未だ名も無き御用猫
特に問題はありませんが、シリーズの頭から読んでいただくと、より深く内容を理解できるかも知れません。
嘘です。
ご自由に読み進めてくださいませ。
ベベン
夜のォ帳がァ下りるころォ〜
耳にィ響くはァ、赤子の声ェかァ
ベベン
いンやァ〜、あぁァあぁ〜あれェはぁあァん
悪党ォどものォ〜笑い声ェ〜ィん
ベベンベベンベベベン
悪い奴ほどよく笑う
泣いて濡れるは弱者の性か
いんやお前ら、あれを見な
ほれェい、あすこにィ〜、見ゆるはァ〜あぁァ〜ン
ベベベベン
やくざなァ傷のォ、御用ォ〜猫ではァ〜ねェかいよォ〜
王都クロスロードといえども、深夜を二つも針が廻れば、その姿をがらり、と変える。
上町近いこの辺りでは、行儀良いものは、すっかり、と寝静まり。そうで無い者は、色街で朝を迎えるのだ。
もしも、未だに明かりが灯るならば、その下にて密やかに笑う者あれば、それは二択なのであろう。
すなわち、狩る者か、狩られる者か。
「モリヒロ屋、今宵の馳走、また格別であったぞ」
「有難き幸せにございます」
石造りの質素な館は、その外観とは裏腹に、豪奢な内装の建物であった。館の主である、モリヒロ ハイルダーは、近年、北町水路の修繕事業にて、莫大な利益を得た、所謂成り上がり、であった。
向かいに座る男は、北町の、まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた水路網、その管理業務を担っている、シゲン子爵。
こうした公共事業に、クロスロードは力を入れていた。陸路水路は、大都市の生命線であるのだから。その為、定期的な補修や新設移設は必要不可欠であり、それはまた、多くの雇用を生み出す事にもつながるのである。
「ですが、お奉行様……まだ、甘い物を召し上がっておられぬのでは? 」
惚けたような表情にて、モリヒロ屋が笑う、ほほぅ、と手を揉むシゲン子爵は、下卑た笑いを、その顔に張り付けた。
「どうにも、酒が少ないと思っていたが、なるほど、そういった趣向であったか」
「これは……お奉行様もお人が悪い、あれ程の酒精、並みの方なら、すでに倒れていても、不思議ではありませんよ」
笑いながら、モリヒロ屋は立ち上がり、ころ付きの衝立を壁に寄せ始めた。大部屋の間仕切りの向こう側には、並みの部屋ならば、それだけで一杯になりそうな大きなベッドと。
「んぅ!? んむーんむぅー! 」
その上にて、じたばた、と捥がく、まだ年若い黒髪の女。猿轡を咬まされ、両の手首は、ベッドに括り付けられている、短いスカートから、すらり、と伸びる長い足は、いかにも健康的であり、その美しい顔と相まって、何とも艶かしい色香を放っていたのだ。
しかし、縛られた女性にとっては、堪ったものではないだろう、この状況は、決して、彼女の合意を得たものでは無いのだろうから。
「なんと、これはまた、滅多に見ぬ程の上物ではないか」
「ええ、ええ、こちらも苦労しましたので……もちろん、正真正銘、生娘にございます」
「ふふ、これは、恩返しも高くつきそうだ……うむ、これは、独り言であるが、近々、また、街の拡張工事を行うのだ……私の裁量でな、業者を決める事も出来よう」
上着を脱ぎながら、シゲン子爵は呟いた、もう、モリヒロ屋の姿は、目に入っておらぬだろうか。
「……見積もりならば、すでに」
「ふふ……そちも悪よのぅ」
視線は合わさずに、うふふ、うふふ、と笑い合い、モリヒロ屋は接待部屋を後にする。
(……金はかかるが、それ以上の儲けも、確かにあるのだ、面倒手間だが、もうしばらく付き合わねば、なるまいか)
利用できるだけ、利用して、モリヒロ屋は、更に上を目指すのだ。彼の目標は、内務大臣カエッサである、平民から成り上がったカエッサ大臣は、クロスロードで商いをする者にとって、この上なき手本であるのだ。
表も、裏も。
「モリヒロ ハイルダー大臣か……悪くない」
「違うだろ」
どきり、と、モリヒロ屋は飛び跳ねる。余りに驚き過ぎたため、手持ちの呪い角灯を取り落としてしまう。
がらん、と転がるそれが、背後の男を浮かび上がらせた。
「お前の名は「こつかけ」のジンキチ……だろう?」
「ご、御用……猫……」
噂にしか、聞いた事はない、しかし、間違いは無いだろう。
黒髪黒目、中肉中背、ただひとつ目立つ要素は、顔面を斜断する、大きな向こう傷。
およそ、その首に賞金のかかった者ならば、クロスロードに潜むならば、誰もが知る名前、情け無用の御用猫。
「さて、どうする? 歩くか、首か」
「だ、誰……」
叫ぼうと開いた口に、太刀の切っ先が差し込まれる。それは、首を振れども、後ろに下がろうとも、ぴたり、と定まり、その位置を変える事が出来ぬのだ。
かちかち、と、モリヒロ屋の震える歯が、刃を鳴らす。ひとたび御用猫に狙われたならば、未だ、逃げ果せた者は無い。
「か、金なら、幾らでも……女も、地位も、そうだ、儂の用心棒に、なってくれぬか? 共に、上を目指……あぎっ」
ぐりん、と、口内で太刀を回され、モリヒロ屋の舌が、削ぎ取られる。彼は尻餅をついて倒れ込み、這いつくばって逃げ出した。
(こんな、こんな所で、終わってたまるか……これからなのだ、今からなのだ)
外にさえ出れば、屈強な手下達が、この野良猫を始末するだろう。後悔させてやる、睾丸をもぎ取ってやる、泣き喚いて、命乞いさせてやる。
「どうする、歩くのか? 」
太刀を肩に、悠々と付いてくる賞金稼ぎを振り返る事なく、モリヒロ屋は四つ脚にて、転げるように階段を降りる。遂に玄関から飛び出した男は、しかし、目にしたのだ。
かつて、盗賊団として荒稼ぎしていた頃からの配下達、命知らずの荒くれ達。その、皆が皆、涙と鼻水、そして呻き声を撒き散らしながら、のたうち回っている光景を。
ただ一人、倒れ込んで動かない副頭の上には、白いワンピース姿の、異様な刺青を全身に彫り込んだ、異様な少女が跨っている。ざくざく、と副頭の身体に針のような物を、何度も何度も突き立て、引き攣った様な笑い声を上げているのだ。
「ひきっ、きっ、こいつ、強かった、やった、たのしっ! 」
けたけた、と笑い続ける、黒い死神を前に、膝をついたモリヒロ屋は、口の端から血を流し、ただ、呆然と、それを眺めるのみであった。
「……もう、歩かないのか? 」
背後からは、黒い悪魔の声。
「こつかけ」のジンキチは、ゆっくりと振り向くと、自らの首に、とんとん、と、手刀を当ててみせる。
「けっ……この悪魔め……ひと思いに、殺れってんだ……」
ごろり、と、転がるそれは、不敵な笑みを浮かべていたろうか。
「……黒雀、死人を辱めるな」
愛刀の血糊を拭いながら、どこか沈んだ顔で、御用猫は、ぽつり、と零す。
人を斬る事に、もはや躊躇は無い、しかし、躊躇の無い自分が、御用猫は、堪らなく嫌いであったのだ。
二階から、あれはシゲン子爵であろうか、やけに高い悲鳴が響く。どうやら、みつばちの方も、片が付いたのだろう。
(あちらは、傷を消してからだな……あぁ、なんと、面倒な……)
溜め息をひとつ、ふたつ、吐き出すと、御用猫は歩き始める。
いつか、この吐息にまで、血臭が混じるのではないだろうか、などと思いながら。
何の因果か野良猫稼業
未だ名前もありゃしない
相も変わらず血に濡れて
爪を舐めれば鉄の味
御用、御用の、御用猫