うでくらべ 18
ハボック ヘェルディナンドは、変わった男であった。いや、相変わらず、変人という事に違いはなかったのだが、これは、変わり始めていた、と言うべきか。
つる草のドレス亭にて、御用猫との邂逅を終えた翌日、登城してから、彼が真っ先に向かったのは、リリィアドーネの所であった。非番であるにも関わらず、彼は花の門の前にて、彼女を早朝から待ち構え、その姿を見るや、深々と頭を下げたのだ。
「此度は、貴女にも、随分とご迷惑をおかけしました、心よりお詫び申し上げます」
「う、うむ……その様子ならば、迷いとやらは晴れたようだな」
少々面食らったのか、リリィアドーネは、眉を寄せて男の顔をみつめたのだが、清々しくも、はい、と答えるハボックを見れば、彼女にも、この、なんとも分かり難い彼の心の内が、多少は感じ取る事も出来たであろうか。
「そうか……うむ、どうだ? これから稽古に行くつもりだが、お前もひとつ」
「喜んで、ぜひ、お手合わせ願います」
ハボックの、その、余りの変わり様に、最初は目を白黒させていたニムエであったのだが。
「……うん、前よりは、ずっと良いですよ」
あざとくも可愛らしく、にこり、と笑みをこぼしたのだ。
本気の手合わせ、と言う事で、二人は竹刀にて向かい合ったのだが、結果としては、ハボックの敗北であった。彼は、リリィアドーネの、稲妻の如き速度の突きを、見事にいなしたのだったが、即座に竹刀を手放した彼女は、ハボックの懐に潜り込み、肩と腕を引き下げて、投げを仕掛けたのだ。
(む、串刺し王女が組み打ちとは、しかし)
体重も筋力も、彼の方が上である。基本通りに、腰を落として堪えようとしたハボックであったが、それもまた、彼女の誘いであったのだ。
踏ん張る瞬間に足を刈られ、仰向けに倒されると、握り拳で、ぽん、と胸を叩かれる。これは、短刀を突き立てた、との仕草であろう。
「……参りました、リリィアドーネ殿、見事なものです、正直、侮っておりました」
立ち上がると、再び、深々と頭を下げ、ハボックはしかし、満足げに笑みを浮かべる。
「これは、私の慢心が招いた敗北でしょう、貴女の突きさえ、どうにかしてしまえば、負けは無いと……しかし、違った、実戦経験の差、でしょうか、頭だけで力量を測り、心の内で勝利したつもりになっていた……挑む事を恐れ、結果を見る事から逃げ、ただ、ひたすらに閉じこもって、矮小な自尊心を保っていたのです……なんと、恥ずかしい男でしょうか」
「変わったな、ハボックよ……たった一晩で、何があったかは知らぬが、良い目になった……お前は、まだまだ強くなる……しかし、私とて追い抜かされるつもりは無いのだぞ? これからは、共に、精進しよう」
差し出された手を、ハボックは、しっかりと握りしめ。
「いや、しかし見事なものです、流石は、辛島殿の奥方になるお人……彼は全くに素晴らしいのです、昨晩も、それはもう見事な手腕でして、彼についた嬢だけでなく、私についた娘まで、彼の虜になってしまったのか、部屋に呼ぶにもひと苦労でした、あの様に軽妙な語り口、とても真似できるものでは無いのです、しかし、これからは、そうした事にも……おや? 」
いつの間に立ち去ったものか、気付けば、ハボックの前に、串刺し王女の姿は見えず、代わりに、眉を釣り上げたニムエが、ずかずか、と距離を詰めてくるところであった。
翌日、ハボックが向かったのは、ダラーン バラーン伯爵の館である。城内に姿が無かった為に、勤務を終えたハボックは、直接に足を運んだのだ。最初は、面会を断られた彼であったが、先日の非礼を謝罪したい、と意向を告げると、老齢の家令は屋内に戻ると、主人を伴い、再び現れたのだ。
「……貴様、何のつもりだ」
人払いを済ませた応接室に、踏ん反り返るダラーンは、不機嫌さを隠す事なく、ハボックを睨み付ける。
「いえ、私は、バラーン伯に謝罪したく、此処を訪ねたのです、他意はありません……先日の手合いは、まこと、大人気ないものであり、貴方様の立場を考えれば、手加減して然るべきでありました、私の至らなさに、今は、恥じ入るばかりなのです、つきましては、定期的に稽古を行い「からすき」の名に恥じぬ力量を身に付ける、その手助けをしたく……」
「帰れ」
追い立てられるように、屋敷を後にしたハボックであったのだが、しかし、心は、じつに晴れやかなまま、なのである。
「あぁ、こういった事であったか、思うままに、言葉を発し、気持ちを伝えるのだ……受け容れられぬ事もあろう、しかし、それを恐れて何になる、私が、私を認めねば、決して、他人も、私を認めないのだ……いつからだ、遠慮を覚え、剣に手心を加え始めたのは、知らぬ内に、言葉を抑えていたのは……なんと、馬鹿馬鹿しい……自分で自分を殺していながら、魂を解き放ちたい、などと、自縄自縛の極み……なんとまぁ、滑稽な」
閑静な上町の街路の只中にて、不意に立ち止まり、夜空を見上げると、大きく息を吸ったハボックは、大きく、両手を掲げたのだ。
「しかし、今は違う! わたしは、自由だ! 」
怪訝そうに、彼に目を向ける者は居たのだが、今のハボックには、瑣末な事であった。
そして、三日目に、ハボックは親友を、夜の公園に呼び出したのだ。
「……お前よぅ、色々と、聞いてるけどよう、ひとつだけ、言わせてくれや……口裏合わせしてくれんじゃ、無かったのかよう! 」
「すまぬ、忘れていた」
かくり、と肩を落とすラースは、しかし、すぐに笑いながら、友人の肩を叩く。
「まぁ、今回は許してやっぺよ、ニムエもさ、お前が変わったのは分かったみてぇでよ、なんてえの「必要経費」だとよ、はは、笑えるだろ? 」
「うむ、彼女は、良い女だな……」
しかし、ハボックは、ふと、真面目な顔を作り出す。親友の変化に気付いたものか、ラースも、何か真剣な面持ちを見せると。
「……おい、まさか、ニムエを貸してくれ、なんて言い出すんじゃあるまいな? いくらお前の頼みでも、それは聞けねぇぞ? 俺っち、そんな趣味は無いからな? そりゃ、そういうのも、今は流行りだとか、いうけどさぁ! 」
その、余りの必死さに、くっ、と噴き出しそうになるが、ハボックは自らの口元を揉みほぐすと、表情を整え、彼に向き直る。
「……実はな、見てしまったのだ、その、お前が、余所の女と、逢い引きしている所をな……いや、それを責める訳では無い、ただな、ニムエとは、まだ付き合ったばかり、真面目な彼女にしてみれば、今はお前だけを見ていたい時期であろう、いずれは、側女も構わぬであろうが……その、な、まだ、しばらくは……」
そこまで言ってから、ハボックは、ようやくに気付くのだ。目の前の男の、質、が変わってゆく事に。
「……ハボック……俺はな、しがない辺境領主の、次男坊でな……」
「いや、これは、余計な口出しだとは、分かっているのだ、しかし、お前は友人だ、こんな私にも良くしてくれた、かけがえのない……だから……」
しかし、ラースは首を振り、俯いたままに、言葉を続ける。
「爺様はな、金遣いも荒く、悪さもたくさんしたらしい……でもな、領民の事を一番に考えてた、飢饉が起きた日にゃ、身銭を切って、食料さえ配ったらしい……でもさ、親父と兄貴は、どうも、悪いとこばかりを、真似てるみたいでさ……」
「……ラース、なにを言っているのだ? 」
ふぅ、と息を吐き出し、顔を上げた男は、変わってしまっていたのだ。それは、ハボックが見た事も無い、暗く、淀んだ瞳の男。
「初夜税とか言い出した日には、俺も、呆れてものが言えなかったよ……でもな、どうしようもないだろう? 俺は次男だ、なんの力も無い……それとも、二人を始末するべきだったのか? 実の親と、兄を? いくら屑でも、やっぱりさ、家族なんだよ、出来っこない……近々な、親父は罷免されるらしい、そう噂を聞いたよ、自分で遣い過ぎて、賄賂が足りなかったんだ、笑えるよな」
ハボックは、何も言えなかった。いかに回転の早い彼の頭とて、この状況には、追いつけないのだから。
「だけどさ、せめて、家族は守ってやりたい……母さんと妹達に、罪は無いんだ、もし、領主が罷免されれば、それは大恥だ、親父は今迄の悪政を断罪され、残された女達は、犯されて、放り出される、最悪、殺されてしまうかも知れないんだ……逃げるなら、今しかない」
すらり、と、ラースは、腰の長剣を引き抜いた。その金属音に、ようやくハボックの脳が、現実に追い付いた。
「ラース! 何をするつもりだ! 」
「ロンダヌスは、家族を逃すと約束した……俺は、その義理を果たさねばならない」
「馬鹿な事を! よせ、他の道があるはずだ、私も、一緒に考えるから」
友人の言葉に、ラースは涙する。目尻に光るものを零しながらも、しかし、長剣を正眼に構えるのだ。
「俺はさぁ……お前が、羨ましくってさぁ……だって、一所懸命、生きてるんだもの、悩んでんだもん、切ねえよ……答えが無えんだもん、先が、分からねえんだもんよ! 」
「ラース! 」
反射的に、ハボックは抜刀した。抜いてしまったのだ。
「俺の先は、見えてるよ……お先真っ暗さ……なぁ、ハボック、知ってるか? 」
一度、目を閉じ、再び開いたラースの瞳の中には、もう、ハボックの親友は、存在しなかったのだ。
「俺はさ……お前より、強ぇぞ」
「よせ、ラース……ニムエはどうするのだ、私は、どうするのだ」
正眼に構えるハボックは、額に汗を浮かべる。目の前の男が、実力を隠していた事には気付いていたのだが、いざ目の当たりにすれば。
(余程に、低く見積もっていたか……これは……)
とても、自分の敵う相手ではあるまい。
「お前に知られたんだ、酒番衆も、そのうち気付く……いや、もう手が回ってるかも……だから、お前には、時間稼ぎに付き合ってもらうのさ……テンプル騎士が闇討ちされたとなれば、城も慌てるだろう……約束の期日まで、あと、一週間、それで、家族は逃げ切れるんだ……悪いが、謝らねえぞ、お前にも、ニムエにも、だ」
「済まぬ……ラース、私は、何も、気付いてやれなかった……」
ハボックは、自らの死を受け入れた。自分の、つまらぬ命で、友の心が救われるならば、共に地獄に堕ちても、構わぬとさえ思ったのだ。
次の瞬間、二人の騎士は衝突し。
ハボックの剣は、ラースの胸を貫いた。
いつものように笑って、ハボックの肩を抱く友の手に、剣は握られていなかった。
しん、と静まり返る、冬の公園には、ただ、男の慟哭が響くだけであったのだ。




