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ネッシー教授の反逆  作者: 奏ちよこ
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第四章「ロマンと死」

   40


 園田教授は顰め面であった。


 お気に入りの木製デスクにでん、と本日も構えており腕組みしている様子からも一見すると平常運転に見えた。


 だが、その横顔をちらと伺った田崎は、密かに頭を抱えた。


 とても、機嫌が悪い。


「ちょうど七日前ですか、環境監視員の松島さんという方が琵琶湖で転倒、更にはその際に受けたショックが元で現在も意識不明状態という事案が起きました。この件は、ご記憶にありますか」


「ある」


 刑事の問いに、最短語彙を使って答える声は、田崎の予感を的中させていた。

 しかも、見上げた壁時計の時刻は午後十二時三六分。十二時半からは、教授のランチタイムである。


 意外な事に、自ら決めた日々のスケジュールを几帳面に守る教授は、その予定が予定通りに進まないことを心の底から嫌悪する性質であった。


「どうしたんですか、田崎先輩」


 頭を抱える田崎に弁当を抱えたフロッピーがすり寄って来て小声で尋ねた。


「教授さ、腹が減ってるんだよね。多分」


「え、まじですか。あちゃー。機嫌が悪そうですもんね」


 そう言って他人事のようにトマトを口に入れたフロッピーに、田崎はため息をついた。


「多分さ、美味しそうな弁当に八つ当たりが来ると思うから気をつけてね。フロッピー君」


「んぐっ」

 そう言われたフロッピーは、田崎の忠告に従うと言うように片手で敬礼を返して、残りの弁当をかき込んだ。


 弁当を隠せ、という意味で告げたのだがどうにも正しく伝わっていない。


 刑事らの質問を受ける教授から、鋭い視線がフロッピーの弁当に向けられたのは気のせいではない。


 田崎は、胸の内で十字を切った。



「その時、被害者である松島さんのスマホに残った画像を見てビッシーだと断定したのは、あなただと聞きましたが。教授」


「うむ」


 短く答える教授の眉間は、これ以上は寄せられないレベルに皺を刻んでいた。


 その断定的な返事に、顔を見合わせた刑事らの一人が口を開いた。


「私らも見ましたがね、あの画像のどこからビッシーだかを言われたんです? どう見ても、ただのピンぼけにしか見えないんですが。船だとか、ボートだとか、そんなもんじゃないんですかね」


「なんだと?」


 不機嫌度マックスの教授から、疑問系が飛び出した。


 それを聞いた花子は手のロザリオをカウントし始め、両隣にいた星とメガネはただならぬ気配に寒気を感じた。


 本来は祈りのはずだが、どう聞いても呪詛に聞こえるし、半眼の目が刑事らを睨んでいるのだが、少々どころではなく不気味である。


「いえ。実はですね。あなたに画像を持ち込んだ駐在員から話を聞いたんですが、画像を見るなりビッシーだ、と明言されたとか。特に分析とかそういったことはされていない、と。それは事実ですか?」


 背後の刑事から発せられるあからさまな疑いの空気を手振りで制した刑事が、一拍を開けてそう問うた。ミス研一同は、その成り行きをただ見守るのだが、なにやら芳しくない流れであることは、刑事らから発せられる空気で理解が出来た。


「うむ。特に検査などはしておらん」


「科学的な裏付けは一切ない、と。そういう理解でいいですか?」


「何を持って科学的な裏付けと定義するかは意見が分かれるところであるが、わしの場合はネッシー始めビッ」


「いずれにしろ科学的な根拠がないのは確かだ、違いますか」


「何が言いたいんだ、貴様ら」


「ちょっ、教授! 警察に向かって貴様はないんじゃ……」


 勇気を出してそう口にしたのは、やはり四年の田崎だったのだが、改心の一言もスルーされれば虚しいだけである。


「我々は、二つの事件を同一犯の仕業――つまり、あなたがビッシーだと言い張る何者かの犯行だと思っています」


「だったらビッシーをさっさと捕獲したらどうだ。専門的な知識なら協力してやらんこともないが、訪問日時と相手方の都合を無視するような国家権力に加勢してやる気はないぞ。やるなら自衛隊でも動員して勝手にやれ」


「おい、あんた自分の状況がわかってんのか……!」


 教授の言葉に、後ろの刑事から声が上がったが、それは教授に対峙する刑事によって遮られた。


「今や世間は、環境監視員の事件と殺人事件、この琵琶湖で立て続けに発生した事件の犯人をビッシーだとして騒いでいる」


「だからさっさとビッシーを探索すればいいだろう。こんなところで道草を食っとらんで。税金の無駄遣いだ。それとも何か、わしに専門的な見解や捜査、探査協力を求めるというなら話はわからんでもないが」


 不敵に笑みを浮かべた教授をやや見下ろす形になる刑事は、それまで浮かべていた微笑を消した。


「ビッシーなど、存在しない。馬鹿げた空想の産物だ。真犯人は別にいる。だがあなたが奇妙な証言をしたせいで、世論はおかしな方向へ導かれている。更に言えば、おかげで警察にも意味のわからない問い合わせが多数来ている始末だ。今日はただ、忠告をしに来ただけですよ」



「忠告だと?」


「あまりホラを吹くと、後始末に困りますよ。地位もおありでしょう」


「どういう意味だ、貴様」


 教授の返事に、息を吐き出した刑事はもう一人を促して戸口へと向かった。


「表にマスコミが出張っていますよ。ご自身でまいた種だ、存分にご対応ください。教授」


 去り際にそう言い残して、刑事達はミス研を出て行く。


「ちょっ、ちょっと、待ってよ。そんな一方的に!」


 思わずそう言いかけた星だったが、声が届くより前に、ドアが閉まった。


 刑事の一人が、床に落ちていた呪詛人形を踏んで行った残像が、目に残っていた。


   42



 雨音が強さを増し始めたのは、屋内にいてもわかっていた。


 少し前までは、喫煙ルームがあった場所も今では自販機と観葉植物が置かれるだけである。立ち寄ったその場所で、今更喫煙が可能になるわけではないのだが、なんとなく休憩をと思った時に足がここへ向かってしまっていたらしい。


「……習い性ってやつかね」


 自分自身も禁煙して何ヶ月だ、と思い出すようにして苦笑いを浮かべながら、ポケットに向けながら空中で行き場を失った右手で首の後ろをかき自販機でコーヒーを買う。


 似たような事を幾度となく繰り返している自覚はあるのだが、決まって無意識に近いタイミングでそれをやらかすのだから、始末が悪い。


 またやった、と気付いた時には、自らの疲労を知らされることになる。


「ふう」


 冷えたコーヒーの方が気分だったのだが、まだ季節が春のせいだろうか。


 暖かいコーヒーしかなかった。


 まあ、仕方ない。そう胸の内で零してから、置かれたどこかの病院の待合室のような長いすに腰を降ろした。


「ここでしたか、山路さん」


 声に顔を上げれば、後輩の刑事がそこにいた。


「……なんだ、何か出たのか」


 腰を降ろしたばかりなのだが、と顔に浮かべながら問えば、後輩は僅かに首を振った。


「いえ、そういうわけじゃないんですけど……いいですね、コーヒー。俺も休憩にします」


「暖かいやつしか、まだないぞ」


「いいんですよ、なんか肌寒いですし。雨も降り出しましたからね」


 後輩が言葉を返し、その背景に雨音があるのを今更ながらに気付いた。


 雨音があるような気はしていた、はずだったのだが注意は全く注がれていなかったらしい。


 疲れてるな、俺は。


 苦笑いにもならないため息をついて、缶コーヒーを一口飲んだ。


 自販機から缶が出される音に、プルタブが開く音。それらだけが雨音に重なっている。


 沈黙を破ったのは、後輩の声だった。


「あれ、甘ったるいと思ったら、カフェオレだわ、これ」


「あほ」


 思わずそう言いながら、笑みが浮かんだ。残念そうに見間違えたパッケージを見ながら、後輩が長いすの端に腰をかけた。


「疲れてるんですよ、俺も」


「ふん、お前もか。大した成果が上がらんのが、疲れの原因や」


「そう思います。けど死因があれじゃ」


 後輩の口から出た愚痴の理由をよく知る山路もまた、鼻から盛大に息を吐き出した。


「……被害者の娘が彼氏とデートに来たのが、遺体発見の前日や。同日の夕方には行方不明やと家族から届けが出ている。翌日の午後三時に、被害者が発見されたんは、失踪したと思われる場所のすぐそば。司法解剖の結果、死亡推定時刻は失踪当日の午後八時だ。死因が特定され、容疑者を絞りたいところや、が」


「それなんですよ。死因は、心臓麻痺って……二十代頭の健康な人間がそうそう心臓麻痺になります? それに、本当に心臓麻痺やったら、どうして他殺事件になるのか……俺にはよくわかりません」


「そう言うな。直接的な死因が心臓麻痺なだけで、明らかな打撲痕があったのは事実だ」


 後輩に言い返しながら、山路もまた逡巡する頭の中で釈然としないものを感じていた。


 当初、打撲痕と失踪の状況から、交際相手である青年が第一容疑者とされたのだが――――


「痴話げんかがエスカレートしての、DVと殺人でいいと思うんですけどね、俺としては。そう考えるとスッキリするじゃないですか。大体、彼女が姿をデート中に消すなんておかしいでしょう。元から不仲だとか喧嘩が絶えないとか、そういう事情があったと考えるのが筋ってもんでしょう」


 後輩がそう愚痴り、ぐびりと缶コーヒーを飲み干した。


 発見された遺体にあった、無数の打撲痕は死亡と同時刻もしくは近い時間の経過しか認められなかった。


 そして被害者の身体に残された打撃痕は直接の死因ではなかった。死因は、心臓麻痺。


 だが――――


「……問題は、死因だけじゃない。過去にも、心臓麻痺が死因の他殺事件は数多とある。アホ教授が言い出したビッシー出現説に乗っかって、殺人を犯した犯人は、今ものうのうとしてるんだ。メディアがいもしないビッシーを追いかけてる間もな。一刻も確保したいが……司法解剖で出てきたアレが最大の問題だ」


 手の内にある缶コーヒーに視線を落とす山路は、そう口にした。


 遺体解剖の際に摘出されたのは、謎の物質としか表現されないものだった。詳しくは分析を待たなければならないが、金属ともプラスチック状とも呼びがたい表面にざらつきのある、鈍色のプレートのようなものだった。


「謎の物質、ですか。俺はてっきり、それの正体を聞きにネッシー教授を訪問したのかと思ってました」


「なんであのプレートの正体をアホ教授に聞くんだ」


「いえ、もしかしたら犯人がビッシーの張りぼてでも作って、驚かせては殺害しているーっていう愉快犯説もあり得る線かな、と思ったんですけど」


「お前、ふざけてるのか」


「すみません。じゃ、なんであの教授にわざわざ会いに行ったんです?」


 飲み干したコーヒーの缶を、缶専用と書かれたゴミ箱に捨てる後輩の姿を横目に見ながら、山路は口を開いた。


「お前は知らんだろうが……あの教授はな、有名人なんだよ。自分の学説を立証するためには法律くらい平気で破る、どアホでな。だから……確認に行ったんだよ」


「確認て、なにを?」


「あのアホが、殺人鬼じゃないかとな」


 山路は残りのコーヒーを飲み干して、立ち上がった。


 サッシに、雨粒が斜めに線を描いていた。


   43



 ミス研を出た時にはまだ、丸くアスファルトに水玉模様を付けるほどでしかなかった雨脚が、優羽の家に着く頃には水たまりを作ろうとしていた。


「ひゃあ、すごいね、雨」


「よかった、優羽が予備の折りたたみ傘を持ってて」


 マンションの玄関先、その屋根下に駆け込んで、二人はさしてきた傘を畳んだ。見上げる空は暗い。


「すごいね、真っ暗だよ。まだ五時なのに」


 晴れた日であれば、もうしばらくすれば茜色が西の空に広がるはずの時刻であった。


 星は止まる気配のない雨が、マンションの正面玄関口の小ぶりな屋根から雫を落としているのを見上げて、ぶるり、と寒気を覚えた。


 四月の雨は、思うよりも冷えを運んでくる。


「寒いね」


「うん、早く中に入ろう。暖かいもの飲みたいよ、ね」


 水滴を飛ばした傘を手早く畳んで、優羽がそう言い、星は頷いた。自動ドアを潜れば明るい照明に包まれた小ぶりだが瀟洒な雰囲気のホールが現れ、手にしたタオルハンカチで肩先や前髪を拭きながらエレベーターへと乗り込みながら、星は黙り込んでいた。


 マスコミの追跡は、執拗だった。


 帰宅しようとバス停に向かって歩けば、今朝と同じく正門の周りに朝と同じバンがいる。裏道もなにも、大学の敷地外から出ているのは山道だけだし、公共交通手段はバスしかない。


 帰宅できない、と戸惑っているところに優羽が通りかかってくれたおかげで、星はなんとか脱出に成功したのである。


 多分、ああいう人達が本気で調べれば自宅なども知られるのだろうから、アパートに帰るのも大変だろう。


 道すがら簡単に事情は説明したのだが、優羽から、じゃあうちに来たら、と提案してくれたから心の底から持つべき物は友人だと思ったのである。


 見慣れた階の、優羽の部屋にたどり着いた星はタオルを手渡してコーヒーでいい? などとしゃべりながら小さなキッチンで手際よく動く優羽に返事を返して、リビング兼ベッドルームの部屋のラグに荷物を降ろした。


「……はあ」


 そこで、ようやく一息をつける気分になれた星は、息を吐いて腰を降ろした。身体はさほどではないのに、にひどく疲れたと思った。


「はい、ミルクたっぷりコーヒー。カフェオレだよね、もうこれ」


「あ、ありがと」


 にこり、と小さく笑みを浮かべて優羽はカップを手渡し、その一口はほわりと身体の中から暖めてくれた。ほう、と星の顔から緊張が溶けて緩むのを見ていた優羽は、自分のカップを手に向かい合うように座るとテーブル上の籠からマーカーを取り上げると、マイクのように星に向けた。


「ていうかー。そろそろ話してくれますか? 八城星さん。独占スクープをくださいよねー」


 ごふ、と咳き込みそうになった星は優羽を見返すが、にやりと笑っていた。


「ちょっ、優羽!」


「あはは、じょーだんじょーだん。だってさー、ああいうのって見る機会が珍しいんだもーん」


「……いいよね、気楽で……」


「当たり前。だって部外者だから。ワタシ」


 ちろり、と見返すが実に楽しそうに優羽は笑っていた。


「はーあぁ。なんでこうなっちゃったのかなぁ。ついてないよ、もう」


 コーヒーの温もりを手の中に感じながら、愚痴がこぼれる。


「ツイてないのは間違いなさそうだけど、謎があるよねー、ミステリーが」


「ミステリー? ああ、わたしの個人情報漏洩?」


 こくり、とカフェオレ的やわらかさのそれを飲み込んで、星は尋ねた。


「うーんと、それも含めて。まずは星の撮った写真をネッシーだって主張してるのはメガネ君だっけ? とにかく彼だけなんでしょ。引きずり込まれたミス研の変人教授ですら、ただのピンぼけだって言ってると」


「うん、そう。立派なピンぼけだって言われた。余計なお世話だよ、ほんとに。あの大風さえなければ、日の出がもたらす陽光と混ざり合う闇っていう絶妙に美しい一枚が撮れたはずなのに」


「わかった。惜しい気持ちはわかるから、ね。とにかくメガネ君はただのネッシー好き男子ってことでいい? 大分ズレてるっぽいけど」


「うん。変人メガネでいいよ」


 相当な言いようであるが、メガネが不在なので誰も傷つく者はいない。


「よし。じゃあ変人メガネ君はただの変人だから除外として、その写真の存在を知ってるのはサークルのメンバーだけなわけじゃない? 星の話だと」


「そうだよ、だって、ただのピンぼけだし」


 そう答えながらショルダーバッグをちらりと横目で見た。どうにもならないピンぼけなのだが、フィルムが勿体なかったという諦めの悪さから未だにバッグに入っている。


「そう。ていうことは、星の写真にネッシーっていう付加価値があると知っているのは、メガネ君、三年生のトイレの花子さん、太め妖怪大好き男子、四年生のデカい教授秘書みたいな人、それからネッシー教授ってわけじゃない」


「なんだか色々、ぴったりで笑える。うん、そうなるね」


「てことは同時に星の情報を漏洩させた人間もその中ってことになるでしょ? 他の人は知らないわけだし?」


 そう言った優羽が、ブラックらしいコーヒーを一口飲んで星を見返した。


「うーん、それはてっきりメガネだと思ったんだけど……だってほら、メガネはビッシーの存在を公に信じさせたいわけだし……違ったっぽいけど」


「私、メガネ君じゃないと思う」


「あ、そうなの?」


「うん。だって、星の話だとメガネ君って、子供の頃にネッシーに出会ってそれから信じ続けて遂に変人化してるわけ。てことはメガネ君にとってネッシーはどっちかというと憧れとか夢とか、そういう大事にしたい対象っぽいじゃない。そういう相手に、殺人鬼なんて汚名を着せたいとは思わないでしょ」


 なるほど。


『僕が、出会ったんだ』


 確かに、そう言ったメガネはどこか嬉しそうに見えていた。


 優羽の話しぶりが段々と熱を帯びてくるのを感じながら、星は頷いた。


「でも、だったら余計わかんないよ。花子先輩もフロッピーって呼ばれてる先輩も、田崎先輩も、そんなことして何の得もなさそうだもん。花子先輩は黒魔術でフロッピーと田崎先輩は妖怪でしょ、専門も違う」


「そこなのよ、そこ。問題は流出させた人物の目的なのよ。わざわざ星が所持している写真がネッシー? ビッシー? だとして流出して、更に殺人鬼扱いをされるような言い方をマスコミに対してしなきゃ、ここまで大きく取り上げられたりはしないと思う。てことは、ビッシーを環境監視委員さんの事件や殺人事件に絡めてとにかく有名にしなきゃならなかった人物じゃない?」


「ビッシーを殺人鬼にされても、とにかく有名にしたい人物……」


 優羽の言葉をくり返しながら、星は手の内でコーヒーが冷えていることに気付いた。


 雨音が満たす一瞬の静寂の中で、なんとなく嫌な予感がしていた。

45




 朝日のない朝は、暗い。


「……はあ」


 ため息をもらしたのは、わざとらしかったかもしれない。


「なんだ」


「あ、いえ。よく降るなあ、と思って」


 ミス研の自席、となんとなく定まっているデスクで資料のまとめをしている格好で田崎が答えた。


「ふん」


 それをちらとも見ずに、教授は自らのデスクにでん、と構えているが眉を限界値まで寄せている。


 暗雲は窓の外だけではない。


 刑事達が訪れ、去ってからというもの、園田教授はそれまで以上に不機嫌極まりなかった。


 どういうことかと動揺し警察に憤る二年の霜月や弁当を詰まらせて顔を青くしたフロッピー、


黒魔術で呪いを滋賀県警に掛けようとする花子らだったが、当の教授が何も返答らしき返答を返さない為に部室内の空気は煮詰まり、二進も三進もいかなくなった。 



非常に宜しくない空気を察した田崎が「とにかくここは僕に預けて」と一先ず全員を家に帰し、田崎自身も腕組みをしたまま動かない教授を残し、雨が強くなる頃には帰宅した。


 ああいう状態になったら、誰がなにを言おうが無駄であると嫌になるほど知っていた。

 園田教授の何が変人たらしめているかと分析すると、ありすぎる程の証言やら事例が噴出するのだろうが、少なくとも田崎は支障なくサークル活動を続けられる程度には熟知している。


 年の功、というやつである。


 まだ大学四年なんだけども。


 教授のお陰で世間の荒波と言われるウェーブの、一端は知り得た気がしていた。


 余り有難くはないのが不思議である。


「朝からこちらに教授がいるのは、珍しいですね。なにか調べ物ですか」


 今日の講義は午後からだ、と知っていた田崎はなんとなくここに来てみたのだが、驚いたことに教授が既に来ていた。


 ワイシャツが昨日のとは違うから、ずっといたわけではなさそうだが……


「次の未確認生物学会は秋だ」


「あ、そう、でしたっけ。確か、シカゴ大学から有名な教授が夏前に来日してどうとか前に言われてたような気が」


「アホで有名なだけだ、あやつはただのアホ教授だ」


「あほって……はあ」


 恐らく一部では、園田自身もそう呼ばれている気がするのだが、田崎は微妙な愛想笑いを浮かべただけでやり過ごした。

「夏前に奴が来るというのは、コレだ」


 そう言った不機嫌指数が高いままの教授が、デスク横のボードに押しピンで貼ってあった紙を外して、ぽい、と投げた。


 少々興味を引かれた田崎が、あまりな扱いを受けた紙を床から拾い上げて見れば、そこには水棲生物研究フォーラム、とあった。


「水棲生物研究……夏前っていうか、もう来週じゃないですか。あ、登壇者リストに出てる、この人ですね。フィル・ヤマガタ教授。確か、ネッシー研究でもISC(国際未確認動物研究会)のメンバーでしたっけ。論文は僕も持ってますよ、えーっと確かここらに……」


「知らん。奴の論文など必要ない」


 書棚に向かい、ファイルフォルダーを辿り始めた時に、教授が立ち上がる物音がした。相変わらず不機嫌なままの教授を振り返った田崎は、口を開きかけて閉じた。

 園田教授がドアに手を掛けたところで、意を決した田崎が再び口を開く。


「ビッシーに掛けられた殺人容疑は、どうするんですか」


「なんだと」


「二年の霜月が相当のショックを受けていますし、他のメンバーも。警察の捜査にも支障があるから、刑事さんたちもああして来てたくらいだと思うんですよ。あの被害者のスマホにあった画像をもう一度検証して科学的な根拠とかをきちんとマスコミに公表して、ビッシーは事件に無関係であると発表できたら一番いいと思うんです。教授ならそれが出来るんじゃないかと思……」


「くだらん。わしはコーヒーを飲みに行く。あとは頼むぞ、白瀬」


 言いかけた田崎の言葉を遮ってそう言い残した園田教授は、さっさと出て行ってしまった。


 閉じられたドアからは揺れる呪術人形が田崎を見返していた。


「教授ー……あーもう、どうすんだよー」


 脱力する田崎のため息と、雨音が部室にあった。

   46


「あ! 八城さん! 撮影者である八城さんです! お話を聞かせてください! 本当にビッシーはいるんですか! 人食いという話も出てきていますが、詳しくお話を……」


 わっ、と向かってくる人々の視線と声に、隣を歩いていた優羽が星の手を引いた。


「走ろ、星」


「うん」


 フラッシュが炊かれていた。カメラを向けられる状況が、こんなにも辛いものだとは思わなかった星は、身体をすくめるようにして走った。


 なんでわたしが逃げなきゃいけないのか、とか。


 これも全部あのネッシーバカメガネにミス研なんて場所に引きずり込まれたせいだ、とか。

 胸の内では文句と腹立ちとがぐるぐる回っているのだが、最優先事項は現状から逃れることだった。バシャバシャと水しぶきを上げて走った先、講義棟の端に駆け込んでようやく二人は足を止めた。


 濡れた傘を畳み、急いで講義棟に入れば流石に構内までマスコミは入ってこないはずである。


「しかし、しつこいね。他にニュースがないのかって」


「ほんと」


 腹立ち紛れに優羽が言い、星も頷いた。


「ま、人の噂も七十五日って言うし、もう少しの我慢だよきっと」


「そうだといいなぁ。あ、わたし一応ショップに行ってみるよ」


「そう? バイト先にも来てるんじゃない? 連中」


 怪訝な顔をした優羽の心配は有難いのだが、星は星で頭に望遠レンズの事がある。

「うん、それでもまあ、もし来ないなら普通にバイトしたいし」


 まだカメラ本体を修理出来ていない今、少しでも稼ぎたいのである。


「わかった。また帰る時はLINEしてよ。一緒に帰れば大丈夫だし、きっと」


「うん。そうする。ありがと」


 それでも優羽の励ましと心配が嬉しく、微笑み返した星が手を振り返し、廊下を歩き出した。


 窓の外は相変わらずの曇天で、降り続く雨は勢いを衰えさせていない。このままの勢いが続くことは希だろうけど、水害が絶対に起きないわけじゃない。

「……早く止めばいいのにな」


 外を見てそう、口にした時であった。


「あの、すみません」


「はい?」


 掛けられた声に、星は足を止めて顔を向けた。


「八城さんですよね、ビッシーを研究うしてるっていう……ミステリー研究会の。テレビで見たんです。写真を撮ったって」


「えっと、写真は、はあ、はい、一応そう、いうことになってる……だけっていうか」


 話しかけて来たのは、カジュアルな服装の星よりも幾つか年上と思われる青年であった。


 外部からの来訪者であることを示す、ビジターカードを手にしている。


 曇天のせいか、顔色が芳しくないその青年は、少し戸惑うように言葉を選びながら口を開いた。


「ビッシーの殺害方法を、教えてくれませんか」


「は?」


「彼女を殺された、リベンジをしたいんです」


 青年の瞳は、洞を抱えたような暗さで星を見ていた。


 どこか遠くで、雷の音が聞こえた気がした。








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