序章 「その出会いは、奇跡」
靄が湖面に落ちる。
木立の間をすり抜けた小さな風までもが遠慮を抱くほどの静寂が満ちる早朝に、水が作る艶やかな表面を、形の不確かな霧が音もたてずに満たしてゆく。
夜闇に包まれ星を抱いた水面を、やわらかな真綿のような水蒸気がゆっくりと覆う。
ぱし、と踏み折られる枯れ枝が音をたてた。
まだ夜の群青を濃く残した湖面、音なき音が満たす岸辺に、人影が揺れるように動く。
「……ここら辺で、いいか、なっ、と」
枯れ葉が重なる狭い木々の間から顔を出した白い顔が、あまりの静けさに遠慮するかのように小声で呟いた。
デニムにスニーカー、ニットにパーカーを重ねた、一見するとショートヘアが男の子に見せる容姿だが、声の様子はやはり女性のもの。
「四時だと、やっぱまだ暗いなぁ。もうちょっと、かな。これじゃ幾ら絞りを高くしても光量が足りないよなー」
太めの革ストラップから繋がるカメラが、僅かな明かりに鈍い銀色を見せている。
望遠レンズを装着した、古いカメラ。
ほぼ骨董と呼んでも差し支えないほどに、クラシックなそれを抱えた少女は、最適なスポットを足踏みするようにして場所を定めた。
「日の出はあと十分ほど……かなっ、と」
ここ、と決めたスポットからは湖面が見渡せていた。
片膝をたててしゃがんだ少女は、ファインダーを覗いてフレームに納まった画を確認した。
澄み切った朝の空気と、白い靄が湖面を彩る。
まだモノトーンに近い世界は、直に陽のもたらす明るさによって徐々に色彩を得てゆく。
ばさばさ、と羽音を立てて水鳥が舞い降りた。
もう少し明かりがあれば、いい絵だったのにな。
星はそう思ながら、手にしたスマホを見た。
午前四時七分。
水面を覆う白い真綿の上に、温もりある明かりがゆっくりと運ばれてくる。
「きれい……」
視界いっぱいに広がる幻想の光景。
柔らかく緩やかに湖面を流れる水蒸気の層に、色が広がる。
シャッターチャンスだ。
そう星がカメラを構えた時だった。
静かだった水面と霧が、突然大きなうねりを上げた。
ザバン……ッ
「う、うわっ?」
ザザザザザザッ
大きな風が、湖面を吹き抜けた。
大粒の、バケツをぶちまけたような水しぶきが、星の全身に横殴りに降ってくる。
「わわわわわっ!」
急な嵐か――――
思わず手にしたカメラを庇う格好で、顔を覆うが、嵐はその一瞬だけで通り過ぎてしまった。
ざあっ、と風が勢いよく消え、星は閉じていた瞼を開いた。
「……な、なんなの一体……」
通り雨にしては、激しすぎる雨粒と風だった。
だが、顔を覆っていた腕を降ろして視線を再び湖面に向ければ、そこには静まりつつある水面と、散り散りになった綿毛のような霧があるだけである。
既に、朝日が覗いていた。
何が起きたのか、ぼうっとした星は、手にした銀色のカメラが弾く光に気付き、目を見開いた。
思いっきり、濡れている。
「……う、う、うわああああっ、カ、カメラがあああああっ!」
朝靄よりも色味を失った、青い顔で星が絶叫した。
春まだ浅い、早朝の事であった。