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ネッシー教授の反逆  作者: 奏ちよこ
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第二章「事件、発生」

 初夏と呼ぶにはまだ肌寒く、花冷えと言うには過ぎた春の終わりである。


 流石に雪はないしみぞれだのが降りかかってくる恐れも心配もないのだが、ショルダーバッグを肩にのせた格好で、星はつま先立ちという如何にも不安定な体勢で、キャンパスの敷地を歩いていた。


 進行方向にあるのは、門の外にあるバス停である。


 さほど遠い距離ではないし、午後四時付近という現在時刻では星と同じくその日の予定を終えた学生達が、帰宅の途につこうとしていた。


 ある者らは談笑しながら、また別の学生は耳にしたイヤフォンで音楽を聴きながらのんびりと歩いているのだが、彼らの間を隠れるようにしてつま先立ちという不安定な姿勢で腰を屈めて歩く星は、少々異質な存在である。


 しかも、正しくは肩掛けであるはずのバッグを肩からかけるのではなく肩にのせて、である。


 周囲の学生がちらほらと星に視線を投げているのも頷けるのだが、本人はそんな些細な事には気が回らない。


「三時五十分か。よし、このまま行けば五十二分のバスに間に合う」


 メッセンジャーバッグの影で、スマホの表示する時刻を見て星はほくそ笑んだ。キャンパスの敷地を出るまで、残り二十メートルは切っている。


 そしてゴールであるべきバス停は、門のすぐ脇にあるのだ。


 そろーっと歩く星の視界は、ついに目指す時刻表付きの停留所を捉えた――時だった。


八城星やしろあかり! こんなところにいたのか!」


「ひぃッ!」


 背後から伸びてきた腕に顔を隠していたバッグを取られ、星は短く悲鳴を上げた。


「かっ、勘弁して下さいっ! 布団を干しっぱなしで! ああああほらっ、あめ、雨が降りそうだしっ! わたしネッシーなんて興味ないんですからっ」


 血の気を失いながら、バッグを取り返そうと振り向いた先にいたのは、意外な人物だった。


「はろーぅ。星。なにやってるの?」


 そこにいたのは友人、優羽ゆう

 取り上げた星のバッグを手に笑っていた。


「あ、優羽」


「はい、バッグ。なにか、逃走中って感じだったけど。もう帰り?」


「あはははは。うん、ちょっとね、妙な連中に最近っていうか、昨日から? 絡まれてて。平和に帰宅したいなーなんて」


 苦笑いを浮かべながら、受け取ったバッグを肩から下げた星は優羽と並んで歩き始めた。


「妙な連中って? なにー、この平穏極まりない琵琶学大にも琵琶湖事件の余波が押し寄せてるわけ? いやだー」


「琵琶湖事件? なにそれ」


 優羽の言葉に問い返した星は、既に停留所の数歩手前まで来ていた。


「あれ、知らない? 今朝方らしいんだけど、ビッシーが目撃されたって、ニュースで」


 ビッシー。


 ビッシーとは、琵琶湖で目撃されたという、所謂ネッシーに付けられたニックネームである。


 そんなどうでもいい知識を最近耳にした気がしたな、等と思い出した星は顔が引きつるのを感じた。


『ネッシーです、星くんの撮影したのは、ネッシーなんだっ!』


 なんだかそんなような発言が、耳に記憶としてある。


 気がする。


「あはははは……はは……」


 引きつり気味に上の空で応える星には構わず、優羽は事件のあらましを続けた。


「それがさ、笑い事じゃなくて。目撃したレジャー監視員のおじさん、未だに意識が戻らないらしいのよ。ビッシーって観光アイコンだから実在してたって話になれば観光協会も喜びそうだけど、意識が戻って証言しないとなんだかわかんないよねー」


「意識不明……?」


 驚いて気絶したのだろうか。


 思い浮かぶネッシー、いやビッシーといえば翼竜だか首長竜だかのような姿で、水面から首を出している格好のぼやけた写真くらいのイメージなのだが、実際に会えば気を失うほどに驚くようなモノなのだろうか。


 実在してれば、の話だが。


「まあでも、いたらいたで楽しいと思わない?」


 にこ、と微笑む優羽に星は首を傾げた。


「そうかなぁ。わたしは、あんまり」


「あれ、星ってそういう不思議なものはキライだったっけ」


「うーん、嫌いっていうか、どうでもいいかなあ」


 奇妙なモノを研究すると言っていたわけのわからないサークルの連中に遭遇したのは昨日のことであった、と思い出しながら、苦笑いを浮かべた。


 宇宙人とか黒魔術とか、ネッシーとか。


 本当に正直いって、どうでもいい。


 テレビで特集をやってりゃ、見るかも知れない。あくまでも娯楽の一つとして。面白いと思うかもしれない。あくまでも、暇つぶしの一興として。


 けれど決して自分で追いかけようとは思わないし、発見されたからと言われたとしても特別に騒ごうという気持ちは起こらないと思う。


 例えば雪男でもネッシーでもいい。普通に発見されて然るべき専門家の判定を受けてネッシー発見、と相成れば、何れ動物園か水族館あたりでお目に掛かるはずであるし、そうなってフィーバーが落ち着いた頃に見られたらそれで十分である。


 そう、例えばパンダくらいの難易度で見られればそれで満足だろう。


 そんな風に星にとっての不可思議な超常現象だの未確認飛行物体やら生物への考えを改めて認識したところで、ふと過ぎるのは遭遇した奇異な人々の事であった。


 ミス研、と名乗った彼らの別世界へ逝ってしまった言動や部屋の様子を思い起こすと、身震いが起きる。


 あの世も異星人もどうでもいい。


 どちらも生きてる間には、あまり関わりたくない部類の話だ。


「へえ、意外。自然風景動物の写真が好きだから、てっきり超自然的なものも好きかと思ってた」


「動物は好きだよ。森の中で出会う鳥たちや、動物の仕草は大好き。だけど、いるかいないかわかんないオカルトの世界はなんか抵抗があるっていうか」


 そう応えると、優羽がふうん、と頷いた。目の前には停留所があり、あと数十秒程度でバスの姿が山道に見えてくるはずだった。


「……あー、いた! 星くん! いた!」


 その声が、聞こえるまでは。


「……え」


 嫌な予感というか、嫌な感覚を覚えた星は、振り返らずとも判る声の主を振り返った。だがそれが、とてもぎこちない動きになってしまったのは致し方ない。


 現実逃避をしたい心情があれば、自ずと行動にも影響を及ぼすものである。


 そうして敵を確認後に咄嗟に逃走しようと思ったのだが、コンマ数秒ほど声の主の方が早かった。


「なにをやってるんだよこんなところで、もう! 講義が終わったらサークルの部室に来てくれって昨日も言ったじゃないか! とにかく聞いてると思うけど、一大事なんだよ、ビッシーが目撃されたんだから。これ以上の追跡調査のチャンスはないよ! 余所のミス研が出張るって噂も出てるんだ、一番近い僕らが遅れを取るわけにはいかないからね。さあ、早く早く!」


 振り返った先にいたのは、駈け寄ってきた地味メガネ男子学生である。やはり地味としか表現し難い風貌なのだが、心なしか目が輝いている気がする。


「え、あ、いや、わたしっは興味な」


「教授ー! 田崎せんぱーい、車こっちにお願いしまーす! あ、バッグはこれだね、いいよ僕が預かるから」


「ち、ちょっと何を勝手に! 手を離し……てかバッグを返してっ!」


 呆然とする優羽を尻目に、キャンパス横の駐車場から出てきた古くさいセダンに手を振り、メガネ地味学生は星のバッグを抱えて走り出していた。


「早く早く! あ、カメラは入ってる?」


「いやまだ点検中だからサブのが入ってる……じゃなくてっ、わたし入部した記憶なんてないんですけどっ! 人の話、聞いて……いいからちょっと、待ってって!」


 大事なカメラを人質に取られては仕方ない。


 大事な大事なメインのカメラではないが、貧乏が極まる星にはサブマシンだって大事な子だ。


 紛失その他の事情で簡単に替えが買える状況にはない。


 故に。


 地味学生が小走りに駆け出したその後ろを、星も走るしかなかった。


「おーい、行くぞー」


 後部座席から顔をひょい、と覗かせた教授に声を掛けられた地味系男子学生は、星のバッグを抱えたままで、加速した。


「教授ー! 今日こそビッシーの実像に迫りましょう! 僕も幼い頃からの悲願ですから、ネッ」


 だが教授の視線は若干、メガネよりも後ろを向いていたらしい。


「そこの新入りネッシー女子、君ね、早く乗りなさーい」


「あの! わたし、入部してませんから!」


「あー? なんだか聞こえんなー。とにかく急ぎなさーい」


 メガネ系男子学生の覇気が減退したような気がした。


 元より、さほど感じなかったのだが。


 運転席に見えるのは、昨日腰を痛めていたはずの田崎と名乗った学生だったが、やはり痛むのか眉を寄せているのが見えた。


 車に走り寄った地味メガネが、後部座席に乗り込みながら興奮気味に言い募る。


「きょ、教授……僕も、僕もネッシーに会いたいんです!」


「いいから、バッグを返してってば!」


「なんだ君は。ああ、いたのか。確か……えーと、なんだったかな、名前が思い出せんぞ」


「きょ、教授――、僕は二年の霜月です!」


「あーそうだった、如月だった」

「違います! それは二月です! 僕は十一月の方です!」


「……車、出しますよ、いいっすね、教授」


「おお、頼むぞ篠田」


「だから! 田崎です!」


 そうして車は、発進した。


 向かう進路が、迷宮に繋がるとは思いもせず。


「ちょっと、バッグを返してっ……なんでわたしまで――!」


 星も、その一員として。


10


 事件が起きたのは、湖畔が夕闇より濃い夜に包まれた午後八時過ぎであった。滋賀県が管理するレジャー監視員である松島慎治は、近隣に住まう住民でもあるのだが、春めいてきたこの日の夕方になってかねてより気に掛けていた夜間の観光客たちの様子を見ると家族に言い置いて、出掛けたという。


 常日頃は松島氏が監視に向かう時刻は昼間なのだが、日頃から口癖のように暖かくなると釣りだので暗くなっても灯りも用意せずに観光客がいることを気にする発言をしていた為、その点を不審に思う家人はいなかった。


「……先生、あの……主人は」


「ああ、奥さんですね。詳しい容態については、あちらの部屋でお話しましょう」


「はい……」


 湖だと侮ってしまう人が居るのだと、嘆いていたことを知っていたから、いつか怪我人などが出ないようにと気に掛けていたのを知っていたから。


 だが、松島氏は夜半になっても戻らなかった。心配した家人らが、メールや電話で連絡を取ろうとしたが、繋がらない。


 その内に時刻は夜中に近くなり、ついには他の監視員らと共に常日頃の巡回コースとなっている道筋へと様子を見に行ったのだが、そこにも松島氏の姿はなかった。


 ドアが閉まりブラインド越しの明かりが窓から落ちた部屋には、沈黙と医師がパイプ椅子に座る位の物音だけがあった。


「……外傷は、浅い傷が肩口と手の平に少々です。恐らくこれらは、転倒された際に出来た傷だと思われます。何れも傷としては浅く、治癒は早いでしょう。……ただ……」


「先生、主人の意識は……もしかして、もう……」


 医師の言葉の続きを待たずに、夫人の目には涙が溢れ始めていた。


「……奥さん、気をしっかり持つことが大事ですよ」


 柔らかな春の終わり、太陽の明かりが白々しく床に落ちていた。


11


 

 人生なんどき、何が起こるか判らないという。


 が、これはあんまりにあんまりではないだろうか。


「……なんで、わたしこんなとこにいるんだろう……」


 草が生い茂る湖畔の朽ちかけた倉庫裏で、星はぽつりと呟いた。


 腕時計を見れば、午後六時を過ぎようとしている。


 これが実家住まいであれば、家族が食事の支度をしているだのなんだと言い訳を付けて帰宅することもできるのかもしれない。


 だが、生憎と星は学生向けアパートに一人暮らしであった。


 それでも一応は適当な事を言って帰ろうとしたのだが――――


『ネッシーの姿を捕らえるのは、今しかない!』


 とかなんとか、わけのわからない理由を主張する連中によって、ここで車から降ろされてしまったのだ。


「あーああ、もうやだ」


 膝を抱えて座り込む星は、さざ波を立てるだけの湖面へと視線を向けてため息をついた。


 琵琶湖、と一言で言うが周囲二四〇キロ余り。寧ろ湖というよりも、ここはちょっとした海程度の規模である。


 その、どこでもない地点で車から降ろされた星は、現在位置がわからないわけで、帰宅するにはミス研の連中が乗ってきた車に乗る他に手段がないわけであった。


「ついてないっていうんだよね、これをきっと」


 多分、琵琶湖はわたしにとって鬼門なのだ。


 星は水面を流れる葉を見ながら思った。


 あの大水しぶきで大事なカメラは水浸しになるわ、フィルムはダメになるわ、おまけにそこで撮れてしまったピンぼけ写真のせいで妙な連中につきまとわれる羽目になったわけだ。


「琵琶湖になんか、恨みでも買ったのかなぁ」


 ゴミのポイ捨てなどはしたこともないけれど、かといって緑化運動や清掃活動に積極的に動いた……という記憶もない。


 トタン板で打ち付けられた倉庫、というよりも簡単な物置として機能してきたらしい小屋には錆が浮き、風雨にさらされて穴も所々に開いている。


「お腹、空いたなぁ」


 気のせいではなく、先ほどからぐうぐうと腹も主張をしてきていた。


 もうさっさと帰りたい。そう願うのだが、サブのカメラを手にした星は只管に湖面を見つめ続けるしかないのであった。


「何処まで行ったんだろ、あの人達」


「あ、星くん。お疲れ様ー! どう、どんな感じ?」


 つぶやいていると、小屋の反対側の小道からがさごそと草をかき分けながら近づいてくる声があった。


 地味学生である。


 バックパックを背負ってこちらへ向かってくるメガネが、ほぼ夕闇から夜になろうとする小道を歩いてくる。


「どうもこうもないっていうか……あの、いつになったら帰してくれるんですか」


「えーっと、とりあえず夜間の監視システムを確認し終わったら帰るはずだよ」


 にこり、と暗くなりつつある夕闇の中でメガネが機嫌良く応えてくれるのだが、星は意外に思った。


「夜間の監視って……暗視カメラとか、そんな設備まで?」


 たかが、いるかわからないというよりも、恐らく存在しないに限りなく近い、ネッシーに?


 あの怪しげな部室からは想像しにくいが、もしかして資金も潤沢なサークルなのだろうか。


 そんな風に思ったのだが、メガネは首を横に振った。


「ううん、あればいいなって思ったけどないから、市の環境保全監視員さんにお願いしてるんだ、夜間はね」


「はあ」


 市の職員さん、そして監視員さんもご苦労様である。


 心の内であの変な教授や学生らに押し切られるであろう人々に、同情した。


 猪突猛進、と言うが、彼らの突っ走り具合はどうにもおかしい。


「湖底で休んでいるのかなぁ」


 呆れかけながら顔を上げれば、メガネが湖面を見つめながら零した。メガネに湖面からの光りが反射して、表情はよくわからないが、元が地味が過ぎる顔だから恐らく大差はないだろう。


「……本気でいると思ってるの」


「え?」


「ネッシー。いるって、思ってるの?」


 振り返ったメガネに、星は重ねて問いかけた。


 疑わしげな声色のせいか、僅かに間を開けて地味学生が応えた。


「いるよ。絶対」


 欠片も疑いを感じさせない、強い口調でメガネが言い切った。


「なんで?」


 だからそう、自然に問うたのだ。なぜ、いるはずのないものの存在をそう簡単に肯定できるのか、と。


 すると地味学生メガネは、星に向き直って応えた。


「僕が、会ったから」


 ぱしゃり、とどこかで水が跳ねた。


12




 田崎はううむ、と唸った。


 ビッシーが目撃された地点に来ているのだが、湖面までの距離が長く間には背の高い草が茂っている。


 これでは、どうにも視界が悪い。


「教授ー、視界が悪いですよー。これじゃあちょっと周辺の人に聞き込んでも難しいかもしれません」


 数メートルほど後ろで、双眼鏡を手に湖面を見ている教授に声をかけた。


「聞いてんのかな、聞いていると期待をしていいのかな」


 独り言を呟くが、教授は双眼鏡を手にしたままで微動だにしないし反応もしない。


 相変わらず、我が道を生きている。


「……ま、仕方ないか」


 教授だから。


 そう、胸の内で呟いて田崎は持参してきたナイロンのショルダーバッグを開いた。持参してきた愛用の品々を確認すると、もう一度だけ双眼鏡の人に声をかける。


「教授ー、この辺りで目撃情報を聞いて夜間の監視をお願いして来ようと思うんですけどー。教授は行かれませんかー」


 大学のサークルから一学生が依頼にゆく、よりは仮にも教授という肩書きがある方がなにかと便利である。それに、教授はこういう肩書きが優位に立つような場面は好物のはずだ。


 そう思っての質問だったのだが、聞いているのかいないのか判断の難しい教授は、無言である。


「えっとー、返事がないから僕が教授の代理で行って、OKってことでいいっすねー。それじゃー暗くなる前に行ってきますからー」


 そう重ねて問いかければようやく、うあ、だか、うぬ、だかよく判別の付かない音声が微かに聞こえた。


 余程に面白いものが双眼鏡の先に見えているのか、いい加減な反応であるが、それが返事であろうと判断して、田崎は道筋へと足を向けた。草をかき分けて道に戻り、最寄りの民家があるはずの方向へと歩く。


 坂を上がり、湖畔の水音も遠くなった頃にようやく数件の民家が見えてきた。


「手前から二番目が、被害者と同じレジャー監視員をしている坂野辺さん宅、か」


 調べてきたメモを見ながら、田崎は坂道を登ってゆくと、石積みの門構えにその表札が見えた。


 インターホンを押し、ふと鼻先をくすぐる香りに坂野辺さんちの夕飯は焼き魚かあ、などと思っているとようやく聞き覚えのある声が返ってきた。


『はい、坂野辺ですが』


「あ、お忙しい時間にすみませーん。琵琶学大ミス研の田崎ですー。すみませーん」


『琵琶山大ミス研……ああ、……夜間のUFO監視をやった……。なんじゃ、またUFOか?』


「はい、あ、いえ。今回はビッシーなんです。あの、いつもお願いしている夜間監視の件とですね、併せてビッシーを目撃されたっていうお話を伺えればと思ったんですがー」


『あーああ。あの件か。松島さんや、松島さんが見たゆう、化け物の話や。わかった、ちょっと待って』


 カタカタ、と物音が聞こえたかと思っていると、玄関の扉が開いた。


「すみませーん、お忙しいところ」


 へらりと笑って田崎は五十代後半と思しき坂野辺さんに、挨拶をした。


「いやいや、この時間に忙しいんはかみさんだけやから、まあええよ。ほんで、また夜間の監視をしてくちゅう話か?」


「あ、はい。それは教授の代わりに是非とも、お願いしたいところなんですけど……」


 しかしそれを聞いた人の良さそうな坂野辺の眉が、寄った。


「ええよ。ええけど、お宅の教授さんな、頼んだら頼みっぱなしやろ。前も秋頃にUFO出るから監視じゃーなんじゃーゆうて頼まれはったけど、一体いつまで気にせなあかんのか、とかな。具体的にこう言うてくれんと。おいちゃんらもな環境監視員ゆう仕事があるんやからな、いっつもぼーっと空ばっかり眺めとるわけにはいかんのや」


 いわれる事は、ごもっともである。


 教授は言い出したら周囲がなんと言おうが聞かないが、更に忘れるのも異常に早い。


 豪速である。


 田崎の記憶をひっぱり出すと、確かに昨年の秋頃は琵琶湖周辺でのUFOの目撃情報により、ミス研内というか教授の脳内がフィーバー状態だった。


 恐らく環境監視員の皆様にUFOを目撃したら知らせてくれと依頼をしただけで、その後は放置したのだろう。


なんという、酷い仕打ち。


 田崎は、小言をくれながらもまだ協力してくれようとする坂野辺に、自然と頭が下がる思いである。


「……すみません。あの、教授に代わって、ご迷惑をおかけした点は深く反省しお詫び申しあげます。ただ、今回はビッシーが対象なので、UFOの時みたいに空を見上げる必要はないかなぁ、と思います……」


 それでも良かったら、ご協力をいただけると助かります。


 痛む胸からそう、田崎が付け加えようとした時だった。



「ええけどビッシーな。ありゃあ、とんでもない化け物かもしれへんで。松島さんの意識が、まだ戻らへん」


 坂野辺が、人の良さそうな顔を苦しげに歪めて、言った。


13


 


 地味学生は、霜月陽しもつきあきらと名乗った。地味過ぎて気付かなかったが、星と同じ国際教養学部の二年生らしいことも、知った。


「小さな頃の話だけど、ネス湖に行った事があるんだよ。叔母が、あちらの人と結婚して。両親と僕とで、初めての海外旅行だよ」


 小学一年になったばかりの、夏休みだった。


 初めての海外旅行、初めての飛行機で移動する長時間のフライトは、幼い少年には退屈だったりつまらなかったりしたけれど、それも彼の地に到着して得た出会いによって全てが帳消しとなった。


「そこで、会ったってわけ? ネッシーに」


「うん。見間違いじゃないか、とか夢でも見てたんだろうとか、色々と大人には言われたんだけど……でも、あれは本当にネッシーだったよ」


「ふうん」


 気のない返事を適当に返した星は、手にしている自分のサブカメラに視線を移した。


 ファインダーを覗くが、既に日も暮れつつある時刻は十分な明るさをもたらしてはくれない。


「ふうん、って。え、なに、それってもしかして僕の話がその、つまらないとかそういうアピール?」


「まあ、そうだね。ていうか、静かにしてくれる」


「ええッ、な、なんか冷たいんですけど!」


 焦った声をあげたメガネが青ざめているが、星はそちらを見ることもなく、ファインダーを覗いていた。


 揺れる水面に、夕日の消えた空に残された群青が、落ちている。


 葉が作る影は、どの黒よりも黒く紫色を秘めている。淡く永遠に続く陰影が暗さの中に太陽の残り香を留めていた。


 この時間帯にしか見られない、夕闇が作るコントラストだ。


 ピントを合わせ、絞りでフラッシュを炊かないギリギリを狙う。


 カシャン……アナログの、一枚を撮る音が微かな振動と共に指から腕に伝わる。


「……いい、色」


 目に焼き付けた一枚の仕上がりを思い描き、自然と星の頬に笑みが浮かんだ。カメラのストラップを肩掛けにし、後ろのメガネを振り返った。


「わたしさ、ネッシーとかUFOとか、そういうのに興味がないんだ。写真が好きなだけ。メガネ君が言う、奇跡の一枚っていうのも、あれはタダの偶然だよ。多分、葉っぱか枝だかなんだかわからないけど、偶々撮れたピンぼけ。だから、なんか誤解しているんだと思うけど、わたしはミス研には関われな……」


「賞金が出るよ!」


 関われないよ、と言おうとした言葉を遮ったのは、霜月メガネの言葉だった。


「え」


「聞いてたよ、通学中に友達にぼやいてたでしょ? お金がないって、どっかから降ってこないかなーって。ネッシーを撮れば、賞金が出るよ!」


 どこか遠くで風に揺られた水音が、聞こえた気がした。


  14


 夜の帳が降りるというが、正しく夜へと世界が移った中、田崎はため息交じりにハンドルを握っていた。


 所属するサークル内で唯一の免許保持者であり、更に動く車両を所有しているというだけの理由が全ての原因であった。


 ちらり、と後部座席を伺えば、白髪に近いオールバックが不機嫌そうな顔で、耳にしたイヤフォンからの何やらに聞き入っている。


「あのー、教授」


「なんだ、今井。言いたい事は早く言え」


「何度も言いますが、僕は田崎です。……んじゃ、言わせてもらいます。レジャー監視員の松島さん、あの、ビッシーに遭遇して未だに意識不明っていう方なんですが、意識がないなら遭遇した相手がビッシーだって、どうやってわかったんすか?」


 田崎の運転する古い型のセダンは、既に琵琶湖から少々離れた道を走行していた。新人の女子をまずはアパートまで送り届け、次に影の薄い二年生を下宿に送り届け、そうして車内はというと田崎と後部座席にでん、と構える白髪だけである。


 タクシーではないのだが。


「そんなことか」


「そんなこ……! あ、いや。教えて下さい。教授」


「お前に限らず学生が教授と連発する時は大概において腹の内では真逆の事を考えて居ると相場は決まっている。木村。まあいい。送り賃代わりに教えてやろう」


 なんでこの人はいつもこんなに必要以上に、偉そうなんだろう。


 若干、心の三層目あたりで疑問に思わないではないが、ここで突っかかっても話が先に進まない事を熟知している田崎は、黙って先を促した。


 大人である。


「ふん。事は実に単純だ。松島と言ったか、ビッシーに遭遇したというレジャー監視員のスマートフォンにだな、画像が残されていたのだ」


「え、ビッシーの、ですか? 教授はそれを見たんですか? というか、松島さんの名前は一発で覚えたんですか?」


「そうだ、見た。あれはビッシーの画像だった。でなければ、なぜ私が一市民が卒倒したような事で動かにゃならんのだ。出張から持ち帰った秘宝らもまだ手つかずだというのに。あの男の家族から何やら怪しげな画像が写っていると聞かされた派出所の警官が私のところへ持ち込んだのだから、間違いがない。うん、あの警官は中々に見込みがある。だが医者という連中ははいかん、なぜにああも疑り深いんだ」


「ちなみに、医者はなんと?」


「思い込み故の見間違えによるショックだろうと言うんだが、一体なにをビッシーに見間違えると言うんだ。あの時刻にあの場所で他に見間違えるような巨大な生物がいたとしたら、それこそ新種の巨大生物じゃないか。あほらしい」


 後部座席からブツブツと文句が聞こえるが、田崎の眉間には皺が寄る。どうしても、聞かなきゃならない事があった。


「あの、教授。それって、間違いなくビッシーだったんですか? そのぅ、ビッシーってネッシーじゃなくて琵琶湖大ナマズって説もあるんじゃ。それに、もしかしたら、海坊主ならぬ沼坊主の線じゃないかと思うんです。江戸時代には琵琶湖にも沼坊主がいたという逸話があります。ビッシーの目撃談は近年に偏っていますけど、沼坊主に関しては僕の考えでは琵琶湖を望む山肌にも幾つか洞がありますし、何しろ、巨大という点ではひけを取りませんよ」


「ないな。あれはビッシーであった」


 キッパリ、と言い切った教授には、それ以上田崎から突っ込めるような余地が見当たらなかった。


 ゆえにこれ以上は言葉にはしないが、沼坊主の可能性を信じる田崎であった。


 穏やかな夜が、更けてゆく。


  15


 暗闇の中で、蠢く影があった。


 水音をゆったりと立てながら、水面を動いてゆくその姿を浮かび上がらせるのは月光である。


 仄白い光りによって、緩やかな動きが露わになってゆく。


 水深遙か深くより揺らされる水面は、あたかも地底からわき上がる水源があるかの如くに揺らめく。


 ぴちゃん


 跳ねた飛沫が、水際の葉を濡らした。


 流れ雲が月影を作り、星を隠す。


 誰も居ぬ、誰も見て居ないその夜を謳歌するように、ゆったりと、ゆったりと。


 巨大な影が、水音を立ててゆく。


16




 世の中、金である。


 午後十時という時刻を横目にしながら、風呂上がりの星はため息をついた。


 いや待て。


 金だけ、ではない。


 だけではないのだが。


「……ないと、困るんだよねー」


 星は頬杖をついた格好で、目の前に広げた請求書を見て呟いた。時給一〇〇〇円、三時間×週二日×四週=月収二万四千円。そこから引かれる天引きの望遠レンズが無利子であるとしても、総額十二万円で毎月二万円の支払い。


 つまり。


「手取り、四千円……あああああああ一ヶ月、四千円で足りるわけないじゃんっ、どう考えたって! 小学性のお小遣いの方が多いよ!」


 携帯料金だけで、既にマイナスである。親からの仕送りはあるのだが、これは流石に厳しい。


 はあああああ、と息を吐き出しつつ掻き回したショートヘアが四方八方に飛び跳ねた頃、ふっと、星はデスク脇の棚に置いた望遠レンズに目を向けた。


 超望遠レンズ。アナログカメラにマウントできる、最長クラスの優れもの。


 黒く艶やかに光る、素晴らしい機体が視界に入る――――のだが。


「肝心の、本体が修理……だもんなぁ」


 そして視線を目の前に移せば、修理費用見積書とある。


 お見積もり額、三万五千七百円。


 水浸しになったカメラの、修理費用である。


「……望遠レンズとカメラの維持には、仕方ない……か」


 スマホで一応は眺めてみた、ネッシーだと言われる過去の画像をちらりと視界に入れてから、星はイヤイヤながらもLINEを立ち上げた。


 背に腹は代えられぬ。そして――――


 ―ミステリー研究会に、入部します……―


 送信、に触れる指先が思うよりも重かったのは、無意識の拒否反応であったのだろうか。


「はあああああああ」


 盛大なため息を見ていたのは、流れ雲に隠れた星明かりだったのかも……しれない。


   17


 電子音が規則正しく、等間隔で鳴る。アラートはないから、兎にも角にも今現在は緊張をするような局面ではない。


 ふう、と一息をついてパイプ椅子に預けた背を起こした。


 倒れてから、既に数日。


 何度か震えるように動いた瞼に、意識はすぐに戻るかに思えたのだが、未だにはっきりとした目覚めの兆候はなかった。


「……あなた」


 常日頃とは違い、物言わぬ相手ではどうにも調子が狂う。


 こんなことなら、もっと普段から優しい対話を心がけて居ればよかった。連続ドラマのような理想的な夫婦の会話のような、暖かそうで柔らかそうで、甘い香りも漂うような会話を心がけて居ればよかったのかもしれない。


 医者は一過性のものだろう、と言った。


 脳波にも異常はない、と。


 でも。


 もしも、もしも。


 このまま目を覚まさないような事になったら――――


 ふとそんな予感が胸に過ぎるのを、感じていた。


 万が一、そんなことになったら。


 あの日、出掛ける前に交わした会話が、この人と交わした最後の言葉になってしまう。



 それだけは、嫌だった。


「早う、目ぇ覚ましてくださいよ」


 努めて明るくそう言った妻は、白い掛けシーツの上に投げ出された夫の腕に軽く触れ、そうしてリモコンを手にした。


 明るい音声が、白く静寂の病室に飛び込んだ。


18


 


 渡り廊下を学生たちが行き交う、午後の陽が少し陰りを見せ始めた時刻であった。


「ねえ、聞いた?」


「なに?」


 噂話に花が咲く日常の中で、交わされる何気ない他愛のない話たち。


「先週のビッシー騒ぎをテレビが取材に来るんだって。昼間のなんだっけ、情報番組」


「え、ほんとに? そんなにすごい話になっちゃったの?」


「よくわかんないけど、そうみたい。なんだっけ、うちの大学に変な名物教授がいるらしいじゃん」


「名物教授? そんなの、いるの?」


 問われた女子学生が、小首を傾げながら口を開く。


「みたい。よくわかんないんだけど、名物っていうわりに知ってる人があんまりいないんだよね」


「ふーん。あれかな、知る人ぞ知るっぽい、人物とかかな。でもさー、ビッシーに詳しい教授とかって……なーんか、あんまり嬉しくない気がするー。怪しいだけだよー。キモい」


「ああ、わかるわかる。どうせなら、もっとメジャーな形で有名な人が先生だといいよね、元プロスポーツ選手とかさー。そういう有名人ならちょっと興味ない?」


「そりゃーねー。イケメンだったらいいんだけど、うちの大学にいそうにないよね、そういう講師とか教授とか」


 苦笑いで同調する二人が、渡り廊下を行き過ぎ、華やかな笑い声が遠ざかった時。


 苦笑いではなく、引きつり笑いを浮かべた星が渡り廊下に立ちすくんでいた。


 怪しい。


 キモい。


 ああ、うん。


 思わず頷いてしまう、単語が的確に形容していた。あんまりに的確過ぎて硬直してしまった位だ。


「あ、星くーん。待ってって言ったのになあ。そんなにやる気になってくれたんだね、うれしいよ。教授がとにかく張り切っちゃってて、やっぱり当事者がいないと話にならないし」


 渡り廊下を走ってきたであろう、地味メガネが何かテンション高めで言っている。


 それも、一応は聞こえたし認識した。


「あはははは」


「いやー、昨日はLINEありがとう! うれしかったよ、あんまり通知音とか鳴らないから、何事かと思っちゃった」


「そりゃね」


 ネッシーだの超常現象ばっか追いかけてりゃ、友達いなさそうだもんなぁ。


 外見もダサいし。


「え?」


 聞き返された事に気付いた星は、思わず口から出そうになったそれらの言葉を飲み込んだ。


「いええ、べつにー」


「あ、そう? そうそう、それでさ。今日はCJTSってテレビ局が取材に来るんだよ、ビッシー事件の」


「ビッシー事件って……ああ、監視員のおじさんがビッシーを目撃して倒れたっていう、あれ」


「そう、その事件。今朝ね、田崎先輩から聞いたんだけど、その目撃者の監視員さんがスマホで撮影していたらしいんだ。ビッシーを。その画像からビッシーを特定したのがなんと、我がミステリー研究会顧問、園田教授なんだよ」


 メガネ学生が、心なしか嬉しそうにそう言った。


「へえ、教授の名前って園田って言うんだ」


 初めて知った。


「そこ? 驚く所はそこじゃないでしょ!」


「え? 意外に普通の名前だったなぁって。思って」


 白髪のオールバック。


 何を考えてんだか意味不明な眼光鋭きジジイを思い出した星は、もっとカーネルサンダース的な名前でもよかったのに等とフライドチキンに失礼な事を思った。


「違うよ! そこじゃないって! 被害者のスマホ画像からビッシーを特定したんだよ、そこがスゴいじゃないか!」


「はあ、そう、なの?」


「そうだよ! 星くん。君はまだよく理解していないと思うけど、ああいう画像からそれが何かを特定するってことは、並大抵ではない経験と知識の積み重ねがあってこそなんだ。そこへ来ると流石にうちの教授はすご」


「ビッシーだかネッシーなんて、いないから」


 メガネの言葉を遮って、星はきっぱりと言い切った。


「え……」


 渡り廊下の終点で立ち止まった星の言葉に、メガネ男子学生が僅かに目を見開いた。


「……入部はするよ、言った通り。だけど、ネッシーとか宇宙人とかを信じてるわけじゃないから。ていうかわたし現実主義者だし、寧ろ信じてないんだ」


「……で、でも、君が撮影したあの写真は」


「あれは! 枯れ葉か枝か、なんだかわかんないけど、とにかく自然の産物! そっちが勝手に勘違いしたんでしょー」


「違うよ! あれはどう見てもネッシー、いやビッシーだよ! 君は間違ってる。ネッシーは、必ず存在するんだから!」


 言い切った星に対して、メガネは更に強く言い返した。


 強く信じてる目、を見返して星は息を吐いた。


「そう信じてればいいじゃん。居ると思うのは勝手だから。どうぞご自由に。だけど、わたしは信じないからね」


 ふん、と鼻息が荒くなったが、対峙するメガネは更に、鼻息が荒い。


 ついでに興奮状態のためか、顔も赤い。


「……いいよ、今は信じていなくても。僕たちは何も偽ってなんかない。何れそのカメラで、君は自分の目で見ることになるんだから」


 お互いに売り言葉に買い言葉なのだが、メガネを見返して星は笑みを浮かべた。


「真相を暴いちゃうよ、きっと。フィルムは嘘をつかないんだから」


 渡りきった先の扉を、静かに開けた。


  19

 

 教授はご機嫌であった。サークルの部室として使っている、琵琶湖学大敷地の端っこにある、古い建物。


 その部屋には常にはない人々の姿と、緊張という名の空気がある。


 怪しげなとしか言い様のない、宇宙人や鳥人間、河童やUFO陰謀説を唱えるポスターやコラージュが壁を覆い、呪術用の人形が首から吊されるその世界の真ん中には、常にはデスク前に鎮座増します木造の椅子がででん、と構えていた。


 白髪のオールバックは、大変に浮かれていた。


 だが如何せん、基本的な顔の作りが好々爺とはかけ離れたしかめっ面である。


 おかがで彼のテンション高めな内面は、あまり近しい人間以外にはわかりにくい。


 今日もどこにでもありそうな白いワイシャツに、これまたどこにでもありそうなグレーのスラックス姿で口をへの字に曲げていた。


「……あのぅ、始めても大丈夫、ですかね……なんか、気に触ったんでしょうか」


「え? いえいえ、どうぞ始めちゃってください。ああいう状態の教授は、かなり上機嫌ですから」


 眉を顰めてそう言ったテレビ番組製作会社の、なんと言ったか横文字の役職を名乗ったTシャツの男性に応えて、田崎は苦笑いを零した。


 田崎の苦さを含む笑顔と、しかめっ面にしか見えないマイチェアに座る白髪とを交互に見やったテレビの男は、訝しみながら作業へと戻って行った。


 流石に生放送ではないのだが、これから撮影されたその映像が、いずれはお茶の間に流されるわけである。


 少々の緊張感を覚えながら、田崎は予め手渡された予定表に目を向けた。


「田崎先輩、一応言われた通りに資料を用意してきたんですけど、どうしましょっか」


 振り返れば、そこには丸っこい腕にファイルだのバインダーだのを抱えてコソコソと耳打ちしたフロッピーがいた。


 見なくとも、その中身がネッシーいや、この場合はビッシーに関連したものだらけだとわかる。


「ありがと。そこ、置いておいてくれると助かる」


「はい。けど、こんなに必要なんですか? 園田教授って確か、ネッシーに関しては世界でも第一人者って聞いた事があるんですけ、ど」


 やや自信なさげに、フロッピーがそう言いながら抱えてきたファイル類を田崎が座るいつものデスク脇に置いた。


「第一人者、うん。間違ってないよ」


「ですよね。教授が書いたネッシー研究書とかは結構、海外でも評価が高いって、前に二年の霜月が言ってて」


 だから、こんな資料は今更必要ないのではないのか。


 フロッピーの言いたい事はよくわかる田崎だったのだが、苦笑いを浮かべただけだった。


「多分、教授はああ見えて緊張してるから、思いつきで何をしゃべるかわからない。だからもし年号とかそういう間違ったらマズい話になったらフォローしなきゃなんだ」


「フォローしなかったら、どうなるんですか?」


 あまりに直球な返球を受けた田崎は、苦笑いをやや濃くしながらフロッピーを見返した。


「知らない方がいいことも、あるんだよね。わかるかな」


 丸っこいが背はさほどではないフロッピーに、高身長かつガタイの良い田崎から向けられたのは、最大級の苦笑いに包まれながら薄く開かれた視線である。


 少々、怖い。


 なんとなくだが、踏み込んではならない領域の存在を感じ取ったフロッピーは誤魔化し笑いを浮かべて、席に戻った。


 田崎は積み上がるファイルを視界に入れて、小さくため息を吐いた。


 園田教授。通称、ネッシー教授。


 微生物学を経て未確認生物学(cryptozoology)の分野では現時点で第一人者と言われるべき、人物。


 だが、彼には最大の問題があるのだ。


「……頼みますよ、教授ー……」


 それを誰よりも良く知る、サークル内唯一の四年生である田崎から祈るような声が小さく零れる。


 撮影開始しまーす、と声が聞こえた。


  20


 平日の昼間、そのショッピングモールは静かだった。


 以前は過疎モールだの廃墟モールだのと好き放題に言われまくっていた場所なのだが、リニューアル後の経営努力だのがあったお陰か、大盛況とは言えないまでもそこそこの集客を維持している。


 だがそれでも流石に、平日の昼間は買い物客の姿も疎らであった。


「ゆきなちゃん、お待たせ……って、あれ?」


 トイレから戻ったところで、待っているはずの人の姿がない事に気付いた男性が足を止めた。


 観葉植物のそばで待ってるね、と言ったはずだったんだけどな。


 おかしいな。


 仕事のシフトが丁度うまく合ったから、と言ってお互いの部屋でゴロゴロでは勿体ない、と散歩がてら近所にあるモールに来ていたのだが、肝心の彼女の姿がない。


 広いモール内だが然程混雑しているわけではないので、ざっと辺りを見渡すことができるのだが、求める人の姿はなかった。


「おかしいな、トイレかな」


 ちょっと待ってみよう。


 そんな風に思って、彼女が待っているはずだった観葉植物が並ぶコーナーに足を向けた時だった。


 聞き馴染んだ電子音が上着の中で響いた。


「あれ、LINE……えー」


 受け取ったメッセージは、一枚の写真だった。水面に反射する太陽が、眩しい。


「ピエリ守山港かあ、なるほど」


 画像には琵琶湖大橋も見えているから、間違いない。


「なんか面白い物、あった?」


 スタンプを付けてそう、送信しながら足を港に向けた。


 確かに天気が良いから、外の空気を楽しみながら散歩もいいだろう。


 疲れたら、テラスでランチにしてもいいし。


 そんな風に明るい予定を頭に描きながら歩き出した足は、だが。


「バーガーキング、出来たんだっけ」


 明るい日差しの中へと扉を開いた先にあるものが、全てを凍り付かせるのだとは、思いも寄らなかった。


「眩しいなぁ」


 その時は、まだ。 


   21

 

 苛立ち紛れという心理状態は、大概において人間の行動を常よりも少々おおざっぱにする効果がある。


 その時の星も、そんな調子であった。そして扉を思い切り開いた拍子に耳に入る何かが落下した音に、なんとなく罪悪感を感じるから、人間とは分かり易い。


「なんか落ち……ああ」


 拾い上げてみれば、亀甲縛りされた呪詛人形らしき物体であった。


 空洞な穴でしかない目が、こちらを見上げている。


 星は瞬間的にやる気が抜けてゆくのを感じた。


 元より、やる気などと呼べるものは然程に持ち合わせていなかったのだが。


「あ、もう始まってるよ。テレビの取材! うわあ、かっこいいなぁあ、教授」


「へえ、本当にテレビが来てるんだ。ち、ちょっと押すことないじゃ」


「ほら早く、聞き逃しちゃうよ。せっかく教授が話すんだから。貴重なんだよ、こういう機会は」


 やたらと急かすメガネにつつかれて、星は例によって例の如く小汚く経年したソファに座ることになった。


 ミステリー研究会。


 顧問の変人教授が、汚部屋の真ん中でカメラだのマイクだのに囲まれている。


「……相変わらず、機嫌が悪そうだね」


 思わずそう、ぼそりと星が呟いたのだがメガネはそれを聞き漏らさなかった。


「いやいやいや、今日の教授はすごくご機嫌だよ。調子も良さそう、うん」


「え、あれで?」


「うん。あれで」


 マジか。


 あれなら、アンコウの方がハッピーフェイスだろう。


 何やら質問を投げかけられ始めている様子から、既に収録とやらが始まったらしい白髪オールバックを見て、星は息を吐いた。



『それで質問なんですが、被害者である監視員がビッシーを撮影していたという、決定的な証拠があるとか』


『ああ、うん。あったかな。いや、あったね』


 顰め面の教授は、腕組みをしてレポーターらしき若い男の問いに応えている様子を視界に入れながら気になる事を口にすべく、星は隣に座るメガネに問いかけた。 


「あのさ。倒れた被害者さんのスマホにビッシーが写ってたんでしょ。てことは、賞金はその人に行くの?」


 そう。星の目的は、ズバリ。


 金である。


 ビッシーだかネッシーなんてものは、いるわけもない。恐らく舟影か葉っぱか、とにかく自然界と現実世界にあるべき何かと見間違えられる”何か”を撮影したに違いない。


 星が琵琶湖で早朝に撮影したあのピンぼけ写真も、それである。ちなみに言えば、これまで撮影されてきたと隣のメガネが豪語する一九三〇年代からの写真らの大半は何か別の物が、偶々ネッシーらしく見える形に写ったというだけだろう。


 残りは、賞金狙いの紛い物だ。


 見間違えるほどの紛い物、つまりは映画のセットに出てくるような巨像を作るのはそもそもが予算的に無理だとしても、葉っぱだの枝だのを”なんとなくそれっぽく”写すことで賞金に手が届くのではないのか。


 その下心を滲ませる星の問いに、メガネが頷いた。


「ええと、可能性はあるよ。地域振興観光課が出してるビッシー発見者への賞金は、もし撮影された画像を担当者の人が認めれば、与えられるはずだよ」


「それって、誰が画像の真偽を判断するわけ? どっかの専門家?」


「多分、識者からの意見をまとめて、最終的には役所が決めるんだと思うけど……大丈夫だよ、その前にホンモノを撮影しちゃえばいいんだから」


 そう言って、メガネがにっこりと笑った。


 だから、いないと言っているのに。


「ホンモノ、ねえ」


「そうだよ。大丈夫。教授の学説によると、ネッシー族は一定の周期で活動パターンが決まってるんだ。これは実際に一九三〇年代のような目撃例が多発した数年間があって、その後に何年も、時には何十年も姿が見られない期間があることからも事実だと思うんだよね」


「ネッシー族って、はあ。でも、ネッシーって恐竜の生き残りなんじゃなかったっけ。なんとかザウルス」


「あ、うん。それはプレシオサウルスの事だね。確かに外見がよく似た首長竜は存在したんだ。だけど……」


『それでは、ビッシーとは一体どういう生き物だと考えたらよろしいですか? これから行楽シーズンなどで琵琶湖を訪れる観光客も増えると思いますが、恐竜が生きているとなると、危険性などはどうでしょうか? もしくは、古くから言われる大ナマズだとしても、漁業への影響は?』


 レポーターの声に注意を引かれたメガネが口をつぐみ、それに釣られて星も部屋の中心で行われている収録に意識を向けた。


『まず言って置くがね。ビッシーは恐竜ではないし、ナマズなどでもない。プロトプテルスの進化形である』


『プロ……?』


『古代魚の一種、所謂ハイギョという連中だ。聞いた事くらいはあるだろうが、まあいい。詳しい事は私の著書である”君も明日のネッシー☆スター”に書いてあるから存分に読むがよい』


『え? あ、はあ……明日のネッシー』


『ネッシー☆スター、だ。間違えるんじゃないぞ。どこぞのアホ研究者がわしの著書を真似て”ネッシー ハート”とかいう駄作を出しておるからな、決して間違えてはならない。アレは金の無駄だ』


『はあ、ハート、ですか』


『だから、そっちは買うんじゃないと言っておるだろうが。メモらんでよろしい』


 どっちにしろ、どうでもいい。


 白髪の変人に振り回され気味なテレビマンに心のどこかで同情を感じつつ、星はメガネを見た。


「てか、魚? 魚って言った? メガネ君が見せてくれた画像のどこを見ても魚には見えないんだけど?」


 よくあるタイプの、首がにょきっと水面に出ているあの姿は、どう見ても魚ではない。何しろ、魚が陸上に出てくるはずがない。


 居るとしたら半魚人だろうか。


 いやもそれは、恐竜とか首長竜とかじゃなくて、妖怪の類いじゃないのか。


「続きは教授の講義を聴かなきゃだよ、星くん」


「うえー、めんどくさい。本とか読むの、嫌いなんだよなぁ。特に興味のない本はやだなぁ」


「めんどくさいって、あのねぇ。それから僕の名前はメガネじゃなくて霜月陽しもつきあきらなんだよ、って聞いてる?」


 疑問を口にする星に、メガネがメガネを曇らせながら応えたのを上の空で聞きながら、星はだるそうにため息をついた。


「はあー」


 めんどくさい。


 その感情が顔面を占めていた。星は、いや想像だに出来ていなかった。


 とんでもない事件が、既にその扉を開いていた事を。


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