同たぬき 11
二度あることは三度ある、などと、話には聞いていたリチャード少年ではあるのだが、いざ、自分が体験するとなれば、これは。
(なるほど、と思う前に、何かこう……ううん、もっと、良い巡り合わせで、実感したかったものです)
あまり、良い意味で使われる事の無い言葉であったが、やはり、人間の記憶に残る出来事とは、そういったものなのであろうか。少々、迷惑な偶然ではあるのだが、出逢った相手の悪評を知る彼にしてみれば、これはもう、必然と呼んでも差し支えないやも知れぬのだ。
(そうだ、若先生ならば、こうした時に)
飛び出したアザレの背中を追いかけ、既にサクラも走り出していたのだ。つい先日に、己の力不足を実感したばかりの少年である、彼の敬愛する師匠ならば、この面倒ごとを、果たして、どう収めるものか。
期待にも似た眼差しを、後ろに控える男に向けるリチャード少年であったのだが。彼は、一度だけ肩を震わせると、即座に理解し、走り出す。
それは、前を行く、いかにも純粋で、汚れを知らぬ真っ直ぐな少女を、この場から遠ざけるため。
野良猫とは、少年が思うよりも、はるかに卑しい生き物であったのだ。
御用猫の脳内では、ダラーン バラーン伯爵を処理する為の、最適な手順が、いく通りも検討されていた。たった今走り出した、なんとも気の利く少年は、全てを理解しているだろう、その要素を取り入れ、即座に予定を修正、再検討し、新たに導き出された答えは、確実に、一人の貴族を、闇に葬る事が可能なものであったのだ。
(……殺すべき時に、殺すべき敵、か)
いつぞやの、田ノ上老の言葉は、御用猫の心に、確かに刻まれている。人気の少ない上町、縁もゆかりも無い男との諍い、そして、興奮した様子の標的。
刈り取るには、絶好の機会であろう。
いくら、ダラーン バラーンという男が強いといっても、手段というものを選ばぬならば、遣りようは、いくらでもあるのだ。幸いにも、今の御用猫は、名誉騎士の姿である、少しばかりの挑発で、簡単に敵の心を操る事が出来るであろう。
しかし、御用猫は、苦笑を漏らすのだ。自虐的とも自罰的とも取れる笑いは、いつまで経っても前に進まぬ、自らの両足に向けられたもの、である。
(これは、参ったな……まさか、これ程に鈍っていようとは)
放っておけば、自身と身内を害する敵。ダラーンを殺さねば、彼は後悔する事になるやも知れぬ。
しかし、そうでは無い可能性もあるだろう。あの騒動から、随分と時間も経っている、今まで動きは無かったのだ、案外、彼奴はこれからも、ただの悪徳貴族として、生きてゆくだけやも知れぬのだ。
(……踏ん切りが、つかぬ)
これが、御用猫の、正直な気持ちである。先ほど、リチャード少年をして震えさせた殺意すら、今はぼやけて、寝ぐらを探し始める始末であるのだ。
「猫ちゃん猫ちゃん」
しかし、決断はせねばなるまい。
例え、切っ掛けが、悪魔の囁きであったとしても。
「きぃが、殺ってあげようか? きぃ、上手だよ、得意だよ、好きじゃ無いけど、楽しい楽しいよ? どーん、と、やって、ぱっぱっ、てさ、誰にも分かんないよ、いいじゃん、簡単簡単、楽ちんほいだよ、ゆってくれれば、きぃ、頑張るよ? 」
にぱっ、と笑う少女の笑顔は、太陽のように明るく、ひまわりのように鮮やかであった。ただ、その口の中に見える、艶めかしい赤い舌が、ちろちろ、と蛇のように蠢く様は、彼女もまた、異常者であると、そう、物語っていたのである。
なので、御用猫は、きっぱり、と決断する事が出来たのだ。
「今日は遠慮しとこう」
「えー、やだやだ、なんでなんで、すぱっ、と、やっちゃおうよー」
ぷくり、と頬を膨らませる水着少女は、御用猫の返答が不満であったのだろうか、ゆったり、と歩く彼の袖を、体重を掛けて下に引き、頭をもたれさせてくる。
御用猫は、彼女の膨らんだ頬を指で突き、空気を抜きながら、にやり、と笑うのだ。
「お前は、まだ知らないだろうがな、俺は天邪鬼なんだ……殺したかったならな「殺さないで」と、誘うべきだったのさ」
「えー、うそうそだー、そうお願いしてたら「ならそうしよう」とか言って殺さないんだよー」
「ほほう、その捻くれ具合、嫌いじゃないぞ? お前は中々、見込みがあるな」
今度こそ、素直な笑顔にて、御用猫は、ひまわりの頭をかき混ぜた。くしゃり、と目を閉じ、気持ち良さそうに肩を窄める水着少女は、しかし、唐突に彼の手を離すと、ととっ、と軽やかに走り出すのだ。
「ごうかーく! 猫ちゃん猫ちゃん、おっけおっけ! きぃに任せて」
一気に加速した彼女は、右に左に身体を振りながら、恐るべき速度にて、未だ混沌とした騒ぎの輪に近付くと。
「はいどーん! 」
一体、何をしたものか、ダラーンと、その取り巻き三人が、一斉に、横にずれた、のである。手も触れずに、成人男性三人を同時に動かすなどと、どのような呪いであろうか。
「うわっ!?」
「な、なんだ! 」
そのまま、彼らは通りの向こう側まで移動し、大きなサツキの生垣の中に押し込まれてしまった。まるで強風に煽られたような、激流に翻弄されたような、不自然な動きなのである。
「なんと、なんだ? 何が起こった」
黒狸の老剣士も、事態が掴めぬ様子であるのだが、瞬時に機転を利かせたリチャード少年が、アザレを促し、皆で御用猫の方に駆けてくるのだ。取り残されたのは、三人の、娼婦とおぼしき女性達である、その中の一人、アザレに良く似た黒金髪を持つ女性が、この騒ぎの原因であろうか。
「若先生! 」
「おう、とりあえず、此処から離れよう、そっちのおっさんも良いか? 詳しい事は、後でアザレさんに聞いてくれ……なんだ、リチャード、どうかしたのか? 」
何やら、御用猫の顔を見詰め、にこにこ、と上機嫌な少年なのである。何事かと訝しんだ彼であるのだが、その理由に、心当たりはないのだ。
(まぁ良いか……あまり、のんびりとも、していられないからな)
彼は思考を中断し、ダラーンの埋まる生垣から、反対方向に皆を誘導する。このまま東町へ抜け、田ノ上道場に向かうのが良いであろうかと。
「リチャード、マルティエからロシナン子連れて来い、道場に行くぞ」
「はい、若先生……僕は、どこまでも、若先生について行く所存です」
一度、頭を下げてから、少年は駆け出した。それにしても、呆れる程の全力疾走である、体力の方は、そろそろ充分であろうか。意味の分からぬ少年の言葉に、なにか納得のゆかない御用猫ではあったのだが、それは一先ず、横に置いておくしかあるまい。
「さっきのは、ちょいと厄介な手合いでな、悪いが、東町の外れまで移動するぞ、今の若い衆に、馬車を持って来させるから、それまでは辛抱してくれ」
「心得た、ならば礼も後で言わせてくれ、某は、シアン サバーカ、ラゾニアの騎士である」
ばたばた、と短い足を回転させるシアン老は、傍目には、少々、滑稽に映るであろうが、中々に元気な老人である。一方、早くも息の切れた様子のアザレは、サクラに手を引かれ、もはや早足と変わらぬ速度であった。
少しばかり、走る速度を緩めた御用猫に、つつ、と水着少女が近寄ってきた。そのまま、しばし逡巡していた様子であったのだが、遂に、うん、と頷くと、彼の耳に唇を寄せてきたのだ。
御用猫は、先程の、怪しい技についての話だと、そう、思っていたのだが。
「……猫ちゃん猫ちゃん、さっきのね、男の子ね、気を付けてね、ひめちゃんと、おんなじ目をしてたから」
「ん、リチャードか、どういう意味だ? 」
水着少女は、いかにも真面目な表情である。なので、彼も真面目に耳を傾けた。
出逢ってから、まだ間も無いのであるが、言葉の軽さとは裏腹に、中身の方は、まともな女であろうかと、御用猫は思い始めていたのだが。
「可愛いからって、手を出したら、痛い目に合う子なの、そーゆー気配、びんびん、してたよ、危険なの、しゅーどーは奥深いの、一度嵌ったら、ずっぽし、だよ」
「よし分かった、お前も駄目な女だ、期待した俺が馬鹿だったよ」
なんでなんで、と縋り付く少女を振り払い、御用猫は走り続けた。
頭の中では、後ろに続く親娘と、嶋村老との関係を、思い描きながら。




