未だ名も無き御用猫
クロスロードの東を流れる、線川のほとり、船宿「扇鶴」の二階に、御用猫の姿はあった。
開け放した窓からは、少々温い、夏の風が舞い込んでくるのだが、これも一興であろうかと、御用猫は、敢えて呪いに頼らず、浴衣姿にて、川辺を眺めているのだ。
時折往き来する大型船が、周囲の空気を引っ張り、窓から吹き込む風の調子を乱す。その度に揺れる前髪が、御用猫の視界の端に影を引き、彼は、そろそろ散髪でもしようかと、そんな事を思いながら、猪口を傾け、酒精の混じる息を鼻から抜く。
「若先生、お代わりは如何ですか? 」
開いたままの襖から、徳利を盆に載せて、リチャード少年が現れる。しかし、御用猫が、ちらり、と視線を送ったのは、彼にではなく、その両手に抱えられた酒器に、であった。
「そうだな、貰おうか……もう少し、冷えた奴が飲みたかったんだ」
徳利の表面は、玉のような水滴にて覆われていた。この店の酒は、上物ではあったのだが、酒で胃の腑まで冷やせる程の冷蔵庫を備えた店など、いかな大都市クロスロードといえど、中々、お目にかかれないのである。
この少年は、ますます、呪いの腕を上げている様子であった。もう言わぬ、とは約束したが、こうした成長を見せられれば、何か、彼の才能を無駄にしているようで、御用猫は偶に、申し訳ないような、気持ちにもなるのだ。
「皆さん、探していましたよ……ここのところ、若先生が忙しくしておられたのは、みな知っていましたから……心配なのでしょう」
「ふふ、野良猫の隠形もな、捨てたものじゃ、無いだろう? 」
隣に座る少年から酌を受けると、その、透き通る程に輝く甘露を、御用猫は喉に流し込む。
「くぅ、たまらぬ……しかし、リチャードよ、良く此処が分かったな? いや、そのうちに見つかるとは思っていたのだが……なんと早いな」
目を閉じて、その冷たさを愉しんだ御用猫は、笑いながら、少年に猪口を渡す。彼は決して、下戸という訳では無い、しかし、自分から酒器を持参するのは憚られるのか、こうした時には、いつも、自分の器を用意してこないのだ。
「今日の若先生は、皆が最初に探す所には、居ないと思いまして……なので、逆から辿っただけですよ」
「おのれ、手強くなってきたな……一晩くらいは、逃げられる算段であったのだが」
言葉とは裏腹に、リチャード少年に向ける御用猫の笑顔は、優しげなものであった。卑しい野良猫とて、弟分の、こうした成長は、やはり、嬉しいものなのであろう。
「いえ、若先生は、何処かの夜街に行くから、と、そう伝えておきましたので……しばらくは、問題ありません」
「ん、それは助かるが……お前も、探しに来たのでは無いのか? 」
律儀にも、酒器のふちを指で拭き、少年が猪口を戻してくる。御用猫の問い掛けには、少しだけ沈黙した後に、ふわり、とした、花の様な笑顔にて、返答するのだ。
「若先生がお疲れなのは、僕も承知しておりますので……」
相変わらずに、気の利く少年であるのだが、最近はその表情に、どこか、暗いものが感じ取れる事も、増えてきたであろうか。
「……なので、本当は、こうしてお邪魔するのも、控えるべきかと、考えもしたのですが……」
「あとで、風呂に行くか」
「はい? 」
きょとん、とした瞳を、御用猫に向ける少年に、再び猪口を突き出すと、彼は、それを押し付け、冷えた酒で満たしてゆく。
「……疲れてるのは、お前も同じだろう? ここの風呂はな、個室の割に、広くて落ち着けるのだ……まぁ、本来、何に使うものかは知らないがな、しかし、寛げるのも、間違いない」
だから、早く呑め、と御用猫は笑顔を見せる。
「後は二人で、のんびり飯食って、一杯やって、ゆっくり寝るとしよう……まぁ、偶には、良いだろう? 」
休息が必要なのは、誰しも同じであるだろう。少々、真面目に過ぎる少年には、手の抜き方、心の休め方も、教えなければならないだろうか。
などと考える御用猫の、その気遣いも、この、なんとも気の利く少年には、きっと筒抜けであるのだろう。
「……はい、若先生、喜んで、お伴します」
窓から抜ける風に揺られ、舞い散る花弁の様に、ふわり、と広がる金色の髪の下、その、とびきりの笑顔を見れば。
人の心を知らぬ野良猫にとて、容易く理解出来る、ものであったのだ。
今宵はここまで御用猫
明日も生きる野良猫の
次の語りはまたいずれ
御用、御用の、御用猫
これにて完結となります。
ここまで読んでくださった皆様には、マリアナ海溝よりちょっとだけ深く感謝いたします。
続編の「また又・御用猫」については、外伝というか前日譚というか、また少し別のお話を挟んでから、再開するとは言っていません。
もう、退屈だし他に読むもの無いから、仕方なく、仕方なく付き合ってやっても良いよ、という方がいらっしゃいましたら、また可愛がってやってくださいませ。
かしこ