非リアのウォーゲーム
眠れぬ夜が明け、ついに朝が来た。村川の頭は妙に冴えわたっていた。食事をしているときも計画の事を考えていた。ぬるいスクランブルエッグをつつきながら川上の言葉を思い出す。川上の話では拳銃は銃声の事もあるし、人の少ないところでした犯人は使用しないだろう、とのことだった。もし犯人が人前で発砲しようものなら現行犯逮捕だろう。その言葉に少し安心した村川は食後に甘いコーヒでも飲んで緊張をほぐそうとした。本当は心より体がこって仕方がなかった。村川は川上に教えてもらった縄の結び方を思い出しながら、手を開いたり閉じたりした。村川がコーヒを持って席につく頃には皆が食事を終えていた。しかし、誰も席から離れようとしない。村川は白く濁ったコーヒを啜りながら、皆を見ていた。内心、村川は奇妙な焦りを感じ始めていた。まさか俺の知らないところで事態は勝手に進行してしまったんじゃ……?
村川はすでにコーヒを味わえてはいなかった。まわりのざわめきが一層村川を不安にした。
村川が食事を終えたころ、教師が数人食堂へ入ってきて一人が、
「ホテルを出る前に、部屋の掃除をしてください。後、最後の点検をする係りを部屋に一人ずつ任命してください」
と事務的な口調で言った。なんだよ……そんなことか、村川は空になったカップを見下ろして一人安堵した。
沸き立つ皆の中で、5人だけ静かに佇んでいる男たちがいた。村川たちだ。彼らは部屋に戻ると、早速最後の会議を静かに始めた。
桐谷が村川に、
「俺たちは吉沢の行動範囲に近い男子を二つだよな」
「ああ、それであってる」
川上はほくそ笑んで、
「俺たちは男の上級階層にしかたなくついていくわけだ」
佐久間に言った。
「もうしわけない」
村川が謝ると、
「いいよ。もう後戻りはできないからね」
川上は笑いながらため息をついた。
「俺だけ一人か」
小林がぶつくさと地図を見ながら言った。
「いいじゃないか、君の見張るグループは一番犯罪とは遠いグループだ」
川上が肩をすくめて言った。小林はため息をついて、
「まぁ仕方ないか。それに俺は最後の点検をする係りだし」
皆の準備が整ったところでバスの音が外から聞こえた。
「先に行っているから」
小林を残した四人はホテルの前に広場へゆっくり移動していった。静かにだが確実に村川の動機は早まっていった。
皆がホテルの従業員へのあいさつを済ませ、バスに乗り込んだ。皆、これから始まる自由行動への期待を膨らませて、興奮収まらない様子だった。村川は川上の隣に座り、ぼんやりと手を振る従業員を眺めていた。これから戦争が始まる。村川の心は恐怖と不安と、そしてなぜか少年的な興奮に満たされていった。少し経つと小林を含めた点検の係りのメンバーがバスへと乗り込んできた。小林はバスに乗り込むなりぼんやりと、
「枕をあんなにするなんて凄い枕合戦をしたんだなぁ」
桐谷は遠くの席に座っていたので、3人が勢いよく小林の話に食いついた。
「何かあったのか?」
川上が訊いた。村川と佐久間は唾を飲み飲み込んで見守っている。
「いやさ、なんか吉沢たちの部屋の枕の一つの綿が抜かれていたらしいんだよね」
聞くなり川上は食らいついて、
「それは……やばいよ」
青くなった。
「それが何かあるの?」
村川は眉をひそめて聞いた。佐久間もよくわからないといった表情をしている。
川上はしぶしぶ、
「銃につける減音器っていうのがあるんだけど……」
「それは知ってるよ、サプレッサーとかいうんだろ」
小林も眉をひそめた。
「それがペットボトル等のものと綿で作ることが可能なんだ」
川上は言い終え、皆の顔を見渡した。皆、顔を青くしていた。
「だ、大丈夫さ。そんな即席品が何度も使えるわけがないだろ。多分、使えても1,2回だよ」
川上が無理に笑って言った。バスの中が大盛り上がりになる中、村川たちだけ静かになっていった。
バスはすぐに市街地につき、村川たちはついに作戦を実行するに至った。吉沢が犯人だという確率が高くなったことから、小林と佐久間は彼らの担当が不審な動きを見せなければ、村川たちに合流する手はずとなった。
「いいか、この気違いじみた作戦には金も名誉もなければ、まして空の罵倒も夏希先輩のキスもない……それでもやるのか」
朝、出発前に村川は皆に問うた。
「やるにきまってる」
「いらねーよ、そんなもん」
「村川君、君の無実が証明できるんだし、それが取り分だ」
「今頃断れないしね」
5人の男たちは覚悟を決め、動き始めた。朝日がまぶしい。村川は決めていた通り、桐谷と共に吉沢のグループの尾行を開始した。
「お願いですから、犯行を止めるだけですよ」
村川は桐谷を見て言った。
「一発殴るくらいはかまわんだろ」
桐谷は笑って言った。
吉沢たちはゆっくりと話をしながらお土産売り場をうろつき始める。村川たちも怪しまれない程度の距離を保ちながら尾行を続ける。人が多かった。周りには音が満ちていて、サプレッサーを使えば技量さえあれば殺しはできそうで、村川はぞっとした。村川と桐谷は互いに距離を保ち、片方が吉沢を見ているときは片方が見失った時のために近くの別な方向を見ていた。それほど人が多かった。村川は高鳴る鼓動を感じながら、吉沢を一瞥した。吉沢を合わせてメンバーは4人。なんと話題の中村まで一緒だった。そりゃあの事件の前に班が決められたしなぁと村川は苦笑した。できれば何もしないでくれ、そう願いながら村川は吉沢を見張り続けた。
佐久間は居心地の悪さを感じながらも、木下のいる班にくっついていた。自分でも金魚の糞のようだと思い、苦笑を禁じ得ない。佐久間はぼんやりと替えのお土産を選びながら、村川の事を考えた。何が佐久間をここまで駆り立てるのかわからなかった。しかし、村川を方っておくわけにはいかなかった。成績は普通、運動は微妙でいつも寂しげな顔をしている男。それが佐久間の持っていた村川のイメージだった。しかし、それはある日大きく揺るがされる。あの日は夕焼けがとてもきれいだった。赤く染まった落ち葉を踏まないようして歩きながら、学校へ戻ったのをよく覚えている。その日、佐久間は忘れ物をして教室に立ち寄った。教室の隣は進路相談室だったが、まだ進路の事を考えている奴はごくまれでいつもと同じようにそこの電気はついていない、と思った。しかしその日だけ進路相談室の電気はついていた。誰だろう、そう思い佐久間は自然と聞き耳を立てた。そこからは聞きなれない男の声と担任の声が聞こえた。少し聞いていると、ふたりは奨学金の話をしている。男は本当は大学に行きたいらしいのだが、金がないのだという。佐久間は耳をより進路指導室に近づけた。
佐久間は耳を澄ませて初めて、男があの印象に薄い村川はだと知った。よく聞けば、母子家庭だという。村川の話方はまるで自分でしょい込みすぎた大人のようだった。そこからは責任と疲労が感じられた。そこまでは別に佐久間にとってなんともない事だった。しかし、帰り道に寄ったスーパで母親と買い物をする村川の無邪気ながら疲れた笑みを見たとき、佐久間は村川に何かあったら、やれる範囲でやれることをしようと心に誓ったのであった。
尾行を開始して20分が経過しようとしている。まだ吉沢は怪しげな行動は起こさず、普通だった。むしろあの事件の後だと考えれば異様なほどだった。村川は時間の流れの遅さを感じながら、吉沢を監視し続けた。定期連絡でも他の班に異常はなく、本当に拳銃は盗まれたのか村川自身も考えてしまうほど普通に時間は過ぎていた。できれば親が大金を払ったのだから修学旅行を楽しみたかった。やはり拳銃なんて拾うんじゃなかった。村川はため息をついた。吉沢を見張っている時、桐谷が気づかれぬように剃刀を買っていた事を村川は知る由もなかった。
つまらない接待的な会話をつづけながら佐久間は、もうすぐ尾行を開始して40分が経過するのを意識した。何も起こらないでくれ、そう願いながら二回目の定時連絡を送り終えた時だった、突如木下が班から抜けて行動を開始したのは。
定時連絡を終え、あと1時間と20分か、と時間の長さを思った時だった。村川の形態が再び震えた。
「木下が班とは別に行動を開始した」
佐久間から送られたラインにはそう書いてあった。まさか、村川は戦慄しながら桐谷と視線を合わせた。桐谷も緊張を隠せないようだった。しきりに吉沢とその周りを見渡している。
「はっ……」
「あの糞女……」
村川と桐谷は同時に息をのんだ。吉沢は中村に何か告げ、二人だけで行動し始めたのだ。
村川と桐谷は急いで二人を追い始めた。吉沢たちは徐々に人が少ない場所へと移動していった。
「どうする?このままじゃ尾行がばれる」
桐谷の指摘に村川は思わず歯噛みした。確かにその通りで、徐々に人影は少なくなり音も少なくなっていった。このままでは尾行が気づかれる。
「くそっ!こっちは防風林だぞ。ここで止めればまだ間に合う」
焦る桐谷の肩をぐっと掴んで村川が、
「まだだ。一度離れよう。俺のようなぼっちならここにいてもおかしくはない、桐谷君はここで待っていてくれ」
「そんなことできるかよ!」
「時間差で俺に近づいてきてくれ。それでいいだろ!」
村川は冷静に言った。
「わかった2分後に行く」
「お願いですから、止めたら終わりですよ」
桐谷は納得しかねる様子で了承した。村川はゆっくりと吉沢たちについて行った。いよいよ胸の鼓動が激しくなり始めた。村川はぐっとこらえ、二人を追う。二人はどんどん防風林の方へ近づいていった。村川は気が付かれないようにあらぬ方向を定期的にむいた。
村川が離れて言ってすぐ、桐谷は佐久間と小林に連絡を入れた。「吉沢が怪しい、と」
小林は位置的に近いので、一度向かうと連絡をよこした。携帯電話をしまうと桐谷はポケットの中の固い感触を二度三度確かめた。
「奴らを殺るのはこの俺だ」
桐谷は静かに呟き、一分もたたないうちに村川を追い始めた。
じりじりと近づいていくと、吉沢たちはどんどん防風林へ向かって行った。村川は木の幹に隠れながら彼女らを尾行した。ダンボールがあればな、と心の中でジョークを呟き、心を落ち着かせようと試みた。しかし、胸の鼓動は強まるばかりだった。村川は大きく深呼吸をした。
「なんでこんなところに?」
「別に良いでしょ、それより友則の事だけど」
見えなくとも、二人の邪険な雰囲気は村川に伝わってくる。もう一度、深呼吸をしようとしたその時、誰かの手が村川に触れた。村川は驚きのあまり叫びそうになった。息を整えて振り向くと、そこには木下の姿があった。村川は再び驚いた。桐谷かと思ったのだ。木下は天使のように柔らかく微笑み、
「やはり、来ると思ったよ。村川君」
村川は唖然と木下の顔を見つめていた。鼻の高い、日本人離れした顔。木下はすぐに笑顔を消すと、
「始まるぞ」
と言った。まるで黙示録の始まりを告げるラッパのようにそれは響いた。吉沢たちの事を思い出して振り返ると、吉沢はまさに拳銃を中村に向けているところだった。村川は何も言えず、何もできずにその場に座り込んでいた。引き金が静かに引かれた。神様……村川は静かに呟いた。
「くそっ!村川の奴。どこに消えたんだ」
桐谷は村川を探しながら、防風林を駆け回っていた。桐谷も目はもはや獲物を移す肉食獣の物だった。待ってろよ、今すぐにでもずたずたに引き裂いてやるからな、桐谷は骸骨のような微笑みを作り、防風林を奥へ奥へと進んでいく。
防風林の中で弱弱しい金属音が響き渡った。村川と木下はただそれを眺めていた。
「なんで、おかしい……なんで!」
吉沢は狂ったように、引き金を引き続けている。しかし手に握りしめた鉄くずは役目を果たそうとしない。気が付くと中村は微笑んで吉沢の方を見ている。
「今のうちだ、早く止めよう」
木下が愕然としている村川の肩を叩く。
「で、でも」
「何をやっているんだ!早くいかなければ死者が出るかもしれないんだよ!」
村川は木下の罵倒に驚き、そのまま吉沢の元へ躍り出てしまった。
「むっ村川!?」
吉沢は素早く反応し、銃口を向けたがやはり弾は出ない。
「ちくしょう!」
「銃を落とせ!」
木下の声が防風林に響き渡り、吉沢は一瞬、たじろいだ。驚くというより、単純な困惑のような表情が吉沢の顔を覆っていた。その瞬間が狙い目だった。
村川は勢い良く吉沢の手から銃を弾き飛ばした。指が絡まりながらも銃は遠くへはじき飛ばされた。そこへすかさず、木下が加戦した。木下の鋭い蹴りが吉沢のこめかみを直撃する。
ぐぅっ、と奇妙な声を上げながら、吉沢は倒れた。こめかみからは血が流れ始めていた。村上は急いで、バックからタオルを結んで作った縄で吉沢の手を縛った。村川は吉沢の手を縛り終え、ふと木下を見た。隣には中村もいた。二人はにこやかにほほ笑んでいる。場所さえ違えば新郎新婦のように見えたかもしれない。
「まさか……ここまでうまくいくとは思わなかったよ。ほんと、笑っちゃうね」
「ほんと」
木下と中村は笑いあった。真黒な銃口が、村川が拾った拳銃の銃口が村川に向けられていた。嘘だろ、村川は笑い出しそうになるのをこらえた。
「な、何で」
村川は困惑して呟いた。その問いが応えられることはない。そうか、これが真の恐怖か。笑う木下。笑う母親。さよなら母さん。
ぱすっ、と言う情けない音が聞こえた。風が強くふぶいていた。しかし、いつまでたっても痛みは訪れなかった。代わりに悲鳴が聞こえた。防風林から突如現れた桐谷が手刀で中村を吹き飛ばし、そのまま木下を追撃していたのだ。中村はそのまま木に激突していた。あまりにも激しい衝突だったので村川は思わず、いてぇ、と言ってしまった。桐谷の手刀で銃が勢いよく吹き飛んだ。ふとその方向を見ると、血まみれの吉沢がいた。村川は立ち上がろうとして、激痛に気が付いた。痛みの元を見ると、脇が少しずつ赤く染まっていた。気が付くと同時に焼けるように傷が痛み始めた。脇の下というのは太い血管が通っており、致命傷になりうる。
「やべえ……」
気が付くと村川の頬を涙が伝っていた。足を動かそうとしても、震えて言う事を聞かない。俺はここで死ぬのか……。村川は再び絶望し、啜り泣き始めた。
「貴様っ!」
木下は素早く移動し追撃を逃れる。しかし、間髪を入れず桐谷の追撃が襲う。桐谷の鋭い手刀は木下の素早い判断によって腕でそらされ、当たるに至らなかった。手刀をそらされたことによって大きな隙を作ってしまった桐谷の胴にすかさず木下の手刀が食い込む。反吐を吐き散らしながら桐谷はよろめいた。
「意外だったよ、桐谷」
よろめく桐谷に木下は躊躇せず拳を叩き込む。桐谷は慌てて防御するが、反動で倒れこんでしまった。
「糞……」
「やっぱり……まだ、夏樹ちゃんの事が忘れられないのか?」
木下は桐谷を見下していった。
「ああ、そうだよ……だから何だっていうんだ」
木下は素早く拳銃を拾い上げると座り込んでいる村川を見た。
「君が拳銃を隠したのを見てしまってね。それを利用しようということになったんだ」
木下は銃口を村川に向けて微笑んだ。
「しかし……ここまでうまくいくとは、馬鹿だねお前は」
木下は目を細めて村川に照準を合わせた。
「バカはお前だよ!」
桐谷が獣の咆哮のごとく怒鳴り散らした。桐谷はそのまま素早く懐から剃刀を取り出し、木下の足を切り裂いた。勢いよく血が飛び散る。
「ちぃっ!」
木下が倒れこんだところをもう一度切り裂く、木下のワイシャツが裂け、血が飛び散った。しかし、倒れざまに木下も引き金を引いていた。数回銃声がとどろき、桐谷の体が赤く弾けた。ふたりとも苦しげに大きく喘いでいた。荒い息が防風林に響き渡る。
「ちぃ……ちくしょう……」
木下が流れ出る血を抑えようとするかのように腹を抑えた。しかし出血は止まらない。
「由紀…由紀ぃ!」
木下は狂ったように叫んだが、中村は倒れたはずみに木の幹に頭を打ち気絶していた。
「む……村川ぁ……」
桐谷の喘ぐような呟きに村川はハッと現実に引き戻された。
「桐谷……」
桐谷は全身血まみれの無残な姿になっていた。
「てめぇまだ生きてたのか……」
怒り狂った木下が拳銃の引き金を引くが、もう弾は残っていなかった。弱弱しい金属音だけが防風林の中に響いた。
「村川…これを……」
桐谷は最後の力を振り絞り、自分の携帯電話を村川の方に投げやった。
「何をやっているんだ!」
木下は吠えたが、傷のせいで身動きが取れない。木下の口からよだれが零れ落ちる。村川は血でぬめぬめするそれを受け取った。
「早く……それには証拠映像が入れられている……早く」
村川は全身の力を振り絞り立ち上がった。それだけで息が切れた。寒かった、とても。
「まっまてぇ」
木下はもう顔面蒼白だった。声もかすれ、さっきまでの威厳はどこかに消えていた。
「頼んだぞ……」
桐谷も顔面蒼白だったが、桐谷はもはや死んでいるようにしか見えないほど青ざめていた。
「わかったよ」
村川も声を振り絞り、桐谷に応えた。そのまま村川は歩き出した。
「頼んだ……ぞ」
桐谷のそれは、今際だった。村川はゆっくりとした足取りで現場から離れた。ぬるぬるの携帯電話が心地悪かった。
「まっまてぇ……」
木下もなんとか立ちあがると自分の血で濡れた剃刀を握って村川を追いかけた。村川の息はすぐにあがった。しかし、歩みを止めようとはしなかった。村川は歩いた、木下に追いつかれぬよう精一杯。今になって、心地よい風が肌に触れていたことに気が付いた。村川は歩き続けた。防風林は無限に続いているかのように感じられた。ただただ歩き続けた。




