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ネッシー教授の反逆  作者: 奏ちよこ
4/5

第三章「事件は、悲劇の始まり」

 所在不明と同伴者である男性から届けが出た翌日。

 

 発見された女性は、水面から腕だけを出した格好で事切れていた。


 四月にはまだ早い、明るい色の七分袖の腕がにょっきりと湖面に飛び出した様子は、異様だった。


「……身元は」


「はい、第一発見者が被害者の交際相手のようで、今事情を聞いてます。しかし、えらいことですね」


 四月の湖畔に張られた黄色い非常線は、日常にある当たり前の風景を一変させた。


「第一発見者が交際相手ねえ。鑑識がなんと言うかやけど、こりゃ匂うな」


 湖から引き上げられビニールシートに置かれた遺体は、明らかにその死が予期しないものであることを物語っていた。


「……そうですね。自殺やとしても、あんな風にはならんでしょうから。硬直もしとらん手がね」


 死後硬直のまだ始まらない、死体の右腕はスマホを握りしめていた。


「左腕は水上に、右腕はスマホを握りしめて、か。一体こりゃ、どういう状況だ」


 刑事らが口にする疑問の向こうでは、鑑識が現場から得られる物証と状況の精査を行っている。


「……なにか、スマホに犯人の形跡とか言い残したことなんかが残ってるとええんですけどね。なにしろ、思いっきり水没してますから」


「どこまでデータが取り出せるか、やろな」


 鑑識のメンバーが行き交い、推定死亡時刻から死因らの情報を収集してゆく光景がを、高度を下げ始めた雲が陰らせてゆく。


「まだ若いのにな」


 視界に入る遺体は、まだ二十代に入ったばかりの女性だった。



 雲行きは、いずれ雨に変わるだろうと思われた。


   23


 桜の終わりとは、桜色との別れと共に緑風が麗しい季節の訪れを意味する。


 大型連休の前でもあるこの時期は、ただでさえ地に足の付いていない連中の頭をふわふわと散り去ったたんぽぽの綿毛のように、軽くしていた。


 とある女子大学生、約一名を除いて。


「ちょっと、どういうことなのよぉ」


 八城星やしろあかり、今年二十歳になる大学二年生が眉を寄せていた。


「どうって、あはは。仕方ないよね。あはは」


 向かいに居るのは、資料整理と称して教授のデスク上に積み重なった写真だかファイルだかの山を、崩れ落ちないようにと整えるべくどこから手を触れるべきかとテルミン演奏家のような怪しい動きを繰り返している、メガネである。


 間違えた。



 メガネを掛けた地味学生、霜月陽しもつきあきら同じく二年生であった。だがその視線は微妙に星の目を避けており、ビミョーに逃げたいらしい事が星にも伝わっていた。


 苛つく。


「誤魔化すのもいい加減にしてよ、メガネ。これを、一体どういうことか説明して、って言ってんの」


 バン、とソファ前のコーヒーテーブルに置いた地元新聞を平手で叩いた音が、部室に響いた。その音に、びくり、と肩を震わせた地味メガネ、あいや霜月陽はおずおずと星が鼻の穴を少々広げながら示した、地元新聞へと視線を向けた。


「……あ、それね、うん。確か、次の市長選は投票に行こうねって書いてあったね。大事だよね、選挙権は使わなきゃ、ほら若者が政治離れしたらダメだって本当だと思うし、人の名前もちゃんと覚えるべきだと思うんだ。ところで僕の名前は霜月ってい」


「そんなことは聞いてない! ビッシー写真を撮ったら賞金だって言ったよね! だからミス研に入部しろって! なのに、なのに、賞金は取りやめってどういうことよ! 応えろメガネ!」


 そう。


 星が指し示している地元新聞には、ビッシーを目撃したレジャー監視員、松島氏の容態が未だ優れない事に配慮してビッシー目撃への賞金制度は当面の間、自粛するとの記事があった。


 その記事の概要は、既に読んで知っていたメガネは、いち早く逃走を試みたのだが、時既に遅し。


 飽きもせずに逃走を試みる霜月メガネの視線だったが、やはり敵はそう簡単には諦めない。怒りが増したせいだろうか。ショートヘアからなにやら異様な気配が漂ってくる気さえ、する。


 同じ部室内には掃除と称して我関せずを貫くフロッピーと、状況は感知しているのだろうが気にする素振りもない四年生の田崎―こちらは読書であるが―、更に言えば、どデカいデスクに居座り今日も愛好するカールを堪能しながら


何やら天井を見上げている白髪のオールバックだけである。


 あまり、というか完全に距離を置かれており、助けを期待できそうな人間は、ここにはいない。


 視線を室内一周旅行から帰還させてみれば、目の前には怒りオーラをぶちまける女子大生が約一名である。


 もしかしてこれは、妖気というものだろうか。


 これは、もしや妖怪担当であるフロッピーに任せるべき事案ではないだろうか。


 もしも星に何か怪が取り憑くとしたら、一体なんだろう……そんなどうでもいい妄想で現実逃避を試みたのは、メガネの防衛本能だったのかもしれない。


「え、っと……あはは。いやあ、お役所も節約なのかなぁ。節水節約節電に節子って言うじゃない」


 へらり、と笑って誤魔化そうとした時だった。ぷちん、と何かが切れるような音なき音が聞こえた。


「こんのぉ、ふざけるなぁ!」


 次の瞬間である。メガネは振り上げられた拳と、メガネの寿命が意外に短く終わる危険性を、瞬時に理解した――――時だった。


「教授! 教授はおらぬか!」


 バコン、とえらく勢いよく開かれたドアの向こうから、おかっぱ頭が登場したのである。


「あ、あれ、花子せんぱい? どうしたんですか?」


 三年生の花子、主に呪術専門である彼女が血相を変えて現れ、一同の意識は自ずと彼女に向けられた。


 艶々とした黒髪が、走って来たせいだろうか、わずかに乱れている。


 半開きが常である目が、見開かれているのも常のことではない。


 助かった。


 だが、メガネ地味がそう思ったのも、束の間の事だった。


「ビッシーが、殺人犯にされておるぞ!」


 おかっぱ頭の口から、爆弾が落とされた。


 呪いの如く。


  24


 鑑識が一通りの作業を終えた頃には、非常線の周りには人だかりが出来ていた。


 老若男女を問わず、現場の警備に当たる警察官の向こうに広がる殺人という非日常を垣間見ようと、首を伸ばしている姿が、見えた。


「一億総ジャーナリスト時代、ってのは、上手い事を言うたもんやなあ」


 年配の刑事がそう呟けば、傍らで現場の状況をメモにしたためていた同僚が頷いた。


「スマホ、iPhone、タブレットにiPad。カメラにネット、SNS。マスコミより早いですよ、今じゃ」


「最近じゃマスメディアの方が一般人に画像やニュースを募集したりしてるらしいやないか」


 聞きかじった情報だが、それは納得のいく流れであった。


「でしょうな。幾らマスコミが目を光らせてたって、そりゃ一般人の方が数が違いますから。時代が違いますよ、本当に。自分が警官に成り立ての頃は、携帯電話だって珍しかったですからね。刑事になった先輩警官が貸与されてた携帯を持ってたりして、かっこよくて。羨ましかったもんですが」


 苦笑いを浮かべて、こちらに向けられる何十というスマホやiPhoneのカメラの一群の上で視線を滑らせた。


「あれじゃ、この事件もあっという間にネットに出るんやろな」


「そして、あっという間に別の事件にかき消されるんですわ。……司法解剖をやるそうです。仏さんの死因、特定せな」


 非常線の向こうから向けられる視線と微かに聞こえるシャッター音に、背を向けた。


 遺体がシートに包まれた物言わぬそれが、運び出される所だった。


 水音が不釣り合いなほどに、柔らかく響いた。


25


 噂というものは、伝染病のごとしである。人の口から口へと瞬く間に広まり、平穏な場所であればあるほど、そしてもたらされたニュースが刺激的であればあるほど、その伝達はより早く、そして広くなってゆく。


『殺人ビッシー登場について語るスレ』


 そのタイトルを見たメガネの目は、曇った。


「……琵琶湖の怪獣は、人を食う……?」


「その板もであるが、こちらは既にまとめサイトが出来ておる始末じゃ。見るがよい」


 部室の中、花子によってもたらされた知らせにより、ミス研のメンバーは部室内にある端末の前に、集まっていた。


一つのモニターをガタイの良い田崎に丸いフロッピー、おかっぱ頭の花子、メガネ霜月と星が覗き込むという具合である。


 パソコン、というかPCはもう一台があるにはあるのだが、それは教授のデスク上でカバーが掛けられた状態で沈黙しているのが常であるから、稼動可能な端末としてはカウントされていない。


 実際問題、動くのかどうかも最近入部したような星には定かではない。


 判っているのは、教授のデスク上世界に存在する物は雪崩寸前の書類タワーであれ花柄レース付きカバーの下で永久の眠りについているPCであれ、皆等しくカールの食べかすをふりかけ状態に被るものである事と、メンバーはその状態を見て見ぬ振りをしている、という事くらいだ。


 敢えて触れようとする猛者は、ネッシーを愛するメガネくらいのものだろうが、その彼でも実際に触れている姿にはまだお目に掛かったことがない。 


「……四月に入って琵琶湖で目撃されたビッシーは、その名前からネス湖のネッシーと混同されがちだが、実体は全く異なると言われる……地元漁業関係者の話では、琵琶湖に生息しているのは、大ナマズもしくは非常に危険性の高い外来生物の可能性が示唆された……って、ええええ! なんで!」


 スレッドを追っていたメガネから、悲鳴が上がる。


 モニターにかじりつきながら、ずり落ちるメガネがその動揺を伝えていたが、背後からモニターを覗き込んでいた星はふう、と息を吐いて姿勢を戻した。


「存在するかどうかもわからないビッシーを容疑者にするなんて。それって、犯人の目星がない、ってことなんですか?」


 腕組みをしてモニターを睨むような半眼で見つめていた花子に尋ねれば、首を横に振った。


「それはまだ、わからぬのだ。ネッシー系新人どの」


「わからないって、っていうか、わたしはネッシー系じゃないんですけど」


 寧ろ、ネッシー否定派である。


 だが星の微かな抗議は花子には届かなかったらしい。


 かつん、とストラップシューズの踵を鳴らして、部屋の中を腕組みしたまま歩き始めた花子が重く口を開いた。


「警察は警察で動いているのだろうが。こういった事件では警察関係者からマスコミが捜査情報を得て流すのが正規の経路なのだが、どうにも発見された現場と時刻が人通りのある状況でな。地元新聞社などが嗅ぎ付けるよりも早くに一般市民が手持ちのスマホやなんやで撮影してネットに流したわけだ。平日の昼間だからまだ幾ばくかはマシと言えようが、しかし死体はショッピングモールの一般客らに目撃され、撮影された。既にその画像はSNSだのネットに出ている。流出後にどこでどういう流れになったかは定かではないが……」


 一旦そこで言葉を切った花子は、腕組みをしたままでくるり、と一同を振り返った。


「レジャー監視員が未だ回復しない先のビッシー目撃事件と、今回の事が結びついたのであろう。琵琶湖に人食い怪獣、これは実にキャッチーなニュースであるからな」


 名探偵宜しく、部室の中央でそう言い切った花子に続いて、モニターを覗き込んでいた田崎が姿勢を戻して首を傾げた。


「花子さんの言う事はわかるんだけど、どうかなぁと思うんだよなぁ。被害者女性の身元はまだネットには出てないけど、この写真からじゃ噛み傷なんかに見間違えそうな出血や傷は見当たらないでしょ。ビッシーが犯人で人食いだっていうなら、そういうのがあるべきじゃないのかな」


「田崎先輩の言う通り、確かに。血は見えないですよ」


 フロッピーが、食い入るようにモニターを覗き込むメガネの横から目に入った遺体画像を指さして言った。


 ブルーシートの上に横たえられた女性の身体は画像の中でも既に膝上辺りまでシートが被せられようとしていたが、それでもそこに見える足には血の気はないものの、出血などはみられない。


「そうですよ、ビッシーがもしも何かの間違いで人を傷つけるとしたら、とても大きな傷が出来るはずです。いい、これまでに目撃されたビッシーは体長約十メートル。単純に、この全長から推測できる頭蓋の大きさは約一メートル弱。例えばサメのような歯があるとすれば、最低でも一本が数センチの歯がびっしりと生えているはずです! そうですよね、教授!」


 声を上げたのは、地味メガネだった。


 モニター前から立ち上がり、一人デスクについてカールおじさんを頬張る白髪に向かって行った。


 一同の視線は、自然とメガネが問いかける先にいる白髪オールバックの教授に向けられるのだが、当人は無表情のままでぼりぼりと菓子を食べている。


「ビッシーが、ネッシーが人殺しなんてするわけがない! ですよね、教授」


 追いすがるようなメガネが教授に再度、問いかけた。


「んむ。まあ、あれだな。ビッシーにも事情があるんだろう。色々と」


「事情、事情って、どういうことですか。教授」


「誰にだって事情の一つや二つくらいはあるだろう。歯磨き粉を買い忘れていたことを忘れていて歯ブラシを握った瞬間に思い出して三日目辺りでだな、どーにもこーにも搾りまくっても一回分に満たなかった朝はちょっと負けた気分になったりするじゃないか。そんな時くらい、ちょっとイラっとしたりしてだな、囓ってみたくなったりするんじゃないのかビッシーも。ならんか? ん? お前は、どっかで見たような顔だな……えーっと。ああ、今年の新入生か。いたのか、新入生が。すごいなそりゃ。新歓コンパの予定はどうなっとるんだ。わしはまだ何も聞いとらんぞ、田辺」


「惜しいですが、僕は田崎です。それにビッシーは囓ってません。出血がありませんから。教授」


 絶妙なタイミングで合いの手ではなくツッコミを入れた田崎だが、そこから続きそうなやり取りを遮ったのは地味メガネだった。


「あの! 新入生ではありません。僕は去年の新入生で、今は二年の霜月陽しもつきあきらと言います。今年入部の一年生は居ません。皆無です。ちなみに教授、僕の専門はネッシーで! 教授の研究を心から崇拝していまして、実は、その、何度もお話しようとしてるんですけど、えっと、昔ですね、幼少期にネス湖でネッシーに遭遇し」


「お、思い出したぞ」


 長々と続きそうなメガネによる本日の自己紹介を途中で遮り立ち上がった教授に、一同の注目が集まった。


「教授、何かビッシーに関しての重大な秘密でも……」


 言いかけた花子の声を聞きながら、手に付いたカールの粉をばたばたとズボンに叩いて落としながら教授は戸口へと向かった。


「トイレに行きたいんだった、わしは」


 扉が閉まり、亀甲縛りの呪術人形がぶうらりと揺れた。


   27



 センセーショナルなニュースは、当たり前だが瞬く間に平穏な日常を覆い尽くす。


『こちら、現場である琵琶湖からお伝えいたします! えー、遺体が発見された現場となったのは、琵琶湖大橋を臨むポイントです。釣り客などにも馴染みのある場所で、レジャーボートを着ける為にも多くの肩が利用されるあちらの港から、歩いて数分という地点です。ここで、被害者の女性は遺体で発見されました!』


 非常線の黄色は、のどかな光景を異質なものへと変えていた。


『レポーターの天野さん、そちらで発見されたのは午後三時という、かなり明るい時間帯ですよね? 死因の一つと言われているビッシーなるものとの関連性はいかがですか?』


 テレビの中で、やり取りは進んでゆく。それを見ているだけで、自動的に情報は頭に入ってくる。


 入ってくる情報は、するすると記憶の隅に居座ってゆくのだ。


『え、ビッシーですが、ビッシーの姿は今現在は目視で確認はできません。ですが、実は数年前にもこちらで水泳中に三名の男性が姿を消すという事件が起きているんです。失踪したのは、いずれも若い、男性で体力もあることから、謎の失踪事件としてこれまで扱われてきましたが、一説には当時からビッシーの関与が一部で言われていたようです』


『ビッシーが人を攻撃している、ということでしょうか?』


『まだその詳細はわかりません。ですが、ここ、琵琶湖で何かが起きていることだけは、確かだと言えます。こちらに地元で漁業に携わって二十年という久佐木さんが来られています。久佐木さん、お話を……』


 帰宅したところで、LINEに気付いた。送り主が花子だったのは少々意外に思ったが、そこに書かれている通りにテレビを点けて頷いた。


『夕方のニュースあたりに、出てくるはず』


 そう書かれていたメッセージの通りに、点けたそこには見覚えのある大橋を背景にして、レポーターらしき女性と猟師であろう初老の男性が映っていた。


 既に日の暮れた湖畔で、レポーターと共に照明に照らされた猟師が眩しそうに話をしている。


「あーあぁ、これじゃ賞金どころじゃないよなぁ」


 ビッシー目撃写真に賞金が設けられていたのは、その存在が観光資源になるからである。


 先のレジャー監視員だけなら、人を驚かせて気絶させたという話で済むのだが、今度は人が死んでいる。


 まだその死因は発表されていないが、人が一人死んだという事実は紛れもない事実であった。


「あーああ、テロップまで殺人鬼・ビッシーになっちゃってるもんなぁ。ブルーギルとかブラックバス並になっちゃったな、もう」


 いや、もしも本当に居るとしたら、殺人生物なんて害獣どころじゃない。駆除対象だろう。


 一瞬だけ、本気で悲壮な顔をしていたメガネが思い浮かんだ。心底から信じているらしいから、それはショックだったのだろう。


 項垂れていた姿が、いつもより更に影を薄くしていた。


 いるはずもないのだが。


 ビッシーなんて。



 メガネもこれで、現実に目が覚めればいいんじゃないだろうか。


 辛いだろうけど、元から存在しないものだからこそ、こんな風に好き放題に言われるのだ。これが、現存する動物相手ならこうはならない。


 それにしても。


「みんな、何かのせいにしたいのかな。ちょっと面白くって、ちょっと非日常的な、何か。てかそんなコトしている間に、真犯人が逃げちゃったりして」


 テレビの液晶からたれ流れてくるテンションの高いレポートを耳に入れながら、星は夕飯の支度でもしようと立ち上がった。



 狭い1DKの一人暮らし用アパートの部屋でも、一応は自炊が可能な程度の設備を整えていたし、外食はとにかく贅沢である。


 冷蔵庫を開けてそこにキャベツの姿と、ベーコン、人参らを見つけて取り出した。春とはいえ、まだ肌寒い季節だ。


 特に星が住むアパートは琵琶学大に最も近い山道にほど近いエリアにあり、事実アパートの裏は山だった。

 夏は暑いし、冬は途轍もなく寒い。



 進学が決まり、実家を出るとなった時に父親がほぼ独断で決めたような場所だったから、資金を出してもらう手前あまり文句も言わずにいたのだが、実際に住んでみると自然の厳しさを思い知ることになった。


「仕方ないんだけどなー、落ちちゃったし」


 本当は美大に通うはずだった、一年と数ヶ月前の自分を思い出すと、苦い思いが胸に蘇る。


 私立琵琶湖学園大学は滑り止めで受けた大学だったから、通うことなど現実的に考えたことはなかった。


 星の本命は、美術大学。大学で本格的に美術を学びたくて、高校の三年間と中学の三年間は美大に入る為に必要な、デッサンや模写、美術史などに費やしたと言っても過言ではない。


 専門の塾と著名な先生について、実に六年間だ。


 両親からは多大なサポートをしてもらった事は、理解している。美大受験の為に通う塾も講師も安くはない。


 加えて油絵だのの用具も消耗品も、とにかく金が掛かるのだ。バイトもできない中学生のころから、星の美大合格は家族の夢だった。


 だから、賢明にがんばった。がんばったはずだった。


 でも。


「ダメだっだんだよなー、やっぱり」


 天才じゃなくていい。凡才に努力を積み重ねて、そうして積み重ねただけの作品を生み出せるようになれればいい。


 そう思っていたけれど、美大の門はそう優しくは開かなかった。


「おお、割と美味しそうじゃん」


 蒸しあがったキャベツと野菜炒めらしき料理が、鍋とフライパンの中で湯気を上げている。


 藻掻いていた。心の中は。


 本当は、ここにいたいんじゃない。


 そう叫びを上げそうな気持ちに蓋をして、琵琶湖に来たんだった。初めての一人暮らしは楽しくて新鮮なスタートであるはず、でも。


「お箸お箸、っと」


美術の先には、写真を本格的に学びたいという願いがあったから、だろうか。


 もうガラクタでしかない、と知っていてもまだ。


 どうにも出来ないでいる。


だから……


 今でもまだ、どこかの賞をとれば写真家への道があると信じている。


「あ、ご飯を炊くの忘れてた……あーもう」


 ご飯茶碗としゃもじを手にしたところで、白いご飯の不在に気付いた星は、頭を垂れた。


 野菜炒めと蒸しキャベツには罪はないが、流石にそれだけでは腹が持たない。


「ごはんーんんんん。今から炊くと……時間がかかるよなぁ……」


 唸っても空中から出てきてくれるわけではないのだが、自業自得なので仕方ない。


 ぐう。


 ついでに、腹が鳴った。


 これも生理現象なので仕方がない。



 さてどうしようか、野菜炒めだけを食べて飯が炊きあがるのを待つか。


 星がしゃもじを手にしたままで、真剣に悩み始めた時だった。



『えーでは、その危険性が心配されるビッシーですが、ここでビッシーの専門家でおられます琵琶湖学園大学の園田教授からお話を伺っておりますので……』


 えっ?


 今、園田教授って。



 聞いたような名前が耳に入った星は、しゃもじを手にしたままで、テレビに再び意識を向けた。


 やはりそこには数日前に部室で撮影されていた、白髪のオールバックが映っていた。


『園田教授はビッシーの危険性について伺っています。やはりビッシーとは我々人間にとって危険な存在なんでしょうか。危険性はある、と考えてよろしいんでしょうか?』



 画面の向かって手前から、レポーターらしき女性が話す。そうして一拍の間の後に、画面の中で白髪のオールバックが口を開いた。


『ああ、うん。あったかな。いや、あったね』


『やはり、あるんですね! では続いて伺いますが、ビッシーは体長二十メートルを超える大型の肉食恐竜の生き残りではないかとも言われています。正に、現代のジュラシックパークです。最早自衛隊の出動レベルではないかと思われるんですが、駆除方法と直ちに厳戒態勢を敷いて近隣住民を非難させるなどの処置について伺いたいと思います。それからですね、彼らの持つ毒性などについて、コマーシャルに引き続いてお送りいたします!』


 派手な効果音と共に、タレントの顔が映り画面が切り替わった。


「自衛隊って……マジ?」


 新食感フルーツこんにゃくのコマーシャルが、なぜかやけに目に染みた。


  28

   

 水音が闇の中で静寂を破ったのを、知る人はいない。


 夜半を過ぎたこの時間では、大橋を渡る自動車くらいしか、行き交う明かりはない。


 それも夜の深まりと共に更に数が減っていた。


 誰もいない。


 環境監視員も、この時刻には見回りを終えていた。


 人気のない湖畔に、音なき音を立てて、動く巨大な影があった。


 星明かりが流れる雲の向こうから、顔を覗かせてようやく湖面に幾ばくかの明暗をもたらした。


 ザ……ン


 大きなうねりを起こしたそれは、つるりとした表面を滑り落ちてゆく水に星明かりを跳ねさせながら、再び音も無く姿を消してゆく。


 ゆっくりと、ゆっくりと。


 夜闇に残された湖面が風のもたらすさざ波に揺られるようになるまで、しばしの時間。


 残されたうねりは、振り子のように次第に小さくなってゆく。


29

 

 朝という時間は、眠気を抱えながら一日をスタートするものである。どこかにまだぼんやりと柔らかく暖かな布団に包まれて夢の中を漂っていたいという願望を覚えながらも、現実に立ち向かわねばならない。


 この人間が抱く欲望であり本能、それと相反する理性による葛藤。これこそ正に人の生の縮図ではなかろうか。


「あーねむい」


 星もその例に漏れず、頭の中では布団に戻りたい願望を展開しながら、バスを降りたところであった。


 琵琶学大前 停留所。


 つまりは山道のどん詰まりである。



 ふああ、と欠伸をかみ殺しもせずに放てば、笑い声が聞こえた。


「もー、なにやってんのー、寝不足? おはよ」


「あ、優羽。おはよー、あはは」


 声を掛けてきたのは同じバスに乗っていたのだろう、友人である優羽であった。からかうように微笑みながら隣を歩き始めた友人は、いつ見ても可愛らしい女子学生を体現したような容姿である。


 髪もちゃんとセットしている辺りに女子力を感じるが、それに対して自分は……等と省みてはならない。


 他人は他人、自分は自分。



 妙なところで神妙に自らに言い聞かせて、星は再び出そうになった欠伸を今度は噛み締めた。


「夜更かししなきゃいけないようなレポートとか、あったっけ」


「ううん、ないと思う。そーいうんじゃなくって、あは」


「面白いテレビとか、あったっけ」


「うにゃー、ないよ。昨日はネットで遊んでた」



「ああ、星の好きな写真系のやつだね。前に教えてくれたサイトを見たけど、すごいよね。景色から人物とか、色々」


「あ、え、あ、うん。そうそう。そうなの」


 再び誤魔化し笑いを浮かべた星は、後ろ頭をがしがしをかいた。


 寝癖が酷いのは出掛けに鏡で見たから、もうどういうことになっていても今更である。


「デンマークの写真家だったっけ。前に教えてくれた風景写真の人。アマチュアだって言ってたじゃない? あんなに吸い込まれるような写真を撮るのに、アマチュアって、ってビックリしたんだよね」


「あは、あはは、うん。すごいよね、あは」


 適当に相づちを打ちながら、


 実際はどうにも気になって、あれほどばからしいと思ってきたネッシーことビッシーについて調べていた、とはあまり言いたくない。


 だが幾ら調べても、ネッシーはともかくビッシーに関しては廃業した競輪場のマスコットキャラにビッシーらしきものが以前は使われていた――程度のことしかわからなかった。


 あとは、ネットのふざけた書き込みくらいだった。


『ああいうスマホの画像から特定するのは、並大抵ではない経験と知識の積み重ねがあってこそなんだ』


 地味メガネの言葉が、頭を過ぎった。


 確かに、それはそうかもしれない。


 けれどそれは言い換えれば、知識がある者がそれを持たない者に対して、認識を誘導することだって、出来るという意味になる。


 ネッシー、ビッシーなんているはずもない。


 あの教授も本当にいると、信じているんだろうか?


「ねえ、星。あれって……何?」


「え?」


 突然立ち止まった優羽の指さす方――――常日頃、何気なく通り過ぎる正門があるべき場所、なのだが。


 そこには常にはあり得ない人だかりが出来ていた。


 遠目に見ても、明らかにマイクを持った女性と、カメラを構えた人物の姿が見える。


 テレビの取材、それ以上に多くの人が正門の付近にいた。皆それぞれに行き過ぎる学生に話しかけたり、顔を覗き込んだりしているが何れも手を横に振られたりして、巧みに避けようとする学生らを捕まえて話をしている様子が見えた。


 何事だろうか。



「なに、なんかあったの?」


「さあ、なんだろうね。誰か、なんか受賞でもした、とか?」


「ふーん。ま、私は見に覚えないから関係ないけど」


「わたしもだよぅ。通り過ぎるときに何か聞けるかもね」


 お互いに首を傾げながら、少々の緊張を覚えながら正門を突破しようとした時、だった。


「あ、あなた! ミステリー研究会の八城さんですよね! ビッシーの写真を撮影したっていう! 少しお話を伺えませんか!」


「え、ええっ」


「ね、君どう考えてるの? 人が一人死んじゃったんだよね、それでもビッシーは浪漫ですなんて追いかけてるの? そこら辺をちょっと話して欲しいんだけどなぁ。人間の死を、一体君はどう考えているわけ? 亡くなった女性さ、君たちと然程年齢も変わらないんだよね、だけどもう息をすることも歩く事もできない。そこにさ、何か感じたりしないの? 責任感とかさ」


「え、そ、そんな……」


「撮影されたのは本当にビッシーだったんですか! なぜ、被害者は亡くなっているのに、あなたは生きているのか、わかりますか!」


「ご遺族へはなんと声を掛けられますか!」


 星は、咄嗟に出すべき言葉を失っていた。


 向かってくるカメラ、レンズ。人の顔、顔、顔。突然に向けられたそれらに、一瞬で頭が真っ白になった。


 向けられたマイクと、向かってくる視線が痛い。


 咄嗟に、息を飲み込んだ時だった。


「やめないかね、君たち。ここは大学の構内だよ」


 掛けられたのは落ち着いたトーンの声、それに振り向いた視線の先にいたのは――――


  30


 

 琵琶湖学園大学の名物の一つに、中庭がある。


 そもそも同大学の敷地というのは山の頂上にほど近い切り崩したような平地のみであり、神社に登る参道よろしく正門まで続いている山道より以外に交通可能な道はない。


 四方は木と竹と草と葉っぱと虫と鳥その他野生のものに囲まれているわけで、自然というものはありふれるほどに溢れている。


 これ以上に自然を感じる為の施設や設備は必要は無いだろうと思われるのだが、なぜか。


 やたらに手の込んだ中庭が存在していた。


 咲き誇るバラや四季折々に楽しめる花々がバランス良く配置されたその場所は、山奥の大学というよりは、立派な邸宅の中庭と言うべき様相を呈していた。


「うむ。このコーヒーは、まあまあだな」


 白髪のオールバック。園田は、しかめっ面でカップをテーブル上のソーサーに戻した。


 ミステリー研究会などというサークルの顧問でもある彼は、特別な出張や講義の予定がない限り、この朝のひとときをこの場所でくつろぐことを日課としている。


 あまり、知られてはいないのだが。


 学生達がそれぞれに活動を始める時間帯、ざわざわと忙しない空気が流れ始めたその後に訪れる、至福のひとときであった。


 山から鳥の声が微かに、聞こえる。


 園田がカップを置いてしまえば、後にできるのは静寂であった。


 この音なき音に囲まれて羽ばたかせる、自由な思索時間こそが、至高である。


 すう、と空気を吸い込み本日の思索をと思ったのだが、その視線はガーデン用のシューズ、そしてグローブが置かれた傍らの花壇をちらり、と見た。


 眉を寄せた園田は、一拍の後で口を開く。


「今度は何を植えるんだ」


 ガーデンチェアの背に寄りかかりながら視線を移せば、十メートルくらい先に庭師の背中見える。

 見慣れた痩せた背中に向かって、園田は心持ち声を張った。


「ああ、そこですか。オクラを植えようかと思いましてね」


「花木はやめて、食物にしたのか。ふむ、戦争にでもなれば必要になるな」


「はは、まあ、そういうことにはならない方がいいんですがね……ちょうど、種が手に入ったんですよ」


 痩せた老庭師が、振り返り園田に向かって人なつこい笑顔を見せた。


 先ほどまで水やりをしていたのだが、園田が持参した水筒から湯をマイカップに注いだ辺りで、何やら作業用具などを置いている小屋へと下がっていた。


 忘れ物か。


 そんな風に軽く思っただけで園田の意識はコーヒーの香りに戻っていたのだし、この老庭師が何を植えて何を絶やそうが園田の知ったことではない。


 だが大抵のことは目に入らないのにも関わらず、些細な事が気になると解決し納得できる回答が得られるまで気に掛かってしまうのが、園田の性分でもあった。


 オクラ。アオイ科トロロアオイ属。


 オクラとは、その果実は所謂野菜であり即ち人間が食すことの出来る食品である。


 ちらりと視線を移せば、中庭から数メートル先には野菜園がある。


 大した収穫量はないが、なんとか学科の研修には時折役立っているらしいと以前どこかで耳にしたような気がするから、恐らくは毎年それなりに野菜が作られているはずだった。


 それも、園田が知る限りこの大学内で庭師に従事しているこの男の管理下である。


 納得がいかん。


 その老庭師が何やら紙袋を手にして、ゆっくりと戻ってきたのに、一層憮然として重ねて尋ねた。


「野菜園には場所がないのか、オクラの」


「え? いえ、ありますよ。あっちにもオクラは植えています。ああ、これよかったらどうぞ。妻がね、焼いたんですよ。マドレーヌ」


 公園にあるベンチなどというレベルではなく、瀟洒なガーデン用のテーブルセットにチェア、パラソルまであり、中庭の一角だけを見ればシーズン毎の花が咲き乱れた美しい風情を保っているのだが。


 そこにでん、と構えた白髪のオールバックは、英国紳士でもハンサムでもなかった。


 庭師の返事を聞いて不機嫌度を更に上昇させた園田は、再び口を開く。ただし差し出された菓子はしっかりと受け取った後で。


「なぜオクラを二箇所に分散したのだ。この中庭に野菜を植えたことはわしが知る限り、つまり過去二十年間で一度もないはずだ。それによしんば中庭に野菜分子を植えるとしよう。それにしても、だ。あれは夏の野菜だったはずだ。であるのに、今植えようとしているらしい花壇は夏が盛りのひまわりの隣ではないか。これまでは季節毎に花が局所的に重ならないように整然とバランスを整えておったはずだ。これではオクラとはいえ、夏にこの辺りだけが華やかになり秋が来れば一気に墓場の如くとなるではないか。どういうことだ、ひまわりとオクラでは些かバランスがおかしいのではないのか。それともそういうアンバランスが当節の流行だとでも言いたいのか。けしからん。鞄に入っていたのがこの菓子であった事はよいのだが、ふむ、貴様の女房は料理の腕にムラがあるのだと常々思っていたが今日のこれは成功例だな。うむ、生焼けではない。だがやはりオクラについては解せん。答えろ」


 園田教授が不機嫌極まりない顔からそう言い放ち、口に放り込んだマドレーヌを咀嚼したのを見返して、老庭師はぽかん、と開けていた口を苦笑いに変えた。


「ああ、オクラって言いましてもね、植えようと思ってるのはベニーって名前の赤いオクラなんですよ。花が綺麗なんです。茎もね、赤くなるし」


「ほう。ということは、実ではなく花が目的ということか」


「まあそうとも言えますかねぇ。もちろん、実は食べられますけどね、とても華やかな花を咲かせるので、花としても見てもらいたいなと、そんな風に思いましてね」


「野菜でも花でも、オクラはオクラということか」


「ええ。食用だ、観賞用だって、人間が後から勝手に分別したんですからねぇ。オクラにとっちゃ花は花だし実は実なんですよね、昔から」


 老庭師がそう微笑み、再び取り上げたガーデングローブを手に嵌めて、ゆっくりとした動作で剪定ハサミを取り上げるのが視界にあった。


 会話が途切れて再び訪れる静寂の中で、園田がカップをゆっくりと口元から降ろす。


「変わらないもの、か」


 山からの風が、中庭を吹き抜けて行った。


   31

 

 びわちゃんファンシーショップに駆け込んだ時は、既に始業時間を数分ほど過ぎていた。見上げた壁時計の告げる時間に、はあ、と息を吐いた。


「ああ、もお。碌な目に合わないんだからぁ。あの紳士が助けてくれなかったら、どうなってたか」


 優羽と二人で正門前で待ち構えていたマスコミの集団に掴まった、その時に助け船を出してくれたのはピシリとスーツを着こなした初老の男性だった。


 ウェーブかかったロマンスグレーな髪をぴたり、となでつけているのはどこぞの変人教授と同じだが、如何せん身に纏う空気というものが別格である。


 ネッシー教授のは白髪としか言いたくもないが、あの紳士であればロマンスグレー、とわざわざ勿体を付けて形容したくなる。


 その、きちんとした風貌と集団でわめき立てる連中にも怯まない態度は、文字通りあの場を鎮めたのだから素晴らしい。

 もちろん優羽と星は、御礼を言おうとしたのだが、気付けばその姿は消えていたのだから、そんなところも格好いい。


 あの風貌からして出入りの業者ってことはなさそうだし……やっぱり大学関係者、それも教授とかなのかな。


 だけど、あんな人いたっけ。


 そんな風に優羽と言いながら優羽は午前の講義へと向かい、星はバイトへと急いだのだ。


 だがそれでもギリギリ、とも呼べない数分間の遅刻である。


 毎月望遠レンズ代を支払う身としては、数分の遅刻も歓迎はできない。


 やっぱり、わたしは琵琶湖に向いていないんじゃないんだろうか。


 呪われてるよ、絶対。


 ブツブツと文句を垂れながら、星は店長がいるだろう奥へと声をかけてからレジに向かおうとした。


「おはようございまーす、店ち……」


 RRRRR RRRRR


 だが発しかけた言葉は、電話の呼び出し音によって遮られた。


 ちらりと暖簾の奥を伺うが、どうやら店長は不在らしい。

「トイレかな。……っと。はい、お電話ありがとうございます。ファンシーショップ、びわちゃんです」

 声の笑顔も営業の一部。


 そんな小言をバイトを始めた頃に店長が口にしていたのを、思い出しながら笑顔で電話を取った。


「え、はい。八城はわたしですか……え?」


 笑顔で取った電話の向こうから聞こえてきたのは、やけに早口の男性が話す声だった。


 ―取材にご協力を頂きたいんですよ。ああ、もちろんね、お宅のサークルの告知とかそういうのも少しなら入れてもいいから。あんまり怪しいのは勘弁して欲しいけどさ、ビッシーの写真をね、どうやって撮ったのかとか、殺人事件との関わりをね。ああ、アナタが犯人だっていうわけじゃなくってさ―


 まくし立てられるように耳に流れてくる声と、そこに乗せられた言葉は大雨の濁流のようだった。


 流れてきているのはわかるが、理解ができない。


「……あの、すみません……ちょっと、そういうのは……」


 やけに乾く喉を感じながら星が言ったのは、それだけだった。


『あ、謝礼ならね、それ相応だよ。面白ければ上乗せってのも無きにしも非ずなんだけど、まあとにかく一度検討し……』


 ガチャッ 


 勢いよく置かれた受話器が、思ったより大きな音を立てた。


 はあ、と大きく息を吐き出して、星は頭を項垂れた。


 ビッシー紛いの写真とわたしの名前が、おまけにバイト先までマスコミに知られてる。


 真犯人は目下警察による捜査中である殺人事件、それもビッシー犯人説に注目が集まっているこのタイミングで、なんて。


 正門前の一騒ぎといい、この電話といい。誰かが星が撮影したあの写真を故意にマスコミに流出させたのは間違いなかった。


「……一体、誰が……」


 くらり、と目眩がした。


 だが思い当たるのは、考えるまでもなく一人しかいなかった。



『ビッシーは殺人なんか犯さない!』


 ネッシー、琵琶湖での通称をビッシー。その存在を強く信じる者。


 星の撮影したピンぼけ写真をビッシーだと信じて疑わない者。


 そして、恐らくはその無実と実在することを世間に認めさせようとする人物……


 RRRRR RRRRR


 星がその地味過ぎる風貌を思い出すよりも、電話が鳴る方が早かった。


 怒りのボルテージが、瞬間的に跳ね上がるのがわかる気がしたから恐ろしい。


 ショップの入り口から、疲労を滲ませながら店長が歩いて来ているのにも、あまり気づけない程である。


 星の頭には、メガネしかいなかった。


「ああ、おはよう。星ちゃん。門のところで搬入のトラックが中々入れなくってねぇ。マスコミみたいだけど、何かあったか知っ」


 RRRRR RRRRR


「ああああああもう! あのアホメガネッ! ずえっったい許さん!」


 そう叫ぶと、星はバイト用のエプロンを外してレジカウンターに叩きつけ、ショップを飛び出した。


 RRRRR RRRRR


「あ、あれ? 星ちゃん? ああ、電話電話。ファンシーショップびわちゃんでございま……は? 取材?」


 びわちゃん営業中、のサインが勢いよく閉じられたガラスドアにゆっさゆさと揺れた。


   32

 

 午前中は天気が持つでしょう。


 その天気予報は、午前十時を過ぎるころには既に怪しくなり始めていた。


 取調室の扉には、昼間だと言うのにグレーの影がある。


 太陽光があれば明るく見えるクリームがかったグレーも、天井からの蛍光灯だけでは、寒々しい色に映るから不思議なものだった。


 後ろ手に扉を静かに閉じて、ふう、と息を吐いて出てきた刑事に同僚の刑事が声をかけたのは、雲行きが本格的に雨へと向かい始めた頃だった。


「どうやった」


「いやあ、あきませんね。奴は白でしょう」


「ほんならまた、振り出しかいな」


「あれだけ遺体に群がる人間はおるのに、目撃者の一人もおらんとは。信じられん」


 取調室から出てきた刑事には、疲労が滲む。今ももう一人の刑事が中にいて調書を取っているのだが状況は明らかに思わしくない方向へと向かっていた。


「しゃあないな。琵琶湖の警備カメラの方を当たってる連中から、何か出てるかもしれへんし、諦めんことや。ああ、それから」


「なにか、出たんですか」


 胸のポケットから煙草を取り出そうと手を伸ばしながら、刑事は口を開いた。


「司法解剖の結果、そろそろ出るころや」


 廊下の窓から見える背の高い木が、風に揺れていた。


 曇天の下で。


   33



 はあ、はあ、


 星は息を切らせていた。曇り空は天気予報でも知っていたけれど四月のそれは冷えていて、吸い込んだ空気によって体温が下がるような心地がした。


「……あの、アホメガネ……どこに、い……」


 地味メガネこと霜月陽しもつきあきらが同じ国際教養学部の二年であることは、知っていた。


 今日の午前中に星が受けるべき講義はない。しかし語学補習を基本カリキュラムへとは別に選択する学生は多いし、実際に将来を英語教育の方面へと向けている学生は必要と感じているからだろう。


 あの地味なメガネであれば、なんとなくだが真面目そうな気がしたからてっきり補修プログラムを受講しているのだと踏んだのだが。


 在籍はしているはずの講義には出ていないし、念のためと見に行った自習室にもその姿はなかった。


「メガネはメガネらしく、勉強してればいいのに……もう、どこにいるのよ」


 息を切らしながら、星は腕時計を見た。


 午前十一時半。


 そろそろ、午後からの講義に備えなきゃならない頃合いだった。万が一、メガネが星と同じく午後からの講義しか予定していないとしても、そろそろ姿を見せる頃。


 だが。


「正門で張る訳にはいかない……もんなぁ」


 立ち止まった二階廊下の窓からちらりと伺えば、未だに停められたバンとカメラなどを抱えた人々の姿があった。


 ああもう、なんでこんなことに。


「真面目ガネなら勉強するか本読ん……あ」


 うんざり、と額に手を宛てて星はふと、ある場所を思い出した。


 本がいっぱいある場所。


「図書室だ!」


 開いたままの窓から吹き込んだ風が廊下に葉を一枚、落として行った。


34


 


 今にも降り出して来そうな空模様は、機器を抱えた人間にとっては心配の種でしかなかった。


「おいおい、降るんじゃないの? これぇ。まずいぞー」


「まじかよ。てか、まだ取材許可は下りないわけ? どこまで行ったんだよ」


「すみません、事務所の方には向かったはずなんですけど……」


「電話してきたんだろ? 事前に」


「はい、先週も取材はΟKをもらってますーって言って、そんならどうぞー一度敷地内に入る前に事務所に寄ってくださいねーって返事だけだったんですけど……遅いですね」


 手元には取材対象であるミステリー研究会のメンバーである八城星の名前と、彼女が撮影したというビッシーの画像があった。


 先ほど本人を突撃する寸前で、大学関係者だと思われる男に邪魔をされた――が、それも正規の取材許可さえ取れれば、問題ないはずだったのだが。


「このままじゃ、雨がなぁ。一旦はバンに戻っとくか」


「一応はビニールを持って来てます、が。今日の降水確率ってめっちゃ高くなかったでしたっけ?」


「ちょい待ち。えーっと、降水確率は70パーセント。けど問題は雨量やろな。あんまりすごいとビニールどころじゃなくなる」



「例の撮影した女の子はもう中に入っちゃってるだろ? 待つにしても丸一日が潰れるしな。……他のメンバーとは言っても、ミステリー研究会に関係してるのは、例のネッシー教授か」


 手元のスマホでリストを目に入れながら、白髪頭の不機嫌そうな顔を思い描いてスタッフは眉を寄せた。だが、それを傍で聞いていた男が首を振った。


「あの教授はちょっと避けた方がええかも知れませんね」


「なんで」


「昨日放送したアレ、編集でだいぶ実際の録画したのと違うことになってたでしょう。ほら、ネッシーの危険性のとこ」


「ああ、そうだったっけ」


「まあ、テレビですから。もう流しましたしね。今更っちゅうことなんですけど。今のところは苦情は局の方には来てないって聞きました。けど対面で会うとねぇ。電話やメールで抗議をするまではなくても、面と向き合えばクレームになるかもしれませんしね」


 触らぬ神にたたりなし。


 しばらくはそっとして置いた方がいいかもしれない、と言い含めたスタッフを見返して、ポケットから煙草の箱を取り出した。


「雨がなぁ」


 見上げる空からは、小一時間もしないうちに雨粒が落ちてくるだろう。湿った気のするフィルターを口に咥えた時だった。


 RRRRR RRRRR


「ん? ああ、県警に出張ってる……はい、どうしましたー」


 その電話を取りながら、ライターに火を点した時だった。


『出ました! 死因がでました! 謎の、謎の物質が原因! 今、今県警の刑事が琵琶山大に事情聴取に向かいました! 記者連中もです!』


 電話の向こうから、興奮した声が返ってきた。

「なっ……謎の物質? なに、どういうこと?」


『詳しい事はわかりません! でも、きっとこれはスクープですよ! 殺人鬼ビッシーの!』


 雨雲が頭上で、大きなうねりを上げた。


35



 風に煽られた枝が、窓の向こうでしなった。木の書棚が等間隔に並び、置かれた木製のテーブルは厚みのある作り。書棚を埋め尽くす本も、元はと言えば木である。


 床も木であるその空間は、静かな森にいるかのようだった。


 デスク毎にパーティションが仕切られた自習室もあるのだが、調べ物と読書にはこの空間を愛好する者が少なくない。


 単純に広いから、本が多いからという理由だけではない。ページを捲る、筆記用具を取り出す、そんな些細な物音を立てることにすら少々の緊張を覚えるほどの静寂は、一種独特。


 紙も本もあるべき場所にあり、またその空間にある人も周囲のなにものもを干渉しすぎることなく、紙の束である本に記された物語に浸る。


 全てが、調和の元に丁度良い位置にいた。


 ぱらり


 微かな音が、捲るページと共に生まれる。


 その時、図書室内では、数名の学生が調べ物や読書に勤しんでいた。


 平穏な静けさは、だが微かに聞こえた物音によって破られた。最初に気付いたのは、受付にいた司書であったのだが、気付いた当初はそれが何なのかを理解することができなかった。


「……あら、雷にでもなるのかしら」


 ふと天気予報を見てみようか、等と思った次の瞬間に彼女の耳に届いたのは、雷でも竜巻でもなかった。


 どどどど……


「えっ?」


 疑問符を浮かべた時、バン、と勢いよく図書室の扉が開いた。


「メガネェ、ここにいるのかあ!」


 開かれた扉の向こうから飛び込んで来たのは、一人の女子学生であった。突然目の前に現れたその登場の仕方に目を見開く司書だったが、当の本人は彼女の驚きには構わず大股で図書室の中へと歩いて行く。


「め、め? あ、ちょっとあなた待っ」


 嫌な予感を感じたのか、司書が静止しようと声をかけたのだが、それは届かない。


 静寂が心地良く満たしていた思考と学びの空間を、女学生はずかずかと足音を立てて本棚の間を歩き、本を抱えた学生を見つければ回り込んで顔を確認し始めた。


 俯き加減に本を読んでいる学生など、不運でしかない。肩を掴まれ無理矢理に振り向かされた、その挙げ句。


「な、なんなんだよ、君!」


「ごめんね。地味だけど、違ってた」


 放たれた一言が、これである。


 謝っているような気がしないでもないが、恐らくは伝わらない。


「あなた、ちょっと! 図書室内は静かに……!」


 背後から司書の声が微かに追いかける間にも、本棚の間という間、テーブルの間という間を歩き回ってゆく。


 そして一番端の本棚前を歩いていた時である。女学生の足が、ピタリと止まった。


「……そうか、ビッシーにはネッシーとは異なる生活環境による差……これを教授は言いたか」


 ボソリボソリと聞こえる独り言、冴えない声色。


 狩猟者の目は、その標的を捉えていた。


「みーっけた! メガネェ!」


「ひぃッ!」


 本と書棚の隙間、そこから伸ばした腕は地味なメガネ青年、霜月陽の手首をがっしりと掴んだ。


「にーげーるーなーよー!」


「な、なななななな何事っ?」


 驚きに目を見開くメガネの目に入ったのは、本棚越しに彼を見据えている捕食者の視線であった。


 アーメン。


「どんだけ探したと思ってんの、絶対に逃がさないからね! さあ、わたしの名前をマスコミに売った理由をちゃーんとわかるように説明してもらおうか!」


「え、えええっ? 星くん? ま、マスコミに売ってって……なんの話かわからな」


「とぼけるな! あんたしかいないでしょうが! わたしのピンぼけ写真をビッシーだって言い張ってるのはあんただし!」


「ちょ、待っ、一体なにが何……痛、いたたたた、手が痛」


「こっちはね、バイト先にまでマスコミが電話かけてくるわ、表に出れば囲まれるわで痛いどころじゃないんだよ!」


「あ、ちょっ、押さないで! なんか傾い……」


 逃げようとするメガネ、逃がしてなるものかと手首を掴んだ星。その攻防は徐々に体重を木製の書棚へとかけてゆき――――


 ぐらり


「あ」


「え」


 傾いたそれは、次に重力に従う。ここではリンゴなど必要はない。


 実地に勝る学習方法などないわけである。


 星は冷や汗を嫌な予感とともに覚えていたが、下敷きになる可能性大であるメガネの方はというと。


 真っ青であった。


「うわわわ」


「ぎゃあ!」


 がったーん……ッ……


 ついに偉大なる引力に従った本棚の周囲には、収納されていた本という本が散乱してゆき、非常に破壊力のある倒壊音は、実によく響いた。


 まるでそれは、無音のコンサートホールでシンバルを落っことした時の如く。


 とてもよく、反響した。


 合掌


 司書の怒鳴り声が留めを刺すまで、あと僅か。


 だがまだ二人は気付いていなかった。


 窓の外には、大きなうねりが近づいていることを。


   36


 サークルの部屋へと続く、渡り廊下は山風で満ちていた。


 うねる荒波のように、大きく揺らめく竹林が視界いっぱいに広がる。笹と笹が擦れながら奏でるのは、細かく切り裂かれてゆく悲鳴のようでもあった。


「いやな相じゃの。邪心、物欲。過ぎたる物を抱えるは何であれ人の手には及ばぬと申すのに」


 ざあ、とうねる緑を前に、花子が呟いた。


 手にしてきたロザリオの珠を指先で一つ一つ辿りながら、少女のような小柄な体型には似つかわしくない低い声で祈りを唱えてゆく。


 その指が中程まで来たところで、ぴたりと止まった。


 半眼に開いた目が、すうっと細くなる。


「……なんだ、あれは」


 遠くに視線を向ける花子は、中庭のある講義棟と管理棟の方へと身体を向けた。


 山からの風が、黒髪を煽る。


「悲鳴……?」


 風の音に混じって、どこからか本物の悲鳴が聞こえたような気がした。


 本物の、生きている生身の人間から発せられた、悲鳴が。


 その声をよく聞こうと、花子は目を閉じ神経を研ぎ澄まさせてゆく。


 耳に入る物音は、山からの風が葉の縁をなぶって通り行く音、サークル棟の壁に当たって散り散りになってゆく音、竹を揺らし、木々から枝を奪わんばかりに殴りつける音――――


 離れた場所からは、微かに聞こえる学生の作る物音――――


 そして、微かな悲鳴。


 笹が作る細切れのものではない、確かな肉声。


「……愚か者めが」


 苦々しく呟いてから閉じていた瞼を持ち上げた花子は、ロザリオを強く握りしめると、サークル棟へと向かった。


 ミステリー研究会がある、古いその建物へと。


37


 頭から湯気が出ていた。


 普通の当たり前の世界で生活している限り、人間の頭が沸点に近くなるという現象はあり得ないし、あってはならない。


 だがここ、琵琶湖学園大学の敷地内においてはそのような特異現象が発生してしまっていた。


 講義棟の廊下という、実に平和なロケーションにもかかわらず、だ。



「……で?」


「えっ、でっ、て?」


 図書室を強制的に追い出されて以降、午後からの講義に向かうべく無言で隣を歩いている怒り心頭、と言ったご面相の星から放たれた一言いや一文字に過剰な反応をしてしまったメガネは、心持ち遠のきながら言った。


 すると、見慣れた”笑えば”愛嬌のありそうな顔を想像できないほどに怒りを滲ませながら、星がじろりとメガネを見た。


「どういうことか、説明しなさいよ」


「えと、どういうことって言われても……何のことだかサッパリわからな」


「とぼける気?」


「いやだから、とぼけるもなにも、僕は図書室で調べ物をしていて、乱入してきて本棚を倒したのは星くんだし……あたた、まだ頭が痛いや。ちゃんとわかるように説明してくれないと」


 星の怒りオーラに気圧されているせいか、やや小声でボソボソと言いながら、メガネがメガネをずり上げた。


 だがその瞬間に星は気付いてしまった。


 レンズに、ヒビが入っている。


 明らかに、先ほどの衝撃が原因であろう。


 メガネのレンズは安くはない。


 少々の罪悪感が、星の胸を過ぎった。


「……まあその、現状は教えて上げなくはない、かな。うん」


「その方が、ありがたいよ。で、何があったの」


 どうやらヒビにはまだ気付いていないらしい。


 一瞬だが星は、メガネの近眼に感謝した。


「朝のことなんだけど、正門のところでテレビ局の人達に囲まれたんだ。わたしの名前と顔、それからあのピンぼけ写真を知ってて待ち伏せしてたみたい。ビッシーを殺人鬼として追っかけてるでしょ? それで撮影時の話を聞きたいとか、被害者は死んでるのになんでわたしは生きてるのか、とか……」


「ええっ! な、なんであの写真が!」


「……本当に、メガネじゃないわけ? あの写真とわたしの個人情報を流出させたの」


「違うよ! 冗談じゃないよ、そんな! あれは大事なネッシー目撃画像じゃないか、あんな大事なものをマスコミなんかに渡すもんか! 大体あの写真は星くんが持ってるはずだよね、僕に譲ってはくれなかったし! そうだよね!」


「とか言って、密かにスキャンとかしてたり? 教授に見せた後とか、返してくれるまで暫く間があったじゃん」


「そんな……」


「よーく考えてみてよ」


 星にそう問われて、メガネはうーん、と考え込んだ。確かあの日教授に写真を見せたときは――――






『おおっ、こ、これは!』


 目を見開く教授が、星の撮影したピンぼけ写真を手に声を上げた。


『教授、それではやっぱり写っていたのは……』


 喜びに花が咲きそうなメガネが言いかけたのだが、それは教授の言葉によってかき消えた。


『立派なピンぼけだな、うん』


『はいそうなんです、いいピンぼけ……えっ、ええ?』


 笑顔の途中で固まったメガネをちらりと見て、教授は続けた。


『これがビッシーかどうか? はそうかもしれんしそうじゃないかもしれんとしか言いようがないな。なにせ、酷いピンぼけだからな。だがまあ、そうでないという否定もできない。否定が出来ないということは可能性はあるという事になる。これに類似する写真としては一九六〇年に撮影されたものが一番近いがな。いいか、そもそもネッシーとという種族はだな』


 その後の記憶として残るのは、延々とネッシーを撮影する際の難しさについての講義を続ける園田と、徐々にピンぼけ写真と言われた事へのショックよりもネッシーについての講義に熱を上げて行ったというだけである。





「教授の講義はいつ聴いても素晴らしいよ」




 回想の海から戻って最初に、メガネが笑みを浮かべて発した言葉が、これである。


 ヒビの入ったレンズ付きであるのが、些かもの悲しいが。


「平和だね、メガネの頭は」


 引きつり笑い気味にそう言った星は、はあ、と息を吐いた。


 つまり、状況を整理するに流出させたのはメガネではないらしい。そしてあの日、部室から出る際に写真は確かに星の手元に戻された。


「教授がだらだらしゃべってたのが二時間くらいだとすると、その間ならスキャンしたりコピーしたりも出来たってことになるよね」


「まさか、ミス研の誰かを疑ってるの?」


「じゃなきゃ、誰が……」


 星がそう言いかけた時だった。講義棟の外から声が響いてきた。


 大勢の人間が動くような、騒がしい物音に窓に張り付いた星は、そこに見た光景に心臓がびくりと跳ねるのを感じた。


「え、ちょっとなに」


「マスコミが敷地内に入ってきてる!」


 声を上げた星は、咄嗟に廊下を逆方向に走り出した。


「えっ、ちょっ、星くん!」


「逃げるよ!」


 ちょうど正午の時報が鳴ったところであった。


   38

 

 どうにも、いけない。


 園田教授は眉を寄せていた。


「わからん、サッパリわからん」


 憮然とした顔つきは、いつもの通りだが、今は本当に見た目通りに機嫌が悪かった。


 ちらり、と見上げたデスク上の時計は十二時三四分を指している。


 見たとおりの、昼時だった。


 起床時間は毎朝同じ午前六時であり、既に朝食を取ってから六時間が経過している。


 当然ながら、腹は減っていた。


「うむ……」


 だがしかし、彼の教授は動かなかった。


 自席と定めたサークルの部室、その席から動こうとはしない。


 奇妙な沈黙が流れる空気を断ち切ったのは、弁当をかき込みながら本を開いていたフロッピーであった。


「あのーどうかされたんですか、教授」


「……うむ」


 だが、返される返事はいつになく煮え切らない。


 その時、弁当を食べながら本を読んでいたフロッピーはミクロレベルに疑問に思いつつ、視線を教授の視線が向かうデスクへと向けた。


 教授の大きなデスクの上。そこは、積み重ねられた書類という名の断層を重ねた山脈と、時折なぜかプレートに巻き込まれたのか断層の間から姿を見せるみかんの皮や何かのチラシや菓子の袋などで形成されている。


 いつもながらにカオスであった。


 確かに見ようによっては、面白みがないわけではないが、所有者以外の人間にとってそこは、どこでゴキ……いや、地雷を踏んでしまうかというマインスイーパ的な楽しみである。



 だが見慣れた教授には、驚きなどないはずだ。


「なんか、面白いものでもありましたか」


 重ねて問われた園田は、相変わらず眉を寄せたままでへの字に曲げていた口を開いた。


「……謎なのだ」


「謎?」


「うむ。赤いハートのメッセージをもらったのだ」


 ネッシー研究家であり不思議、謎、怪奇に超常的なものは大好物であるはずの教授が謎だと口にすれば、興味を引かれないわけはない。


 しかも、ハートのメッセージときた。


 読みかけていた本、『しゃもじはいつから付喪神になるのか』に付箋を挟んだフロッピーは、教授から語られるであろう謎に集中しようとした――


「教授! 教授はいますか!」


 ばたばたと足音が聞こえたと思ったら続いて、どん、と勢いよくドアが開かれた。


 ぐあん、と亀甲縛りの呪術人形が揺れる。


「なんだ、加納。騒々しい。ドアくらい、閉めんか」


「あ、すみません。僕は田崎です! じゃなくて! 大変です!」


 急いでいるのにそう言われてドアを閉じる辺りに、田崎の真面目さが現れているとフロッピーは思った。


「なにがだ。今このわしが直面する謎以上に謎を抱えたミステリーが存在するものなら言ってみろ。因みにわしの方は貞操の危機だぞ」


「はあ、貞操の……ええ! え、いや、それどころじゃな」


「それどころ、とはどういう意味だ。貴様にとっては他人の抱える事情などどうでもいいということか。よくわかったぞ、原田。レポートなしには卒業できるなどと思うんじゃないぞ」


「ええ? いやいやそれは困ります。っていうか、貞操の危機って誰のですか、飼い犬とかじゃないんですか、だから大変なことが起き……」


 何やら一大事を告げに来たらしい田崎と、全く応じない教授を交互に見ながら、フロッピーはハンバーグを口に放り込んだ。



もぐもぐもぐ


 見慣れた日常である。だが教授にとっては一大事であるらしい。


 きっ、と視線を厳しくした教授は、腕組みをして口を開いた。


「聞いて驚くな。貞操の危機が迫っているのは、わしだ」


「はあ?」


「うぐっ」


 戸口に立つ田崎の顔は珍妙な具合に固まり、ハンバーグを咀嚼していたフロッピーは口を押さえた。


「失楽園。昼顔……ふむ」


 そして当の本人は危機だと言いながら、誤解をされそうな言葉を発している。


「き、教授、あの、なんとなくうっすらと事情がわかったような気がしないでもないんですが、っていうかお取り込み中すみません! 一大事なんですって!」「だから、何がだ」


「ですから、それを説明し……」


 しかし、この世はままならぬものである。


 たたたた、っと軽めの足音がしたと気付いた次の瞬間に再びミス研のドアは勢いよく開けられた。


 呪術人形が、跳ね上げられて壁にぶち当たっている。


「教授! 教授はおられるか! ついに来たるべき時が来たのだ!」


 高めの声は勢い込んで来たらしい、おかっぱ頭から発せられた。


「なんだ、花子くん。君まで全力疾走か」


 黒髪を乱した花子が、ウエストできっちりと細いベルトを締めたワンピースの裾を揺らしながらずかずかと大股で先にいた田崎を押しのけながら教授のデスク前まで歩いてきた。


「風が告げに来たのだ、教授。事は急を要する。忌まわしき悪相が出ているのだ、今は一刻の猶予もならない!」


「ふむ。よくはわからんがとにかく呪術道具一式を出せと言うんだな」


「左様! 直ちに悪しき魂らを祓い清めねば、コノ世を救うことなど出来なくなってしまう!」


「出してやらんこともないが、現時点でわし自身が謎の渦中にいる。これが解決するまで、待て」


「な、なにを悠長なことを! 教授、お分かりではないのではないのか! これは世界の一大事……」



 花子の言葉を遮ったのは、先ほど押しのけられた勢いに怯んだ四年生の田崎である。


「ちょっと待って待って! 僕が先に来てたんだから、っていうかね、世界救済とか非現実な一大事じゃなくて、本当に現実にヤバい状況があっ」


「非現実とは何事でござるか!」


「あ、いや、それは言葉のあやっていうか。いやもう、そうじゃなくて、実はさっき講義棟で聞いたんだけど、ここに警……」


「侮辱する気でござるか、貴様ぁ!」


「ええっ、なんでそうなるんだ!」


「しかし、このハートマークという代物は解釈の仕方によっては、意味合いが変わると聞く。そうだな、フロッピー」


「げほげほ、ふ、ふぁい? あ、教授、今なんか言いました?」


 埒があかない。


 誰か一人でも冷静な人間がここにいれば、事態は大きく違ったのだろうが、残念である。


「貴様ぁ、その呪術を軽んじる発言……いくら先輩であろうとも容赦はできぬ!」


「だから、誤解だって! 本当に一大事なんだって!」


「失楽園はあれだな、黒木瞳が良かったが、どうにも古いな。昼顔はやっぱり上戸彩ちゃんか。ふむ」


「はー、喉がすっきりした。口直しには卵焼きーっと」



 ぱくり。


 ドンッ


 フロッピーが卵焼きを口に頬張ったのと、三度ドアが開いたのはほぼ同時であった。



「ちょっとどうにかしてよ! ま、マスコミが!」


「き、教授! なんだかわかんないんですけど……お、追われて……!」


 勢いで呪術人形が壁と接吻し、勢いで三度扉が閉じられた。


「なんだ、お前ら。えーっと、ああ。ネッシーの新人か。それと……メガネは」


「だからネッシー女子なんかじゃないって言ってるでしょ! わたしは写真女子なの!」


「あ、あの、霜月です。二年生の霜月陽です。あの、教授なんか、星くんの話だと大変な事になっているみたいで……」


「大変なこと? 失楽園と昼顔を目の前にした謎解きで既にわしは手一杯だがなんだ、これ以上に大変なことがあったとしても要らんぞ。帰れ帰れ」


 腕組みして憮然と答えた教授に、それぞれが言い返そうと口を開いた――――


 バンッ


「ミステリー研究会はこちらですか。滋賀県警のものです。お話を伺いたい」


 四度目に開かれたドアの勢いで、呪術人形が床にぽとりと落ちた。


 亀甲縛りされた眼が、洞を開けていた。


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