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続続・御用猫  作者: 露瀬
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同たぬき 14

 リチャード少年は、日が昇る前に出発した、ラバ車は使えない為に、徒歩での移動であった。目的地のアドルパス邸までは、直線距離にて、おおよそ十キロほどであろうか、しかし、動きやすい麻のシャツとパンツ姿にて、彼はあっという間に、これを走破してしまったのである。


 少年は休憩無しで走り続け、到着まで一時間もかからなかったのだ。田ノ上道場で鍛え抜かれた彼にとっては、準備運動程度のものであるだろう。


「ふう、ふう、朝早くに、すみません、レギーナさん、アドルパス様は、いらっしゃいますか? 」


 問われたのは、この館を護る従士の女性であった。最近、良く出入りするリチャードとは、馴染みになった彼女であるのだが、この少年の美貌には、なかなか慣れぬ様子であり、その姿を見る度に、胸を押さえて吐息を漏らすのだ。


 今は前髪を汗で張り付け、まさに水も滴る美少年ぶりである、彼女には、結婚を約束した恋人も居るのだが、この、花のような笑顔を見せる少年を前にしてしまえば。


(おのれ……少々、はやまったか……)


 などと、思う事もあるのだ。


「おはようリチャード君、相変わらず美味しそうだね、アドルパス様なら、そろそろ素振りの時間だと思うよ……だが、ふふっ、先に水を浴びた方が、良いかも知れないな」


「はい、ありがとうございます、それでは」


 ぺこり、と頭を下げ、水場に向かう少年を、さり気なく追いかけようとしたところで、彼女は同僚に取り押さえられたのだ。


 結局、少年は行水する前に、アドルパスと嶋村老につかまり、そのまま朝稽古をする羽目になったのであるが、これは、彼としても望む所であっただろう。その稽古は、朝から熱の入ったものであったのだが、やはり、嶋村老の指導は的確なものであり、彼は、しばし時間も忘れて、偉大なる剣士二人に、挑み続けたのである。



「いや、それにしても見事なものですよ、その若さで、大したものなのです、ヒョーエの指導方については、むかしね、何度か口論になった事もあるのですがね、いやいや、これは私にも、反省するべきところがあるでしょうか」


 にこにこ、と笑う嶋村老は、笑顔こそ、最初と変わらぬものであったのだが。


(何というか、活力でしょうか、先日よりも、活き活きとしていらっしゃる)


 少年の感想も、当然ではあろうか、確かに、もともと元気な老人ではあったのだが、今の嶋村老の表情には、心底楽しげな、無邪気な純真さも見受けられるのだ。現役からは、既に引退したそうであるのだが、この様子では、剣を手放したのは、彼の本意では無いのだろう。


「いえ、嶋村先生の指導は、確かに、私の力になっているのです、先日の僕よりも、着実に強くなれた気がします……もし、嶋村先生も、そうお感じになられたならば、それは、貴方のお力でも、あるでしょう」


「あはは、これは参りました……ですがね、リチャードさん、私が褒めているのは、貴方の、その心の在り様なのですよ……こればかりは、教えて身につくものでも無いのです……羨ましい……私にも、リチャードさんのような弟子がいれば、何かを残せたような、そんな気持ちにも、なれたのでしょうかねぇ」


 遠くを見詰める嶋村老の瞳には、なにか寂しげな色も感じられたのだ。深く立ち入る事は失礼だろうかと、少年は言葉を飲み込み、ただ、じっと、彼の横顔を、瞳の中に収めていた。



 アドルパスは登城してゆき、嶋村老とリチャード少年は、客間に二人、向かい合って話し込む。その殆どが、剣についての語らいであったのだが、この老人の語る実践的な理論は、どちらかといえば、直感覚で戦う少年の師匠達と違い、彼の脳に、すんなり、と溶け込む話であったのだ。


 夢中で聞き入る少年の瞳に、何か共感でも覚えたのだろう、嶋村老も愉しげに、自らの編み出した技や術理を語って聞かせる。剣術体系の確立されているクロスロードではあったのだが、嶋村老は、更にその先を見据えていたものか、身体の造り方から、剣の軌道に至るまで、事細かに分析し、独自の理論を展開していた。


 漸くに、彼の講義が終わりを迎えたのは、いつの間にか並べられていた昼食が、いつの間にか無くなった頃なのであった。


「いやいや、あはは、いったい、どのように腹に収めてしまったものか……少々、はしたない真似をしてしまいましたねぇ」


「ですね、しかし、素晴らしく為になりました……僕はどうやら、頭から入るのに向いているようなのです……ふふ、このような事、若先生や大先生には、とても言えませんが」


 でしょうね、と笑う古狸は、やはり、田ノ上老の性格も熟知しているのであろう。


「ですが……リチャードさん、これだけは、覚えておいてください、剣術も良いですが、決して、他の事を疎かにしては、なりませぬ……これは、私にも覚えのある過ちなのです、この歳になるまで、ひとつ事しか、してこなかった男には、惨めな老後が待つばかり、なのですから……」


 ほう、と溜め息を吐き出す嶋村老は、自嘲気味な笑みを浮かべると、少年の目を、真っ直ぐに見詰めるのだ。


「……私にはね、自信が無いのです、しかしこれは、仕方の無い事でしょう、何しろ、剣以外を、何も知らぬのですから……たとえ、野盗五十人に囲まれたとて、恐れもしませんが、たった一人の女性が、とても恐ろしい……そんな事も、あるのですよ、仕方のない事とは言え、なんとも、情けない話なのです」


「嶋村先生……それは……」


 少年の方も、居ずまいを正すと、古狸の垂れた目を、真っ直ぐに捉えるのだ。一度、深呼吸をすると、肚に溜まった息と共に、ゆっくりと言葉を吐き出す。


「失礼ながら……アザレさんの事では、ありませんか? 」


 言われた瞬間、その名を出された瞬間に、嶋村老の肩が僅かに動き、垂れた目蓋の奥から、驚愕の光が露わになるのだ。


(これは、やはり)


 確信する少年ではあったのだが、その心の内では、安堵の息を漏らすのだ。


 なぜならば、古狸の見せた表情は、女性を騙して捨てた男のそれでは無く。


 むしろ、捨てられた方の男の様な、雨に打たれる子狸の様な、少々、情け無いもの、であったのだから。




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