凍剣 雪中行 1
南町の五番街にある「マルティエの亭」は、とある賞金稼ぎの棲家であった。さほど大きくも無い店構えだが、質の良い食事と、愛想の良い女将が人気の、知る人ぞ知る隠れ家的な小料理屋である。
店主のマルティエは、三十路前の赤毛の女で、別段、美人とは言えまいが、愛嬌のある笑顔と、やや、ぽってり、とした臀部は、男性客からの人気も高いのだ。昼食客の波も、ようやくに去り、店員のミザリが洗った大皿を磨きながら、彼女は、角のテーブルに今も居座る、最後の客に目を向ける。
「先生、おかしいとは、思いませんか」
「そうです、おかしいでしょう! ゴヨウさんはいつもそうです! 何故、私に言わないのですか、おかしいでしょう、ええ、おかしいですとも! 」
椅子に並ぶ二人の女性は、ぱんぱん、と、テーブルを叩きながら、向かいの男に、猛然と抗議しているのだ。見事に揃った動きではあったのだが、その文句の内容は、全く違うものであった。
「うーん……なんか、おかしな事があったかなぁ? ……さんじょう、お前、どう思う? 」
先程から、責められ続けているのは、御用猫と呼ばれる賞金稼ぎであった。黒髪黒目、中肉中背、顔面を遮断する大きな向こう傷以外には、目立つ特徴の無い男である。
「おかしいと言えば、全ておかしいような気もするんですが……取り敢えずは、その手を止める事から、始めた方がいいと思います」
問われた女性は、何か困ったような笑顔を浮かべ、そう指摘するのだ。むべなるかな、御用猫の左右の膝の上には、黒と白の、小さなエルフが二人、涎を垂らして眠っていたのだが、彼は、食事を終えて膨らんだ彼女達のその腹を、ずっと揉み続けていたのだから。
「あぁ、これか……しかしな、これの魔力には、なかなか抗えぬものがあってだな……いや、論より証拠か、ちょいとお前も触ってみろ、分かる筈だから」
「えぇ……でも、それじゃ、少しだけ……うわ、何ですかこれ、すごい! 吸い付く! うわ、うわわ」
膝の上の白い方、チャムパグンの餅肌に、驚くさんじょうである。これはもう、比喩とも呼べぬ手触りであろうか。
「ふふ、お前も取り憑かれたか……どうだ、これで分かっただろう? 俺が此奴を枕にする理由が……多少の涎に堪えてさえも、お釣りがくるほどの価値があるのだ」
「はぁ、でも、私まで巻き込むのは、やめてくださいね? おかげで最近、寝不足といいますか……」
「それが! おかしいと言っているのです! 」
ついに声を荒げたのは、向かいに座る黒髪の女性であった。いや、二人共に黒髪ではあったのだが、こちらは随分と背が高く、黒髪はつむじの辺りで団子に纏めていた。
「何故、その様に仲の良さげな……はっ! まさか、さんじょう、貴方はよもや、姉から男を寝取るつもりで……恐ろしい……やはり、里の子だったのですか……虫も殺さぬ様な素振りで、皆を欺き、機会を伺っていた? ……姫雀と仲が良いのは……閨での技術を学ぶ為であったと……」
「みつばちは相変わらずだなぁ、なんか懐かしいなぁ」
子エルフが、膝からずり落ちぬように、顎で頭を押さえると、御用猫は猪口を手に取り、器用に中身を啜るのだ。このところ、忙しかった事もあり、殆ど酒を飲んでいなかった彼は、久し振りの甘露に喉を鳴らした。
「む、何ですか、懐柔ですか、お言葉ですが先生、私は、言葉のみで騙くらかされるような、軽い女ではありませんよ、あの平原の騎士とは違うのですから、そういった事は態度で示してください、主に夜、ねっぷりと」
妹のさんじょうと、同じ顔ではあるのだが、みつばちの方は、あいも変わらずの無表情であり、本気なのか冗談なのかの、区別すら難しいであろう。しかし、そろそろ付き合いも長い御用猫には、その、僅かな言葉の抑揚や、視線の動きからも、感情が読み取れるようになってきているのだ。
「そうだな、夜に渡しても良かったが、こういったものは、明るい内でなければ分かるまい……ほら」
再びチャムパグンを顎で固定すると、御用猫は、懐から小さな包みを取り出し、テーブルの上に載せたのだ。少しばかり躊躇ったあと、しかし、みつばちはそれを手にとり、恐る恐る開封した。
「……これは、髪留め、ですか? 」
「たまには入れ替わりの悪戯も良いが、見分けがつかぬのは、正直、困るからな……まぁ、普段の労いも兼ねて、だ、受け取ってくれ」
前髪を挟み込んで留める形の、細い髪飾りには、蜂を模した意匠が凝らしてあった。しばし、無言にて、それを眺めていたみつばちであったのだが、不意に立ち上がると、御用猫の隣に移動して、膝の上のエルフ達を、ぽいぽい、と放り投げる。
「……先生、二階に行きましょう、いま、すぐに、はよはよ」
「おかしな事が増えました! 」
ぱぁん、と、テーブルを叩きながら、残されたもう一人の少女が立ち上がった。こちらは少々、背の低い少女である、長い黒髪は馬尾に纏めて、薄い桜色の矢絣に、小豆色の袴を着けている。
「えぇ、増えましたとも! 何ですか、いやらしい、女性の怒りを贈り物で逸らそうなどと、姑息な真似なのです! その様なはしたない真似、恥ずかしくは無いので……みつばちは少し離れてください、昼間からいやらしい! そもそも、私に内緒でまた仕事をしたと言うではないですか、どうして声をかけてくれなかったのですか! リチャードが最近道場に姿を見せないと思ったら、こそこそ、と隠れるように働いていたと言うし、ティーナさんの具合が悪かったからとはいえ、また、私を除け者にして、ずるいです! 何ですか、私には贈り物が無いのですか、ずっと放置していたのだからお詫びの品くらいあって然るべきでしょう! 」
「サクラのもあるよ」
御用猫は、懐から包みを取り出した。中身は、桜の花びらを模した飾り付きの簪である。
「なら良いです」
すぱっ、と、それを奪い取ると、ほわぁ、ほわぁ、と声をあげながら頭上に掲げ、角度を変えて眺めては、にやにや、と頬を緩める少女である。
「ほら、簡単だったろ? さんじょうは少しばかり、考え過ぎなのだよ……おチャムさんの至言を教えてやろう「他人に遠慮して、おっかなびっくり生きるのは損」だとさ……まぁ、これは言い過ぎだが、姉妹なんだから、恐れる方がおかしいのだ、たまには、我儘のひとつも言ってみろ」
「……いえ、私は……それよりむしろ、姉様の変わりように少し驚いているというか……里では、こんな顔」
顔を掴まれ押し返されながらも、御用猫に縋り付く姉の姿を、妹は困ったように眺めていたのだが。ふと、その目が、指の隙間から、自分を見つめている事に気付いたのだ。
「さんじょう……我儘にも、限度というものがあります、猫の先生に色目を使うようであれば……ふご、いたた、痛い、痛いです」
ぎりぎり、と御用猫にこめかみを掴まれ、みつばちは悲鳴をあげる。
床に散らばる子エルフ二人は、転がるままに寝息を立てていた。その、何とも騒がしい光景に、さんじょうは、どうすれば良いものかと、思案していたのだが。
なにやら厨房から視線を感じ、そちらに目をやると、片付けを終えたものか、マルティエと従業員二人が、声を抑えて、くすくす、と笑っていたのだ。
(猫の先生は、少し、分からないところもあるけれど……恐ろしいところもあるけれど……)
少なくとも、姉が、この様な姿を見せた事など、里に居た頃には、ただの一度も無かったのだ、これは、きっと、この男のせいなのであろう。
(……悪い人では、無い、と思う)
ほぅ、と息を吐き出し、さんじょうは、いつもの、困ったような笑顔を浮かべたのだった。




