも、剣に生きるのが僕の望みであり、選んだ道なのです、こうして呪いの修練もしておりますが、それはあくまで、足りぬ力を補う為であり、決して、本道ではありません」
その、透き通った碧眼に、真っ直ぐに見詰められ、御用猫は全面的に降伏する。
「分かった、悪かったよ、もう、二度と言わない……だが、道半ばで、死ぬんじゃないぞ? 」
少しだけ、真面目な表情を見せた御用猫に、少年は居住まいを正して頷くと、直ぐに普段の通り、花のような笑顔を返すのだ。
「はい、必ずに、お約束します……僕の望みの一つは、最後まで、若先生のお力になる事、なのですから」
なにやら、すっかりと、頼もしくなってきた少年の言葉に、御用猫も顔を綻ばせるのだ。隣で聞き耳を立て、密かに、小さく安堵の吐息を零した少女に、ちろり、と視線を送ると、御用猫は、少々嫌らしい笑みを作り出す。
「あぁ、よろしく頼むぞ……お前に何かあったら、サクラを宥めるのに、それはもう、苦労するのだからな」
「ほがっ! 」
ばしばし、と御用猫の膝が叩かれる。その衝撃が手綱を伝い、何か勘違いしたものか、ロシナン子は、その歩みを少し早めた。
(そういえば、なんかやけに速いな……疲れた様子も無いし、こいつ、何歳だっけ)
サクラに任せきりで、御用猫も忘れていたのだが、ここ数日、ロシナン子は日中に休みも取らず、歩き通しなのである。購入した時には、草臥れた騾馬であった筈なのだが、今では、随分と元気なものなのだ。
「うぅん、なんとも、いじらしい事だ、ふふ、なかなか愛い奴じゃないか」
「な、何ですか、叩かれて喜んでるんですか? ま、まぁ、私が? 人より少しだけ見栄えがするのは自覚していますが、だからと言って、その様に正面から褒めて、一体なんのつもりですか? どうせゴヨウさんの事ですから、何か悪い事でも企んでいるのでしょうが、おっと、その手には乗りませんからね! そうそう何度も、私を騙せるなどと思わない事ですよ、私はその様に簡単な女では無いのですからね、ですから……」
何やら赤く熟れたサクラは、ぺらぺら、と長口上にて捲し立てるのだが。御用猫が、その顎先を、くい、と持ち上げると、途端に沈黙して視線を彷徨わせるのだ。
「何を勘違いしているのかは知らないが……サクラよ、今のは、俺の正直な気持ちだぞ? 可愛いと思ったから、そう、口にしただけの事……何を訝ることがある? 」
「は、はわわ」
かたかた、と震えるサクラは、聞こえるか聞こえないか程度の小声にて、何やら言い訳や謝罪じみた事を口にしている様子であった。何を言っているのかは理解できぬ御用猫であったのだが、もう少し揶揄おうかと、顔を近づけたところで、両者の間に白い塊が差し込まれる。
「うひゃい」
鼻先をくるぶしに舐められ、サクラが微妙な悲鳴をあげる。ぷりぷり、と尻ごと振られた短い尾が、御用猫の頬を叩いた。
「はいはい、若先生も、冗談はそこまでです……ロシナン子には、練習がてら、僕が癒しの呪いも遣っておりますし、この荷台もチャムさんが強化したそうですよ? 僕などには理解の及ばぬところですが、軽量化した上で、強度を増してあるようです……相変わらず、見事と言う他はありませんね」
くるぶしを持ち上げたままに、リチャード少年は説明するのだが、しかし、その眼は、少々鋭いであろうか。
「顔だけは笑ってるのが、なんか怖いよなぁ」
「……若先生? 」
にこり、と花のような笑顔をむけられると、寒さのせいであろうか、少しだけ、背筋が震える気がした。
「はい、ごめんなさい、調子に乗りました」
御用猫には、全面的に降伏する他に、手は無かったのである。




