七夕の夜と翌日の話
日本全国を見渡しても、夜の星空がきちんと見える場所は少ないらしい。その点で言って、僕の祖母が暮らすこの土地はだいぶ珍しい部類に入るようだ。しかし星が見えるからと土地の価値が劇的に高騰するわけでもなく、逆に言えば星空しかないので土地の価格は依然安いままだ。その証拠に、しがない小学校教師でしかなかった祖母はつい数十年前まで山を一つ持っていた。
持っていた、と過去形なのは、今は持っていないという意味だ。その山は航空宇宙局だかなんだかが観測施設を建設するから売ってくれ、と頼み込んできた際に祖母が快諾、そのまま売ってしまって、今は予定通りに大きなレドームが二機もそびえ、この辺りで唯一人類の最先端技術となっている。
元は祖父の名義の山であったが、ちょうどその数十年前に祖父が亡くなって権利が祖母に渡ったのだそうで、曰く「まー、じいちゃんもどうすりゃいいかわかんねぇって言ってたからね。それにおかげでおばあちゃんはお金持ちさっ。じいちゃんはいいもん遺してくれたよ」とのこと。そんなわけで僕の家族および親戚は毎年祖父の命日が近づくと折を見て祖母の家に行き、日ごろその財力に助けられているお礼を祖父の位牌にささげるのだった。小さいころからの習慣だったので特に気にしてはいなかったが、真相を知れば何とも生々しい話である。
知ったからといって、しかし、僕の身に何か劇的な変化があるわけでもないのだが。しいて言うなら、僕は昨日この話を聞いてようやく、やけに大盤振る舞いなお年玉のタネを知った。
で、だ。
今年の祖母宅訪問は昨日と今日執り行われた。七月の六日から七日へ渡る二日間、土曜日と日曜日だ。そして今日がその日曜日。七月七日。七夕ということで、祖母は集まる親戚の子供たちのためにと大きな笹と和紙でできた短冊を用意していた。集まった子供は全員僕よりも年下で、すこし恥ずかしかったが僕も参加して願い事を書いておいた。あまり効果があるとも思えないが、せっかくいつもと違って天の川がきちんと見える土地に来たのだから少しはマシな効果が期待できる。
そして一連のイベントが終了し、小さい子供たちはみんな寝室へと上がって持ち寄ったゲーム機で遊んでいて、大人たちはつまみをつつきながら酒を飲んでいる午後十時、僕は一人で昔ながらの縁側に出て、夜空を眺めていた。
辺りは蟲やカエルの合唱で、都会とはまた違う喧騒に包まれている。風流を感じ取ろうと思えば僕にでも感じ取れそうだ。見上げた先には遠近感の狂うような巨大な天の川。こうしてみると本当に川の様だ。喧騒に混じって聞こえるのは風に揺れる笹の葉と短冊、あとは家の中から聞こえる酔っ払いどもの戯言が少々。ううむ、実にいい感じ。どういう感じだと問われても、いい感じとしか伝えられないのが非常に口惜しい。すごくセンチメンタル。
「はぁ……」
「そんなにぼーっと天なんか眺めて、お前は格好つけの詩人にでもなったつもりか?」
ぎっ、と板のきしむ音がして、隣に誰かが座った。女の子だ。
「格好つけだなんてそんな、天の川が見えるから見ているだけさ。君だって織姫と彦星の話くらい聞いたことがあるだろう?ほら、あそこに見えるのが織姫で、あそこに見えるのが彦星だ。ここからただ指さしただけじゃ分かりづらいかもしれないけれど、少し待ってて、今分かりやすい図を検索するから」
「何を焦っているんだ。まさか図星か?本当に格好つけていたのかい、呆れるねぇ」
はーヤレヤレ、といった感じのその子は親戚の子ではない。僕と同い年、中学生くらい。
「本当に違うんだってば。それより君は誰?ここは僕の祖母の家だ。許可なく入ってきちゃいけないんだぞ」
僕がそう言うと、女の子はうーん、と唸って、何やらもごもごと独り言をつぶやいた。すぐ後によし、と何かを決意し、こっちを向く気配がした。
「まあお前に言ったところで何があるわけでもなさそうだから教えてやる。私は織姫だ」
「……織姫さん?変わった名字だね」
「違う違う、いつもはお前が今見ている天の川の西にいる方だ。ちょっと疲れたから降りてきた。よく見てみろ、今は織姫が見えないだろう?」
天の川をよく見ると、あれ。本当だ。夏の大三角形が崩壊している。ベガを欠いた他の二星じゃあただの直線でしかない。
なかなか凄いことになってきたぞ。
「勝手に地上に降りて来たら駄目じゃないか、織姫。日本中の天文学者はきっと今頃大騒ぎしてるよ」
「いいんだ。元々私の仕事は機織りだし、その機織りが一年に一度ようやくお休みになるのが今日なんだから。休みをどう使おうが私の勝手だ」
なるほど、確かに勝手だ。織姫はどうやら本当に天から僕の隣に来てしまったらしい。天人である彼女にとっては、もしかすると地上に降りることくらい簡単にできてしまうのかもしれないし。
「え、でも織姫、君にとって今日は大事な日だろう?今日しか会えない彦星に会える日なんだからさ」
「え、ああヒコね。いいんだ。今日は会いたくない」
「ちょっと待って。せっかく一年に一回しか会えないのに会わないでいいの?仲がすごく良くて、愛に夢中になり過ぎて仕事しないからって日ごろは離されているんでしょ?」
「そこから説明しなくちゃならないのか……」
僕の問いかけに、織姫は嫌々語り始めた。
「あのな、そもそも私もヒコも、お前たちが考えている織姫と彦星ではない」
「初耳なんだけど」
「だろうな。天界の人事異動なんてわざわざ人間には伝えないから。私もヒコも三代目、一代目は千代の昔にはもう代わっている。だって大変だよ、一年に一回しか会わない相手を愛するのって。一代目も二代目もよく持ったものだ」
「えー……」
「何?夢が壊れたとでも言うのか?そりゃ感謝はしてる。お前たちが星に物語を紡いだからこそ私もヒコも、天界も存在しているんだから。でもね、お前たちが七夕にかこつけた幻の愛を想い続けている限り私たちはどんなにつらくても織姫役と彦星役を立てなきゃいけない。一代目も最初はノリノリだったけど、ご老体に鞭打つのにも無理があるから今は別のところで静かに自分たちの愛を育んでいるんだとか?」
何だか読めてきたぞ。織姫はきっと今彦星とケンカをしているのだ。だけど一年に一回しか会えないから、久々に顔を合わせて謝るのが恥ずかしくて逃げてきたに違いない。
「ねえ織姫。恥ずかしくてもやっぱりちゃんと謝るべきだよ。面と向かって言わなきゃ伝わらないことだってたくさんあるんだよ。彦星もきっと分かってくれるよ」
「お前、何か勘違いしているだろ」
きょとん、として天の川に視線を泳がせる僕に同じくして、空に顔を向けながら織姫は愚痴を言いだした。目元は見ていないがきっと天の川を、彦星を睨んでいる。
「伝統だってことで私とヒコは二代目から織姫と彦星を引き継いだ。知らなかっただろうが、最初の二人以外は最初っからお互いを愛していたわけじゃないんだ。二代目はとりあえず形から入って、長いことあって、それからようやく、そしてめでたくお互いを真に愛し合えるようになったんだ。この真に愛し合うというのが厄介でな。仕事をしないからお互いを引き離したという最初の目的が形骸化して、真に愛し合う夫婦の手本をお前たちに見せてやるというのが二代目に課された使命だったんだが、二人が真の愛を見つけると同時に織姫と彦星を引退したもんだから私たちの卒業条件もそれになってしまった」
「でも織姫は彦星が好きなんでしょ?」
「とんでもない。そりゃあ最初織姫に選ばれて彦星と会った時は素敵な殿方だと思ったさ。でも一年も会わないんじゃ熱も冷めてしまう。それでも会うたびに好きになれる男が彦星ならよかったんだがいかんせんヒコは、なんだ、最近の言い方でいうなら、その……あー、お前、何か丁度いい言葉はないか?」
「どんな人なの?その、ヒコさんは」
ふー、とまるでたばこの煙を肺の底から吐き出すかのような長く重いため息をつく織姫。説明するのもうんざりといった感じだ。
「ヒコの仕事は牛追いなんだが、駄目な仲間と関係しているみたいでな。牛追いの仕事をやっていることにはやっているんだが、いつもいつも賭け事ばかりしているんだ。ヒコも最初は年に一度の逢引きに本気で準備していたんだが、最近は日ごろから身なりがだらしないと聞くし、私に会うときもずっと賭け事のことを気にしてばっかりでまともな会話ができない。この間あったときは西洋の英雄……おりおん、といったかな?が、毒虫から逃げるか逃げないかで大ばくちを打ったことをものすごく後悔している、といったことしか話さなかった。正直私にはどうでもいいことだし、もっとほら、愛し合うなら二人の時間を大切にするべきだろ?なのにヒコときたら私の顔なんかロクに見ないし、そもそもその西洋の英雄と毒虫も仕事でやってるんだろうから結果なんて分かり切ってるのにわざわざ不利な方に賭けるその感覚が分からん。しかも!それで賭けられていたのは何だったと思う?私が織った衣の半分だ!まだまだ語り足りないが、これがヒコだ。どうよ」
「クズだね」
僕は率直に思ったことを述べた。
「くず……なるほど、屑か。確かにヒコなんぞ、屑や塵にも同じようなくだらない男よ。はははっ!実に爽快だな!屑、うむ、気に入った。帰ったら他の仲間にも教えてやろう。男を罵るときは屑と言ってやるのだ!」
これで天界での男女関係がめちゃくちゃになったら僕の責任かもしれないが、とりあえず織姫は元気を取り戻したようだった。祖母はよく女は愚痴っぽくていけない、と言う。僕は少なくとも同級生の女子にそう思ったことはなかったが、織姫に関しては当てはまる。まあ、こうして織姫の話を聞いているのも楽しかったから、必ずしも愚痴がいけない、というわけではないのだが。
「すっきりしたでしょ。やっぱり想いを声に出して言うことは大切なんだよ。その愚痴を今すぐ戻って彦星にぶつけてきなよ。もしかしたら改心するかもよ。何も理由を言わないまんま会わなくなっちゃったらきっと後悔するよ」
「少し話をしたら分かった風な口を……それくらい、男の方から察しろというものだ。それが分からんようでは男失格だ」
「織姫、君と、そのヒコさんは三代目なんだろう?一代目や二代目とは世代が違うんだから、今までの考え方のままじゃだめだよ。昔の考えを頑なにして怒ってばかりいる人は地上じゃとっても嫌われるんだよ。ちゃんと言わなきゃ絶対に伝わらないって。僕だって、女の子が何考えてるかなんか分からないんだし」
「……おっ!?あんなところに短冊があるな。願いを聞くのも織姫の仕事だし、直接見てやろう」
織姫は僕の言うことを無視して立ち上がり、笹に下がっている短冊の方へと歩いて行った。
「えっと何々……ああ!毎年いるな、こういう子供は。玩具くらい自分の親に買ってもらえ。きっといい子にしていたら親とて鬼ではなかろうに。こいつは……こいつも玩具か。最近はよく見るな、この……すりぃでぃえすとやらは」
「今はやりのおもちゃなんだよ、それ」
「なるほど、どおりで。おや、これはなんだ?」
織姫は何か妙に気になる短冊を一つ見つけたようだ。
恐らく一番下の方に結んであったものだろう。
「こんなところに下げてちゃ気が付かないよ。よかったな、私が地上に降りてきていて。さて願いはっと。『あの子と仲良くなる機会が欲しい』?なんだ、このやけに初々しくて女みたいな願い事は。はっきりとしないし、なあ、これは誰が書いた願いなんだ?」
ちぇっ。よりにもよってその短冊を見つけるなんて。愚痴なんか聞いてやらなきゃよかった。というかそもそも、願いを馬鹿正直に書かなければよかった……。
「おい、こっちを見ろ。この短冊だ。この家に来ている子供たちのだろう?誰のなんだ」
「……僕のだよ」
「はい!?聞こえないぞ」
「僕のだよっ」
言い切ったとたん、織姫がにやけた気配がした。当然だ。さっきまであんなに言葉にするのが大事だって言っていた僕がこんな回りくどくて消極的な願いを短冊に書いているのだから。心なしか、目の端にわずかに映る織姫は楽しそうだ。
「へえ、お前のか。なあ、こっちを見ろよ」
「嫌だよ」
「どうして」
「織姫、君はその体を地上で借りただろ」
「……あー、はいはいわかったぞ。『これ』がお前の想い人なんだな?」
最初見たときは心臓が飛び出るかと思った。早々に織姫だと確信が持てたからまだどうにかなったが、その顔を直視することはできなかった。織姫の言動はかわいい女の子といった感じではない。しかしそれでもさすがにあの織姫の三代目だし、何より僕の好きな子の身体で喋るものだから分かっていても楽しいし、ドキドキしてしまう。
さぁっと夏の夜特有なぬるい風が吹く。訪れた沈黙に、あの子の声にかき消されていた蟲の声が再び聞こえ始めた。
「この女とお前はどういう関係なんだ?」
「僕の片想いだよ。学校も違うし、名前を聞いたことも話したこともないんだ」
「正真正銘のひとめぼれってわけか。ま、お前くらいの年なら最近はそれが流行りなんだろ」
「……で、どうしてくれるんだよ」
「ん?何が」
織姫がわざとらしく聞き返す。あの子の声で。
「織姫、君は僕の願いを見ただろ。叶えてくれるのか?」
「横柄な態度だな。もう少し腰を低くはできないのか」
「僕は君と彦星との関係修復のためのヒントをあげたじゃないか」
「へえ。天人の私と交渉する気か?」
挑戦的な言葉。織姫が僕に意地悪をするために言葉選びしているとしか思えなかった。
声はあの子なのだから。
「よし、分かった。お前の願いを、まあ頭の片隅にはおいてやる」
織姫の言葉に意識が遠くなるような血の巡りを感じたが、それも一瞬のこと。声には続きがあった。
「ただし、私が指示することをちゃんとできたらだ」
「……」
「お前の願いを叶えようと思ったら、まず私がもっと上の方に伝える『今年のお願い』の中でも特に優先だと記載しなければならん。これがなかなか骨の折れる作業でな。あとお前は機会をくれ、と書いた。そのこと自体は謙虚さがあるから、願いが承認されやすくなるからむしろいいだろうさ。だが機会を与えても、お前が行動できなければすべてふいになってしまう。私の苦労も水の泡。そこでお前がちゃんと機会を活かせるか、試させてもらうぞ」
「ど、どうやって」
心拍数の高まりを感じる。織姫は僕に何をさせるつもりだ?まさかあの子の身体に触れ、とか言わないよな。自分が乗っ取っているから大丈夫だとか何とか言って。もちろんそんなことを出来るはずが、いや、なまじ出来てもしていいはずがない。
「ん〜?何か邪なことを考えていないか、お前」
「いっ、そんなこと考えてないよ!」
「どうだかねぇ。ま、そういうことを考える方が健全でいいかもな」
「……知らないよ」
「でも残念ながら、私はそんなことは言わない。機会を活用するのに女の身体を触る必要はないだろう」
考えを読まれている気がするが、これもたくさんの願いに目を通してきた経験のなせる業なのだろうか。それとも天人の標準的な能力なのだろうか。あるいは、僕が単に分かりやすい男なだけか。
「私がお前にしてもらうことは」
織姫はそこまで言って妙に溜めた。この意地悪姫が、こんちくしょう。そんなんだから彦星に愛想をつかされるんだ。織姫はさんざん言っていたが、僕も言ったのだが、彦星の方だって言い分はあるはずだ。もう、夢ならとんだ悪夢だ、早く覚めてくれ。
「自己紹介だ」
「何か変なことは……」
「ない。ただの自己紹介だ。ただし」
「ただし?」
「私の顔をしっかりと見ろ。ここからじゃお前が目を合わせていないことくらいすぐにわかるし、小細工だってばれるぞ。余計なことは考えずに、私の目をまっすぐ見て、自分の名前を言って、私の名前を聞け。学校教育でも一度くらいしたことがあるだろう」
「そんなことくらいっ……」
簡単なことだ、と言って織姫の、いやあの子の顔を見ようとしたがうまくいかない。顔を上げて、もう視界には入っている。だが、焦点が合わない。頬、耳、鼻先、口。目意外になら焦点が合うのに、どうしても目を中心に入れて見ることができない。
「ほらな。お前は今まで人の顔をまともに見たことがないだろ?さっきお前は世代と言ったな、少し違うかもしれんが、要はそういうことだ。お前の世代、とひとくくりにすると気に障るかもしれんが、最近の願いは見ていてもどうも焦点が定まっていない。自分の願いというものを、本気で見たことがない奴らばかりだ」
さっき僕がいろいろ言った仕返しにか、織姫は次々言葉を投げつける。なんて子供じみた考え方だ。言っていることのスケールを無駄に大きくすることで、反論の余地を潰しにかかっている。こうなったら言葉で言い返すことは、織姫に比べて圧倒的に知識も経験も足りない僕には不可能だ。
「人の顔をまともに見ずとも、自分の願いをまともに見ずとも生きていけるから仕方がないのかもな。だが、天にお願いするときくらいは真面目にやったらどうだ?神頼みするときまで曖昧なままでどうするよ。私は曖昧な願いを叶えてやるつもりはないぞ。言ったように、私が苦労するだけというのはごめんだからな」
「ぼ、僕は」
なら、行動するしかない。
「僕はッ!」
正直、僕は本当に人の顔を見たことがないのかもしれない。
でも織姫の言っていることは正しくない。
僕たちにはできないんじゃない、まだやっていないだけだ。
僕がまともに見ていない人を、僕は好きになれるだろうか。
分からないが、僕はそうであってほしくない。
だから、ここでそれを示して見せよう。
僕はあの子のことが真面目に好きなんだ。
これが、その証拠だ!
「僕は竜彦と言います!初めまして、あなたの名前をっ」
目を見開く。焦点をあの子の瞳に合わせた。
黒く、はっきりとした目。初めて見る色。祖母の家から漏れる明かりは顔の半分しか照らしていないのにその目が分かる。夜と同じ黒い色。家族と同じ黒い色。同じ黒でも、僕が自分を鏡で見る黒とは違う黒。理由を探してすぐに分かる。
天の川、その周りにあふれる明るい星々。月。
全てが、僕と彼女を照らす光源となる。
目は口ほどにものを言う。
誰が言ったか、そんなことわざ。
即ち、目を合わせるというそれだけで、コミュニケーションはほぼ終わっているのだ。
「教えて、下さい……」
そう気づいて、勢いよく出た言葉の尻はしぼんでいった。
だめだ、目を合わせると今はまだ伝えたくないことまですべて伝わってしまう。
僕はそれ以上彼女の目を見ていることが出来なくなって、目を閉じてしまった。
「名字は無し。ちょっと形通り過ぎるし、完全に目を合わせ切れていた時間などほんの寸刻しかない」
織姫の声が聞こえる。
「だけど、まあよし。伝えること以上にもういろいろ伝わったからな。大丈夫だろう」
ん?かなり近い!?
思わず目を開ける、目の前にあの子の顔があった。
まさしく目を覗き込む。そして覗き込まれている。微かに香る草と土の香り。
目を覗き込むことで、僕の意識は強烈な力で彼女にかき集められていく。すべての意識、感覚が、目を覗き込むという行為によって研ぎ澄まされていく。
なるほど、彼女はこういう人なのか。
「私の名は織姫。こちらこそ、初めまして」
最後に聞こえた声はどちらのものか分からなかった。
気が付けば、僕は一人で縁側に座っていた。
夜空には天の川。その岸には彦星と、そして織姫が見えた。
翌日。
毎年の慣例で、祖母に見送られながら僕は朝早くにタクシーに乗り、学校へ行った。
一晩寝たからか、昨日のあの出来事にはまるで現実感がなくなっていた。
どこのニュースにも織姫が、つまりベガが見えなくなっていたなど書かれておらず、また祖母は僕を見るなり開口一番「狐にでもつままれたような顔をしているねぇ」とのたまった。僕は本当に狐につままれていたのだろうか。
日が昇り、土地も変わり、星の見えなくなった空を眺めてみる。
今日は晴れているが、少し雲が出ている。
その程度のこと。何も劇的なことはない。
ただ一つ、それでも僕に昨日の出来事を現実視せざるを得ないことがあった。
本当に織姫が降りていたのかはさておき、願いはかなったようである。
夏休み前という常識的に考えてあり得ない時期に、僕のクラスにやって来た転入生。
「皆さん初めまして!私の名字、ちょっとヘンなので少し恥ずかしいんですけど……」
席は僕の隣だ。
「折媛っていいます。これから、よろしくお願いします!」
せっかくもらった機会、まずは下の名前を聞くことに使わせてもらうとしよう。




