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ネッシー教授の反逆  作者: 奏ちよこ
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第一章 「晴天も目を閉じてりゃ曇天」

 第一章 「晴天も目を閉じてりゃ曇天」


   1


 ついてない、と感じる日はなぜか朝から気分が重い。


 そして、そのついてない感も高確率で大正解してしまうことを熟知してるから、更に気が重くなる。


「はああああ、もう」


 そして気分も重ければ、自然と足どりも重くなる。


 恐らく顔を上げれば雨でも曇りでも、更に言えば雪でも嵐でもない。


 青く晴れた青空と白い雲などが流れ、その爽やかな背景の手前には桜という素晴らしい季節感を表すアイテムが両手を広げて優雅に春を謳歌するべき舞台を用意してくれている。


 だが、そんなことは今の星には無関係であった。


 なにしろ、顔を上げていないのだ。


 視線は桜も青空も圏外である、地面を見続けている。


 アスファルトの、どこにでもあるくすんだ色しか見ていない。


「ああああああー……はあ」


 ため息など、吐いたところで何かが好転するなら、世の中はため息で埋め尽くされるだろうが、残念ながら何も変わりはしない。


 なんとなく、そんな事は知っていながらそれでもダラダラと未練がましく星はため息を吐き続けていた。


「おはよー、星ー」


 明るい声が聞こえた、と思いノロノロと顔をそちらに向ける。


 するとそこには明るさと気前の良さと、話の上手さと面倒見のよい人柄で友人知人の数では恐らく学内ナンバーワンではなかろうかと思われる、潮来優羽しおき ゆうがいた。


 肩下まで伸ばした長めのボブに、春休みにかけたと聞いたゆるいパーマが良く似合っている。


「……朝だね」


 そういえばと、まるで今まで夜の中にいたかのような暗い返事をボソリと返した星とは、正反対の明るさである。


 朝日が良く似合う。


「まさかまた徹夜でもしたの? なんとか星雲がって、昨日だったっけ? よくやるよー。私なんて寝ちゃうもん、待ってる間に。星はがんばり屋さんだよ」


 亀のごとき遅さで地を這うような、星に歩幅を敢えて合わせてくれたのだろう、優羽が隣に並んで歩き始めた。


 春の日に似合う微笑みがやわらかい。


「好きな事だから……流星は来月。昨日は琵琶湖に朝日を撮りに行っ……じゃなくてーあーもおおおおおお、最悪だよおおおお」


「な、なに、どうしたの」


 呻きながら顔を両手で覆った星を、何事かと優羽が覗き込んだ。


「大失敗、したんだ」


「だいしっぱい? 写真? コンクールを狙うって言ってたやつ?」


「うん……見てくれる」


「うん。見せてみて」


「……わかった」


 はあ、とついでの一息を吐き出して、星はメッセンジャーバッグをがさごそと探り、ノロノロと大ぶりの封筒を取り出した。


 写真屋のロゴとデザインが全面に入った、よくある封筒を優羽に差し出す。


「これ、これなんだけど…………」


「うん。見てみるよ?」


 こくり、と頷いた優羽に現像されたそれを手渡し、既に力なく項垂れていた頭を更に垂れさせながら、星はとぼとぼと歩いた。


 ガサリ、と音を立てて、中から現像されたフィルムと紙焼きされた写真が顔を出すのが、背後で取り出す優羽の気配だけでわかる。


 それと同時に、その現像後の画を見た瞬間の衝撃が、星の脳裏に蘇るのだ。


 最悪。


 まさに、それである。


 大学二年の星は、一応はアルバイトをしているものの、それも三時間×時給千円×週二回という低頻度のために、大した額にはならない。


 その上で、趣味―と、周囲は呼ぶ―のカメラで使うフィルムと現像代というものが、以外に高価だったりするから、常に余裕はない。


 星にとってのフィルムは、貴重品である。


 それなのに。


 嗚呼、それなのに。


「……これ、なに?」


 背後から上がった、優羽の怪訝な声に、星は足を止めた。


「……琵琶湖」


 湖畔から臨む日の出。顔を出した太陽からもたらされる赤みと光が、朝靄の覆う湖面を美しくグラデーションに染める……はずだった、のだが。


「なんか。ごめん。芸術とかよくわかんないんだけど……」


 項垂れる星と手にした写真を交互に見て、優羽は苦笑いを浮かべて、手にした写真をもう一度見た。。


「いいんだ。わかってる。よーくわかってる。大雨が来たんだよ、急に。雨っていうか、嵐? おかげで枝だか葉っぱだかなんだかわかんないけど、黒っぽい妙な影がぐわーん、だもん。構図も何もないし、ピントもめちゃくちゃ。なのにそれが唯一なんとか画像が写ってた一枚なんだよ? いつシャッターを切ったかもわかんない。問題はそのフィルムより……カメラ」


 そう。


 妙な風が吹いて、カメラがびしょ濡れになった。


 星が愛好するアナログの古い一眼レフは、見事に水を浴びてしまっていた。



「あらららら。ついてないね」


「……言わないで、もう。はああああああ」


「で? カメラは?」


「ただ今、検査入院中」


 現在はカメラ屋で故障箇所というかこれって、再び動くようになるんでしょうか? と細部まで看てもらっている最中である。


「治るの?」


「診断待ち」


 優羽がため息交じりに、そう言い、再びどうしようもない一枚に視線をくれる。


「だからデジタルにすればいいのにーって、いい加減言い飽きてきたけど」


「わたしは銀塩写真が好きなの、デジタルならスマホやiPhoneでじゅーぶん」


「わかってるってー。星のアナログ愛はもう、耳にたこ焼き屋が出来る位は聞いたー。だけど、修理できても結構かかるんじゃないの? お金。古いカメラって、なんか大変そうじゃない?」


「……言わないで……」


 星の語尾は、既に消え入る寸前の灯火である。


 優羽の言葉が、刃となりちくちく刺さる。


 そう。


 そんなことは知っていた。


 コンクール用にと張り込んだフィルム一本、が時給二時間分である。


 今の星には、カメラの修理費用など天文学的な価格に近い。


「仕方ないね。はい、最後に写った一枚なんだから、ピンぼけでも記念に取っておくべきよ。どんな出来事にも意味がある! 何事もポジティブに捉えよう! 全ては気合だよ!」


 写真を手渡した優羽は、ばん、と大きく音をたてて星の背中を押した。


「……あーーーーどっかから、お金、降ってこないかなぁ……」


 押されても、星から出てくるのはこんな言葉しかないのが、情けないが。


「ほらほらほらー、元気だしてー! 午後の講義まではバイトでしょ? 稼がにゃ稼がにゃ!」


「はああああああ」


 暗雲を頭上に背負いながら、星は意味不明なピンぼけ写真を手に、優羽に背中を押されて歩き出した。


 満開となった桜が、春まだ浅い気温のなかで、微かに揺れる。


 新たな季節が、幕を開けていた。


 しかし。


 その背中には、招かれざる視線が向けられていたことに、彼女たちには気付いていなかった。


 気取られぬように一定の距離を保った追跡者は、静かにその様子を窺っている。


 音も無く。




 


 学内にあるショップ、と言えば聞こえはいいのだが、要するにただの文房具と雑貨が並ぶだけの小さな店である。


 品揃えは偏っているし、少々の菓子類もあるのだが、それらもメーカーや中身にかなりの偏りが見られるため、拘りの品やどうしても今買いたい商品、目当てのものがある学生は、まずもって、ここには来ない。


 それが、この琵琶湖学大内ファンシーショップ『びわちゃん』である。


 なぜ、びわちゃん、なのかと言えばここが私立琵琶湖学園大学内のショップだからだろうと判るのだが。


「なんで、ファンシーなんだろうね。時々疑問に思うんだけど」


 ショップの入り口を見上げて、星は手にしたエプロンを首に掛けながら呟いた。


 時給千円。一回のバイトが三時間で、それが週に二回のみ。


 一週間で六千円、つまりは月に二万四千円にしかならない。


 色々諸々と必要な品を買ったり支払ったりすると、正直に言ってあまりプラスにはならないし、他にもっと時給の良いバイトはあるのだと知っている。


 知ってはいるのだが。


「星ちゃん、おはよう。例のもの、入ってるよ」


 店の奥にある暖簾の向こうから、店主の声が聞こえた。


「あ、おはようございまーす。店長、今いきまーす」


 本来の倉庫から繋がる三畳ほどのスペースは、直ぐに店頭に出すような商品らを一時的に置いておく場所にもなっていた。


 店長に言われた通りに隅に重ねられたダンボール箱の上に、小ぶりな箱が置かれていた。


 黒い化粧箱には、天体の写真がデザインされている。


「いやったあああ」


 さきほどまでどんより顔から一変、ハートマークを目一杯に咲かせた星は、受け取った化粧箱の封を開けていく。


「楽しみにしてたもんなぁ。注文から、二ヶ月か。春休み前だったもんなぁ、よかったよ。中古だけど、状態のいいのが見つかって」


 緩衝材のぷちぷちを剥がし、セロテープの一つですら、大事に剥がしてゆくと、中からは黒く重みのあるボディが現れた。


「六〇〇ミリまでカバーの超望遠レンズ! うわー、やっときたあああ!」


 星の顔に、満面の笑みが広がった。黒くマットな光沢のある、ボディに触れれば何とも滑らかな感触が嬉しさを倍増させる。


 アナログカメラを愛好する星にとって、マウント(装備)するレンズというものは高価で中々手の出せない、高嶺の花であった。


「はは、まるで子供の喜び様じゃないか」


「だって! もー、高校の写真部時代からずっと欲しくて欲しくて、憧れだったんです。遠景の風景、離れた場所からでしか撮影できない鳥や胴部達の生き生きした姿、その一瞬一瞬を一枚に仕留められるんですよ! あーもう、めちゃうれしい。以前、カワセミに出会ったんですよ。遠目だけど、絶対あのブルーはカワセミ! なのに、近づいたらやっぱり逃げちゃうでしょ? 驚かせたくはないし、鳥たちにストレスは与えたくないし! だから泣く泣く諦め……」


 上機嫌になった星の話は、止まらない。


 大げさな手振りを加えながら、手にしたばかりの望遠レンズを抱いて店長を相手に写真談義を繰り広げるのだが、それをニコニコを笑顔で聞いていた店長は、メガネを指先でずりあげながらデスク上にあった茶封筒を手にした。


「うんうん。で、ご機嫌のところ申し訳ないんだけどね、星ちゃん」


「だから、やっぱり道具って大事だと思うんですよ! どんな天才にもその才能を発揮するツールがなければ……はい?」


 星は、すっ、と差し出された一枚の紙を受け取った。


「ほい、望遠レンズの請求書」


「あっ」


「バイト代から差し引くって言っていたけど、いいんだよね? 月賦払いでも手取り三千円くらいになっちゃうけどさ」


「……やっぱり、そうなります、か」


「お仕事、がんばってね」


 店長の、笑顔が目に染みる。


「……はーい」


 星は張り付けたような笑顔を浮かべて、手にした望遠レンズを箱に仕舞い、店内へと続く暖簾を潜った。


 仕方ない。


 定価だと、確か三十万円台という代物である。


 ここの店長自身がカメラ愛好家であり、中古カメラやパーツに独自の伝手を持っているから、安く買えたわけであるが、それでも十万円台であった。


 もっと割の良いバイトに就いていれば、然程は苦にならない額だろうが、逆にそうなるとここ、びわちゃんで得られるような格安のカメラパーツやレンズには巡り会えないであろう。


 月賦払いが効く、というのも非常に大きい。


「はあー。しばらくほぼ無一文かあ」


 レジに立ち、カウンターに並ぶ細かな菓子類を並べ直しながら、星の口からは再びどうしようもない暗雲がたれてゆく。


 そうなると、あの失敗したフィルム代がもったいなかったな、等と考えても仕方のないことを考え始めるのである。


 だってあれ、高いんだもん。


 一本が千五百円だよ、定価で。


 ネット通販で五本セットで五千円、ていうのは見たことあるけど、それでも高い事にはかわらないしなぁ。


 ああ、しかも千五百円かけて撮れた写真が、あのピンぼけ一枚……。


「ああーもう。琵琶湖に嫌われてんのかなぁ」


 項垂れるしかない星だが、仕事は仕事だ。


 やるべきことはやらねばならぬ。


 そう思い、今日の納品分を確認しようと星はカウンターの内側でしゃがみ込んだ。



 そうして、カウンター下の棚から、在庫表を取り出した時だった。


「あのーすみません。八城星やしろあかりさんですよね」


「へっ?」


 突然、レジカウンターの上から降ってきた声に、しゃがみ込んでいた星は立ち上がろうとした。が。


「いだッ!」


 その弾みで、見事にカウンターで頭を強打した。


 ズキズキと痛む箇所を抑えながら立ち上がり、顔を上げると、そこには一人の男子学生がいた。 


 メガネ、黒髪、短髪。


 中肉中背。


 パーカーにボーダーシャツ。デニム。スニーカー。


 イケメンではないが、不細工であるとも言いがたい。


 特にこれといって、特徴のなさそうな、敢えて言えば普通すぎるフツーな容姿が個性かもしれない男子は、目の前で頭頂部をさすりながら立ち上がってきた星に、無言の視線を向けていた。


 大学生らしからぬ動きに、面食らったのかもしれない。


「……い、いらっしゃいませ。八城はわたしですけど……」


 曲がりなりにもここは店であり、自分は店員なのだと思い出した星がそう、答えた。


 なにか、商品を探しているんだろうか。


 そんな風に思ったの、だが。


 カウンターを挟んでこちらを向く男子学生は、思わぬ言葉を発した。


「あなたが琵琶湖で撮ったネッシーの写真を、僕に譲って下さい」


 なんだか頭ズキズキが、加速した気がした。



 私立琵琶湖学園大学には、幾つかの特徴がある。


 筆頭として挙げられるのは、その立地であろう。


 琵琶湖、と聞けば恐らく自動的に湖畔を臨む場所にある爽やかなキャンパスというイメージが湧くのが、自然なのかもしれないが。


 現実はそう、甘くはない。


「……あのー……教授ー……」


 通称、琵琶学大はその別名を琵琶山大と呼ばれていた。読んで字の如く、その所在地は連なる山脈の丁度中間地点と呼べそうな真ん中辺りにある。


 傾斜のある山道にある車道と呼べるのは公道が一本あるのみ。


 最寄りの人影が期待できる場所といえば、山道に差し掛かる直前の農協JA前にあるコンビニくらい。


 そこを逃せば、はっきり言って商店などは以降の通学路には存在しない。


「なんだね」


 因みに交通手段は、バスもしくは自力という名の原チャリ通学が賢明な方法である。


 通学にも通勤にも不便であるこの立地は、入試においても超えねばならないハードルとなり、幾多の伝説がここで連ねられてきた。その歴史こそが、琵琶学大の歩んできた歴史でもあった。


 ローマに行ったらローマ人に従え。


 琵琶学大に入ったら、バスの時刻表を覚えろ。


 だがそれも、交通手段であるバスがあれば、の話である。


「バス、行っちゃったみたいなんすけど……」


 やや顔色を悪くしながらそう言った学生は、ここまで運んできた荷物の上にどかり、と座り込んだ教授を見た。


 白髪が大部分を占める、どこで分けたいのかよくわからないオールバックに近い髪型の下には、鋭い眼光がこちらを射貫かんばかりに見ている。


 様子からして、あまり機嫌がよろしくない。


「うん? そんなはずはない。まだ三時のはずだ。琵琶学大前行きの最終便は四時だ。わたしは確かにそう記憶している」


 自信たっぷりにそう言われて、学生は再び目の前の時刻表へと視線を戻した。


 琵琶学大前行き 午後二時五九分 (最終)


「…………あの、教授」


 学生が更に白くした顔を、今度は自身の腕時計に向けた。


 安物のデジタルだが、時刻を伝えるという機能においては、信頼ができる。


「なんだ、篠山」


 背後から眼光を飛ばしてくる、勝手に休憩姿勢に突入した教授のあやふやな記憶よりも、だ。


 デジタル表示から告げられた時刻は、午後三時二三分であった。


 ひくり、と顔を引きつらせた学生が、再び振り返る。


「僕は篠山じゃありません。田崎です。あの、バス、やっぱりもう行っちゃったみたいっす」


「そんなはずはない。私はここに勤続二十年だぞ。琵琶山大唯一の交通網くらいは把握して……」


 だが、やはり教授だろうが狂犬だろうが恐慌だろうが、変わらない。


 ようやく重い腰を上げて立ち上がった教授が時刻表の前に立った時、形容し難い重い沈黙が辺りを支配した。


 田崎は、ふるりと背後を振り返る。


 スーツケースと、大きめのダンボールが四つ。


 中身はなんだか正体不明だが、出張先から戻った教授の私物だったり研究用の資料だったりすると聞いたから、まあ重要な類いの物品であろう。


 重量はざっと見積もって、全部で百キロくらいだが、間違っても、邪魔だから捨てていいですかとは聞けない。


 だが、バスは来ない。


「…………あのぅ。まさか、と思うんですけど」


 見たくはないが、山道の遙か斜め上方向に小さく見えるベージュっぽい色が、目的地の存在を知らせている。


 冗談じゃない。


 顔を引きつらせた田崎が、言葉を発しようと視線を山道に戻した時だった。


 教授が、振り向いた。


 ものすごい、笑顔で。


 いやだ。


 その瞬間、激しい拒否反応を脳が示した事を、田崎は生涯忘れることはないだろうと。


「京本、確か高校の時はレスリング部にいたそうじゃないか」


 名前は覚えないくせになんでそんな所はきっちり覚えているんですか、教授。


 田崎の呟きは脳内をぐるぐる回る。


 カラスが、ちょっと遠くで鳴いていた。


   5

 

 顔が引きつる、というのは頭痛と同時に発症するとかなりややこしい状態になるらしい。


 午前のバイトを終えて、昼食の席にようやくありついた星はそんなことをぼんやりと、思った。


「だから、聞いてる? 一説には琵琶湖の海底には巣とも言える彼らの居住区があって、そこには十分な酸素があり、そもそも彼らは進化の過程でえら呼吸という呼吸法を獲得した可能性があるんだ。つまり、湖底に住んでいれば水上に姿を現す必要もな……」


 昼食といえば、食堂である。


 琵琶学大の食堂は、そこそこ経年してはいるが、味はまあまあ量も多いし安いしで利用者がとても多い。


ざっと見渡しただけでも星の視界には大勢の学生や講師なのか打ち合わせなのか、スーツ姿の人々がいる。


 というか、付近には店もなにもない山中であるので、弁当を持参する者以外は、大概が学食のお世話になっていた。


 星も漏れなくその大多数にカウントされ、今も目の前には湯気のあがるうどんが鎮座ましましている。


 どうぞ、召し上がれ。


 そう、うどんの白い麺が艶やかに語りかけている。


 今あたしを食べないなんて、一体どういうつもり? と。


 そうだよね、今が一番食べ頃だよね。


 琥珀色の熱いスープに身を委ね、白く滑らかな艶を見せる麺と、ナルト。ネギも青々としてオマケのように乗っけられた小ぶりのかきあげだって、きっと今なら口に入れた瞬間にしゃお、と良い音を上げるはずだ。


 ごくり。


 朝一番から数時間とはいえ、労働をしたのだ。


 腹は減っているし、伸びた麺などもっての外である。


 一番おいしい食べ頃を頂くのが、食べ物への敬意であろう。


 星がそう、箸をどんぶりに差し入れようとした、のだが。


「あ、そうそう。言い忘れるところだった。難しいところがあってね。ネッシーっていうのはそもそもがネス湖で目撃された巨大水棲生物の事を総称されている節があるんだけども、琵琶湖だからビッシーとかさ、なんかそういう呼び名になっているってネットでも言われて」


「あのー………」


 箸をどんぶりに差し入れる寸前で再び始まった意味不明な講釈を遮るべく、星は言葉を発した。


 瞬間的に、ぴたりと止まった地味な学生の講義だったが、それは僅かに一秒程度のことであった。



「なにか、質問でも?」


「なんで、ここにいるんですか?」


 わたし、ご飯を食べたいんですけど。


 なんだかよくわからないが、バイト先からずっと付いてきた地味すぎる男子学生に、そう尋ねた。


 どちらさまですか、とも聞きたい気持ちはあったのだが、この地味な学生がなんという名であろうが、現状において然したる問題ではないように思った。


 最重要事項は、うどんである。


 すると、その質問が予期せぬものだったのか、なんだかよくわからないが、男子学生はぴたりと言葉を止めた。


 あれ、止まった。


 なんか変な事、言ったっけ?


 ま、いいや。


 うどんだ、うどん。


 そうして星が、念願のうどんをようやく口に運んで咀嚼始めたあたりだった。


「君には才能がある!」


「んぐッ?」


 突然、地味なメガネ男子学生から発せられた大声に、星はうどんを詰まらせた。


 どんぶりの右脇にあるコップに手を伸ばすが、男子学生の手が一瞬ほど早かった。


「例えば世界はこのコップ一杯の水だ。この中には水が入っているけれど、このコップの中に入ることができた水は世界中に存在する水全体から比べれば、本当に希有な確率になるよね。何億分の一だよ。そして君の才能は、正にそれだ。一九三三年の目撃から実に八十年以上の時間をかけて、どれだけの研究者達が血の滲むような努力を辛抱を重ねてその姿を捉えようと努力してきたけれど、君の撮ったあの素晴らしい一枚には、及ばない! あれはもう、奇跡と呼ぶに相応しい! すごいんだよ、君! この世紀の大発見は、必ず彼らの実像に迫る革新的な第一歩となるよ! これはもう、天が授けた才能だよ!」


「……み、みず……」


 なんだかよくわからないが、地味な男子学生が熱弁を振るっている。だが星はといえば、喉に詰まってしまった元小麦と水から製造された麺類を押し流すことにしか頭が回らない。


 ていうか、苦しい。


「こんな、こんなところでぐずぐずしている場合じゃない! 今すぐにでも学説を立てて実地検分に進まなきゃ! いいね、この先は大変な困難もあるだろうけど、為すべき時には為さなきゃいけないことがあるんだ、それが世界の記録になり奇跡を作るんだよ! そうやって、世界の歴史は塗り替えられてきたんだ!」


 ダンッ


 コップを持った手をテーブルにつき、そう言って勢いよく立ち上がった地味な男子学生に、学食内はしぃん、と静まりかえった。


 何事かと。


 興奮状態にある地味男子に注がれる、学食内の視線は痛いが、その時、コップは星の目の前にあった。


 水の入ったコップに手を伸ばした星は、顔をやっとの思いで、水を飲み干したのである。


 爽快感がやっと訪れた。


 息が出来るって、素晴らしい。


「はあー、よかった」


 死ぬかと思ったよ。


 そう心から安堵の息をついた星は、ほぼ空になったコップをテーブルに戻した。


 さて、伸びてしまう前にうどんを食べねば。


 そう思い再び手にした箸でナルトを挟んだ時、である。


「行こう! ミス研へ!」


「えっ、へっ、な、なななな!」


 ぐい、と腕を引っ張られたかと思った時には、既に星の尻は学食の椅子に別れを告げていた。


 旅立ちは、突然に訪れる。


「今から行けば、出張から戻った教授が研究室にいるはずだ! 君が入手したネッシー写真を見てもらわなきゃ! 教授はああ見えて、超常現象、特にネッシー研究分野では第一人者なんだ! 少し変わってるけど、大丈夫。きっと教授が深く細かく実証してゆけばまだまだ未発見だった新事実が解明されるに違いない!」


「え? え? ええええ? ちょっ、なんなの!」


 引っ張られるまま、引きずられるままに星は学食を出て行く。


 手には箸があり、その先には挟まれたままのナルトが存在するのだが、相棒とも呼ぶべき愛しの丼とは、見る間に距離が離れてゆく。


 まるで引き裂かれるロミオとジュリエットの如く、うどんに向かって叫ぶのだが、その姿は視界の中から扉の向こうへと消えてしまった。


「なんでじゃないよ! 一分一秒でも早いほうがいい! 善は急げって言うからね!」


「いいから手を離……ってなんでわたしのバッグを持ってんの!」


 更には抵抗を試みようと見れば、星の手を引いてゆく地味な学生の脇にはなぜか、星のメッセンジャーバッグが見えた。


 いつの間に。


「当たり前だ! 大事な証拠が入ってるんだから! さあ、ゆこう! 僕たちの明るい未来へ!」


「わ、わたしの、うどーーーーんーーーー!」


 星の箸はそうして、うどんに別れを告げたのだった。


 アーメン。


 

 二階に渡り廊下がある構造は、特別に珍しい建築物というわけではない。


 ただ立地によっては、なぜ、と問いただしたくなる状況にもなり得るだけだ。


 山の中という環境でのそれは、冬場は雪が積もるわ風が吹雪くわという悪環境に早変わりするし、梅雨時に限らず雨が降れば水浸しになるし、夏場は夏で虫の害がものすごいことになる。


 飛び込んでくる奴らは、なぜか人の目を狙ってやってくるので、迂闊に歩くだけで危険があるのだ。


 しかし最も招かれざる客人は、別に存在していた。


「ここに入学して早くも三年。しかし幾ら時が経ってもこればっかりはどうにも納得いたしかねる」


 女子学生、と思しき真っ直ぐな黒髪をボブスタイルに揃えた女性が、ぽつりと渡り廊下の真ん中で零した。


 赤い膝までのワンピースを着ているのだが、白く丸い襟があしらわれた、やけに古めかしいスタイルである。足元はといえば、白いハイソックスに、ストラップの黒い革靴だ。


 青白い肌と、黒髪の下に覗く赤い唇が、一目を引く。


 かつん、と踵を鳴らして立ち止まれば、人気のない渡り廊下に裏山からの風がざあっ、と音を立てて吹き込み、女子学生は切れ長の目を風に棚引く竹のしなりに向けた。


「……今年も、出るのであろうな、連中は」


 風音が、首筋から黒髪をさらってゆくのだが、女子学生は険しい視線を山中の更なる奥へと向けたまま、微動だにしない。


「祓いの準備を、しておかねばならぬか」


 膝丈のワンピース姿には似つかわしくない厳しい視線のまま、女子学生が再び足を進めようとした時、微かに足音が近づいてくるのを知り、顔を渡り廊下の反対側へと向けた。


「はあ、はあ……あ、ここにいた! はあ、……は、花子せんぱーい、大変なんすよ、ちょっと手伝ってくれませんかー」


「なんだ、フロッピー。斯様に急ぎで頼みとは、何ようであるか」


 ぱたぱた、と独特の足音をさせながら息を切らせて渡り廊下の突き当たりにあるドアから顔を出したのは、顔なじみの後輩、あだ名がフロッピーであった。


 身長はさほど高いわけではないのだが、横幅がかなり太いから見た目にも、大変に覚えやすい。


「いやその、それが……出張から戻った教授が、はあ、はあ……今、田崎先輩から電話……」


「教授が、だと。なにごとか。おい、ちゃんと言え」


「ちょ、息が切れて……はあ、はあ、それが……バスが、終わってて……荷物が……」


 バスが終了。


 荷物。


 この二つを聞いた瞬間、花子と呼ばれた女子学生はそれまで細めていた目をくわっ、と見開いた。


「なんと……バスの便が終わり教授の荷物が路頭に迷った挙げ句に無事では済まないであろう、だと! 貴様、一大事ではないか! それを早くいわんか!」


「えっ? いや、その、えっ?」


「こうしてはおれない。今度の出張の荷物には、黒魔術の祖とも呼べるシモンマグスの幻と言われるブツが……ええい、なんたる失態!」


 舌打ちをしながら、花子はフロッピーが元来た方へと渡り廊下を走った。


「あっ、えっ、ちょ、違……く、黒魔術の秘宝? えっ、い、いつのまにそんな恐ろしいものを! 先輩? ええっ、ちょっ、ちょっと、待ってくださいってー!」


「待てぬ! 秘宝の一大事じゃ! アレさえあれば失われし古代黒魔術が復活できるのだ。来たれサタン、来たれデーモン、全ては蘇りこの世界は暗黒の世に塗り替えられるのだ! この我が手によって! ふははははは!」


「はいぃ? なに言ってんのか、怖くて詳細が聞けないです! 先輩! 犯罪だけはだめです!」


「ふはははははははは! 待っておれ、今助けにゆくからな!」



「待ってクダサイってーーーー!」


 小柄なおかっぱ頭の女子学生が怪しい笑みを浮かべながら走り去るその後を、丸っこい体型の男子生徒がどたどたと追いかけてゆく。


 渡り廊下を、初夏の風が吹き抜けた。


 

 さあ、どうぞ。


 そんな風に爽やかにも聞こえなくもない形で連れ込まれた……ではなく、連れてこられた場所は、キャンパス敷地内にあるサークル棟の一室であった。


「……あのー」


 正確にはサークル棟の別棟と呼ぶべきか、サークル棟よりも更に敷地ギリギリの山肌との境界線あたりに古くから建っている、コンクリ造りの建物であった。


 琵琶学大は創立二十五年程度であるのだが、どう考えてもこの建物だけはそれ以上に経年している。


 壁面にはヒビが走り、玄関らしき扉の上には元は赤かっただろう日よけがあるにはあるのだが、色あせもさることながら、風雨と経年によるものだろう穴が凄まじかったのを、星の脳が記憶した。


「どうしたの? あ、コーヒーとかないから、適当に座ってて」


「はあ……」


 適当に、と促したのは学食から星を強引に連れ出した、地味でどうにも仕方がない男子学生なのだが、こうして面と向かっても、やはり特徴のない地味さである。


 通された一室は広かった。


 天井はさほど高いとは思えないが、コンクリ造りの古い建物に相応しく天井には古びた蛍光灯と、板張りの床は軋み、ステンレスのファイルキャビネットには錆が見え、元は白かったであろう壁には写真やポスター、いずれも雪男やUFOを捉えた怪しげなものから、どこかで見たことのあるようなSF映画のポスターが混じっている。


 何層にも重なるように画鋲で留められたそれらは一種、異様な光景で壁の三面は埋め尽くしていた。


 木製のドアには奇妙な人形と骸骨が赤い糸で亀甲縛りにされて吊されているし、壁のコーナーには宇宙人の模型らしき人形が置かれている。


 変な場所だった。


 コーヒーとかはない、じゃなくて口に入れても問題なさそうな物は、ここにはなにもなさそうである。


 地味学生の言葉に引きつり気味に納得した星は、引きつり笑いのままで、座れそうな場所を目視で探せば、年季の入った低めのテーブルを挟んで、あちこちに毛羽立ちとほつれの目立つモスグリーンなのか茶色なのか、その中間あたりのソファがある。


 座って知った。


 硬い。


「いいかい、まずは有名どころから行こう。分かり易いからね。これが一九三四年に撮影されたかの有名な”外科医の写真”。当時、ロンドン在住だった医者のロバート・ウィルソンが友人らとネス湖を訪れた時に撮影したという写真なんだ。で、次が一九五五年に城跡近くで撮影されたネッシーの背中じゃないかって、言われている写真。それからこれが……」


 服を着た地味がペラペラとしゃべりながら、フォルダーのクリアポケットから取り出した写真を並べてゆくのを、星は唖然とみていた。


 白黒写真の、更にピンぼけだったり不鮮明だったりの写真を更に拡大コピーしたものが大半なのだが、よほど集めているのか、ざくざくと出てくる。


「……あのー」


 帰りたい。


 そう口にしようとするのだが、地味も過ぎると耳に届く言語には規制が入るのだろうか。


「そしてこれがなんと、グーグルアースに捉えられたネッシーの姿になるんだ。すごいでしょう、もうここまでくると居るか居ないかというばかばかしい議論の余地はないんだ。それでこれが、二〇一二年に撮影された最も鮮明な画像なんだけどこれを魚だと言ったりする連中がいるんだ。信じられないよね?」


「えっと、わたしにはどう見てもデカい魚にしか見えな……」


「これが魚だなんてどういう目をしてるんだろうと疑いたくなるよ。だってさ、こう拡大すると鱗があるなんて言う連中がいるんだけど、そんなのは陰影の誤差じゃないか。いいかい、認めたくないっていう人々は存在しうるものも無いと言い切るんだ、怖いからね。ないはずのものの存在を認めるってことは、未知の世界があること、自分が知らない世界がそこにあることを認めることになるから、自分の目に見えるものだけを信じたい臆病な人達には都合が悪いんだよネッシーがいると。だけこうして今ここに居る僕たちが目に出来る物なんてたかが人間の視力が及ぶ範囲だけだもの、小さな塵やウィルスや砂つぶだって、ここにはきっと無数にあるのに僕らの目にはみえていない。見えてはいないけど、確実にそこにはあるんだ」


 地味が過ぎる男子学生が、ペラペラとしゃべりながら、古びてあちこちに傷の目立つテーブルの上をネッシーの写真で埋め尽くす様子を、星は思わず見てしまっていた。


 見えないものの、存在。


 その言葉が、妙に心に引っかかった気がした。


「……あの、どうして」


「どうしてネッシーなのか? その質問に答えられるかわからないけど、ネッシーだけじゃないだよ僕らの研究対象は、ネッシーを含む未確認生物、UMAやUFOを含む未確認飛行物体でしょ、それから怪奇現象と言われる全般に呪術や魔術、それからオーパーツと言われるような歴史上にしっかり爪痕と形を残しながらも未だに実体がよくわからないとされる物なんかもね、研究対象なんだ。ざっくりとミステリー研究会と名乗ってるけどその辺の詳しい事情は教授が来てからのほうがいいかな。おかしいな、そろそろ到着している時間なん……」


 そう言いながら地味学生が壁に留められたカレンダーに歩み寄った時だった。


 ドダドダ、とガラガラという物音が一気に近づいたと思ったら、ガチャリと勢いよくドアが開いた。


「最悪っすよ、もう!」


 ばん、と大きく開かれた扉のお陰で、吊された奇妙な人形がぶらんぶらんと大きく揺れる。


「何が最悪だ、最悪だと呼ぶなら筋力の低下が著しい自分を恨むべきだろう、木村」


「だから、僕は田崎ですって、教授! 運んだんですよ、この重いの! 何が入ってるんですか、もう重いどころの騒ぎじゃないっすよ!」


「研究資材と貴重な遺物である。丁重に扱いなさい」


「花子せんぱーい、あ、あの、僕が持ってるこれって、ちょっと、変な匂いがするんですけど、ていうか、手伝ってくれませんか、かなり重た……」


「傷一つでもつけてみろ。貴様の腹には風穴が開くと思え、フロッピー」


 現れた集団は、一種というか異様だった。


 背もあるが体格の良い男子学生、自ら田崎と名乗った学生は汗だくで真っ赤な顔をしながらダンボールを二つ重ねて荷物紐でぐるぐるに巻き付けたスーツケースを片手に押しながら、もう片手は肩に載せたダンボールを一つ担ぎながら入ってきた。


「いやもう、ここら辺に降ろしていいっすか、いいっすよね、ていうか降ろさせてください……教授」


 余程に重いらしいと、その覚束ない動きと小刻みに震える腕が教えている。大変そうであるのだが、続いて現れた初老と呼ぶべきか、かなりお爺さんに近いオジサンー教授と呼ばれているーはといえば、手ぶらである。


「そーっとそーっと降ろすんだぞ、だいじーなだいじーなとってもとーっても大事なだいじーな物なんだからなー」


 いつ時代のかよくわからないベージュ色っぽいブルゾンにワイシャツ、紺色のスラックスらしき足元にはサンダルが見えたが、大事なものだと繰り返す割には、手伝う素振りは見られない。


 さっさと、自席らしき一際大きなデスクへと向かって行ってしまった。


 鼻歌交じりで。


「ああの、もう、手が無理なんですけど……花子せんぱ……あっ、滑っ」


 続いて入ってきたやたらに丸々とした男子学生は、一番大きなダンボールを抱えていたのだが、ずるり、と手が滑ったらしい瞬間に、背後に居たおかっぱ頭の女子学生が、目を見開き鬼の形相でにらみつけた。


「死ね」


「ひぃッ」


 一気に青ざめた丸い男子学生は、慌てて落としかけたダンボールを抱え直そうとしてバランスを崩したのか、尻餅をどしんとついた。


「フロッピー、貴様……。覚悟はよいな。死して屍となるがいい」


 チキチキ、と音を立ててカッターナイフの刃が伸びる。


 いつのまにか花子の手に出現したカッターナイフに視線を向けて、フロッピーは更に顔から色を無くした。


 赤から青へそして白へのトリコロールである。


「い、命だけはっ! なんとか!」


「問答無用だ!」


 目を見開いた鬼の形相で、花子と呼ばれた女子学生が振り上げたナイフの先を、丸いフロッピー学生が青ざめて見上げたのだが、デスクの引き出しをガタガタと開けて袋菓子を取り出したところで、教授がそれに気付いたらしい。


「花子くん、その箱には黒魔術の秘宝書は入っとらんぞ。うむ、やはり旨い。カールちゃん。これがなくちゃ、始まらんからな」


 モグモグと口を動かしながらそう告げた教授の手元には、おやつはカール・コーンポタージュ味があったのを、星はうっすらと見ていた。


 カッターナイフを手に見開いた目を、おやつはカールを咀嚼する教授に向ける花子は、見た目にも恐ろしい。辛うじて命を取り留めた丸いフロッピー学生は、ダンボールを抱えたままで脂汗を浮かべている。


「……ない……? 教授、ないとは! ないとは! 如何なる天変地異が起きたと申されるのか!」


 振り上げたカッターナイフはそのままで、花子は見開いた目で教授に問うのだが。


「この半分くるん、となった形が絶妙なのだ。食感といい、いつでもカールは裏切らない。すばらしい。うん? ああ、アレなら税関で取られた」 


 淡々と答える教授は、あまり気にしている様子がない。


「な……っ、なっ……! とっ、とっ、とられっ!」


 カッターナイフを手に卒倒しそうな勢いで顔面が白く変貌する花子の下では、フロッピーがこそこそと這いずりだしていた。


 逃走、である。


「あーもう、腰が……いててててて。とにかく運びましたからね、教授。まだあったっけ、湿布、湿布っと」


 疲労困憊、という顔でガタイのいい学生が運び入れた荷物を部屋の隅に積み終わると、壁際の書棚に突っ込んであったトマトと書かれたダンボール箱を引っ張り出すと中身を物色し始めた。


 カールをむさぼり食う教授に、ナイフを片手に鬼の形相の女学生、ダンボールを抱えたまま逃げる丸い男子学生に、湿布を物色するガタイのいい男子学生。


 カオスであると、星は思った。


 そしてカオスなのだが、その中にあって誰一人として地味すぎる目の前の学生には一言もくれないことも事実であった。


「……あの、教授、お疲れ様です。あの、学会はいかがでしたか」


 おずおずと話しかけている目の前の地味学生が他人ながらなんだか情けないのだが、おかげでようやく教授がその存在に気付いた。


「お、新顔だな。誰だ君は、何年生だ。専門はなんだ」


「へ? わ、わたしですか?」


 しかし予想に反して白髪に限りなく近いオールバックの教授が気付いたのは、地味学生ではなく星であった。


 視界の隅に、少し引きつる地味学生の顔を映ったのがほんのちょっぴり、かなしい。


「そうだ。君以外に誰がいる」


 いや、多分あなたが顧問であるサークルに所属する地味学生がたった今話しかけたよね、そうだよね。


 無言の返しは胸に留め、星は愛想笑いを浮かべた。


「あは、わたしは国さ……」


「UFOか、それとも宇宙人かね。宇宙人研究はボイドブッシュマン氏の死亡から再び熱い分野になってきておる。新事実の発見というよりも如何に隠匿された情報をだな、明るみに出してゆくかという点に絞られてきて居る節があるから、わしは好きじゃないが面白くなる可能性はまだ残されていなくもない。例えば良く言われるタイプの宇宙人というのはリトル・グリーンメンではなくグレイというタイプの頭でっかちな黒々とした目の大きな生物のことだがね、彼らは実はハイブリッドが生存しているという証言と幾つかの裏付ける証拠があるのだ。もっとも、エリア51に侵入するのは並大抵のことではないが、わしの友人の一人に違法行為に関しては専門家がいるから紹介しなくもない」


 カールをむしゃむしゃと食べながら、教授が一気に言ってのけるのを、星は呆然として聞いていた。


「いえ、あの、宇宙人に特に興味は」


「ないのか。ふむ、まあ確かに独創性には欠ける分野かもしれんな。では近頃流行の妖怪などはどうだ。そこで匍匐前進をしている丸いのが専門としておる。付喪神などに手を着けると終わりなきエンドレスワンダーワールド化するようだから中々にやり甲斐があろう。大学から生涯学習にまで繋げられる味の長続きするチューイングガムみたいなもんだ」


「え、あ、いえ、それもあまり」



「ローングはいやか。まあ流行り物はいつ廃れるかわからぬからな。廃れてしまっては必要な資料なども一切合切まとめてゴミ扱いされる時代がやってくる。アレはつらい。研究している人間として探し続けた資料が古本屋のどれでも五十円コーナーで見つけた時のあの悲しさ寂しさとはかなりつらさがある」


 なんの話だ。


 頬の引きつりを加速させながら、星は応える。


「なんとなく百円なら許せるかも」


「そうだな。百円はまあこれなら許せるかなぁーっていうギリギリの心理的ボーダーラインと言える。では、心霊現象はどうだ。近頃では妖怪が流行と聞くが、うちでは花子くんがこちらの専門となる。主に召喚魔術とも呼べるが黒魔術の類型を非常に真面目に研究しているからな、面白くはあるだろう。彼女は実験にも熱心であるから遠からず成功するとわしは考えて居る」


 召喚魔術の実験と聞いた星は、更に頬が引きつるのを感じた。


 成功したら何が召喚されちゃうのか。


 視界の隅にいる赤い古びたワンピースのおかっぱ頭を見るのが、なにやら恐ろしい。


「あ、いえ、そのー……わたしは」


 超常現象にも宇宙人にも妖怪にも黒魔術にも興味ありません。


 そう言い返そうと口を開いた時だった。


「ネッシーです! 教授! 彼女は、ネッシーを撮ったんです! これ、これです! 教授!」


 地味な男子学生が、星のバッグから勝手に取りだしたであろう、写真を教授に向かって掲げた。


「あっ、それ、わたしが撮ったピンぼけ写真……」


 だがその写真を見た瞬間、教授の様子は一変した。


 ぐしゃり、と派手な音がしたかと思ったら、思わず力を入れられたせいでカールおじさんが奇妙に歪んでいる。


「な……こ、これは……!」


 ピンぼけ写真を地味学生から奪い取るようにして手にした教授が唸った。


 一際強い風が、窓の外で枝をしならせて行った。


  8


 午後八時を過ぎた湖畔は、静けさに包まれていた。


 レジャー監視員の存在もあるのだが、日が落ちて暗くなってしまうと人影は自然と少なくなる。


 住宅地にほど近い地点であればともかく、その付近には木々が生い茂るばかりであった。


 ぱしゃり


 水音が、微かに強さを増した風に煽られたのだろうか。


 さざ波のように辺りを包む音とは別の、小さな音を作った。


 対岸と呼ぶには遠すぎる先には、住宅や人の営みのもたらす灯りがあるのだが、ここにはそれらの灯りは届かない。懐中電灯の白く丸い灯りが、湖畔の脇に生えた雑草を浮かび上がらせた。


 微かにある足音が草を踏むようにして歩いてくる音が、木々や水が作り出す調和の中をかき乱すように響くのは、それが唯一の人工物だからであろうか。


 踏みつぶされる草や小枝の音が重なり、足音が湖畔沿いに進むのを、懐中電灯からの丸い灯りが震動で揺れながら移動してゆく。


 ざわり、と一際大きな風が山肌を撫でていったのだろう、大きな音が立った頃のことであった。足音が目的地に到着したのだろうか、背の高い草が生い茂る場所で止まった。


「……なんてことや……!」


  9



 低くしわがれた声が、絞り出されるようにして落とされるのと、懐中電灯の白い灯りが水際を照らしたその直ぐ後だったのかもしれない。


 震えるように小刻みに揺れる灯りと、それを抱える男の呼吸が荒いのは寒さのためではない。


「……こんなことがあっちゃ……ならんやないか」


 そこに含まれるのは怒りであろうか、それとも怯えであろうか。男の声が震えを滲ませながら、肩にしてきたバックパックからスマホを取り出そうと懐中電灯を足元に置いた時だった。


 一際大きな水音が立った。その背後に起きた大波に振り向いた男は、咄嗟に手にしたスマホを向けたのだが、唯一の灯りである懐中電灯は地面に置いたままであったことに気付いた時には全ては手遅れであった。


 降りかかる湖水はバケツの水をひっくり返したような勢いで男の全身を濡らし、そして。


「うわあああああああ」


 微かな灯りしか届かない夜の中で、男の意識は途絶えた。


 恐怖に目を見開いた、ままで。



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