06
養護の塚田先生を呼んできた時には、すでにコバヤシさんは立ち上がって、白いハンカチで涙を拭いていた。
発作はすっかり収まったらしい、心配する先生に
「ひとりで帰れますから」
と涼しい顔で言ってから軽く会釈すると、カバンを取り上げ、靴を穿く。
最後にかすかに、私の方に余分に目線を止めたような気がした。
「何でもなくてよかったわねえ」
塚田先生は一言明るくそう言い残し、保健室に帰っていく。
それも見送ってから、私は彼女の靴箱にさりげなく目を留めた。
23HRの列、『小林想亜羅』と書いてある。
コバヤシ・ソアラ、そあら先輩……私は口の中で繰り返した。
なぜか急に、頬がかあっと熱くなる。私は両手のひらで顔をはさんだ。
耳たぶにはまだ、生々しい爪の感覚が残っている。痛いのではなく、むず痒いような、心の奥底をざわつかせる感覚。
黒い瞳の濡れ色が鮮やかによみがえり、耳と同時に胸にずきん、と痛みが走った。
つい、つま先立ちになる。背筋を温めの快感が駆け下り、私は軽く身をよじった。
……どうしちゃったんだろう? あの人の目ばかり、思い出してしまう。
遠くで急に調子外れのブラスバンドが鳴り出した。私ははっと我に返る。
夢がさめたように、頬を強くこすってから自分のリュックを持ち上げた。
家に帰りリュックを開ける時、脇のネットポケットに小さな紙片が入っているのに気づいた。
2L版よりやや大きめの上質紙が4つ折りになっていた。
拡げてみると、簡素なプリントアウトの文字列が並んでいる。
「?」
少し滲んだ字体で一行、こうあった。
『あなたは私たちの大切な』
その後は水滴がついてしまったのか完全に読めなくなっている。ほんの二、三文字のようなのに。
続いて、ホームページらしいアドレス。
「……なんだろう」
そあら先輩が入れてよこしたのだろうか? まさか。彼女がリュックに近づいた様子は特になかった。
それに、メモについて何も言ってなかったし。
どこかで何気なく受け取った紙きれを、無意識のうちにここに入れただけなのだろうか?
そあら先輩がくれたんだといいな、かすかにそんなことを思ってしまった。
少し目線をさまよわせるとすぐに、あの顔が浮かんでくる。
お人形みたいな前髪とその下の切れ長の目。美しい目。深く暗く……
まただ、何だろう? 惚れちゃったのかなあ。
一人で可笑しくなった。くすくす笑いが止まらず、慌てて咳払いでごまかす。
それから、机に並んだ教科書と参考書との間に伸ばした紙を挟んだ。上の角が斜めにちょっとだけのぞいていたのを直そうと手を伸ばしたが
「姉き! 先に風呂入るぞー」
弟のレイジが階下で叫んだのに
「だめ! 私が先だからね」
慌てて答え、部屋を飛び出した。それから部屋に戻った時にはすっかり紙切れのことは忘れていた。
翌日、私は少しだけ朝早く学校に行って、23のクラスを覗いてみた。
学校についている生徒はまだ、数えるほどしかいない。私は何となく階段の近くに佇んだままそあら先輩がいつ来るのか、姿がみられるのかを待っていた。
結局その日、彼女は姿を見せなかった。
胸の中に、ほんの小さな穴が開いて、そこをひゅう、と冷たい風が抜けたようなわびしさに、気づかないうちに私は唇を噛んでいた。
私は毎朝、そあら先輩が来ているか確認するようになっていた。
彼女はずっと休んでいるようだった。
勇気を出して、塚田先生にも聞いてみた、でも
「体調を崩して休みます、とおうちから電話で連絡が来たきりよ」
そんな簡単な返事しかもらえなかった。
「喘息だと、入院する人もいるんだよね」
ルネは他人事とは言え、かなり心配そうに眉を寄せている。
「でもさ、その先輩も何だっけ、なに会員?」
ミホが屈託のない口調で続けた。ルネもすぐ思い出して
「セル会員、だよね。その会員だったの?」
と聞く。未歩は腕組みしたまま、うんうんとうなずいてみせる。
「かなりのセレブなんだよ、その人。きっと個人病院の個室で悠々自適ライフよ」
「……そうかなあ」
そあら先輩が言ったことが気になっていた。
「登録はカンタンだよ」と。
簡単というのは、きっとPCとかスマホで、ピピッと操作するだけでできる、という意味だったのだろう。お金もかかるとはあまり思えなかった。
急に、セルのことが気になり出した。
家に帰ったら、早速調べてみよう。
『セル』そして……彼女のことばを思い出す。
「イヤーエイク」
そうだ、ピアスのことをそう呼んでいたんだった。