4−2
ちょうどその頃、ヴィルカルドの受難も日が暮れたので終了が告げられた。
ヴィルカルドの姿はもうボロボロで、生きているのが不思議なくらいになっていた。服
はあちこち破れて血がにじみ、片腕は折れているのだろう、力が入らないようでぶらぶら
になっており、脚もおかしな具合に曲がっていたり、顔は腫れ上がり、生々しい切り傷だ
らけで、見るも無残な状態だ。
集団リンチに遭ったも同然な仕打ちなのに、当の受難者は全く痛がるふうでもなく、ま
だ平気だと言わんばかりに背筋を伸ばし、ちゃんとした姿勢を崩さない。
そんな受難者に、今まであんなに彼を崇め、すがろうとしていた信奉者達は誰も手を貸
そうともせず、いたわりの言葉すらかけないのだった。そしてただ受難の終わりを残念が
り、嘆いて、急に今まで自分がしてきたことに興味が失せたかのように、足早に広場から
いなくなるのだ。
ほとんどの人々がはけたあたりで、修道士が二人担架を持ってやって来て、当然一人で
は立つことも歩くこともできないほどに重傷の受難者を担架に乗せて、聖職者通りへと運
んで行った。
広場にはもはや誰もいなくなり、さっきまでの人の群れが幻であったかのごとく、ふっ
…と静まり返った……。
暗い部屋の中、ヴィルカルドは寝台に横たわっていた。修道院の一室を借りて、そこで
寝泊りしているのだ。室内は狭く、他の修道士達と同じように、小さな机と寝台、物入れ
の棚しかない部屋だ。余計な物は何もないし、椅子や机の上の物などは全く乱れていない。
一週間ほどここで寝泊りしているわりには、生活感が全くない空間だった。
いつも誰も入るなと言ってある。
特に今日のようにひどい怪我を負った時などは。
彼は夢を見ていた。
彼は城下から遠く離れた村に、妹と二人で暮らしていた。生活は貧しく、今までは農家
だったが、二年前から給金のいい領主の屋敷で雑用をしながら懸命に働いていた。
妹が流行り病を患い、薬は高価だったからだ。
領主の小さな娘も彼の妹と同じ病にかかっており、医者にかかれる領主の娘は、もう何
年も持たないだろうと医者に言われたそうだ。同じ病の彼の妹も、きっともう長くはない
のだろう、と彼は思ったが、せめて精一杯のことはしてやりたいと必死に働き、稼いだ金
のほとんどを薬代に回していた。
そんなある日、彼は領主に、
「娘の病気の治療を手伝ってくれたら、お前の妹の面倒も見てやろう」
と言われ、彼はすぐに承諾した。
何を手伝うのか詳しいことは聞かされないまま、彼は領主の言いなりに、真夜中に屋敷
を訪れた。
もっと彼が冷静だったなら、すでにおかしいと気付いたかもしれない。だが、この時の
彼は妹のために何でもしてやることしか考えてなかった。その気持ちが彼の判断力を曇ら
せた。いや、それ以上にその頃の彼はあまりにも純朴、純粋だったのかもしれない。
彼は知らなかった。
同じ病の娘を持つ領主も、「娘のためなら何でもやる」というこの点においては、彼と
同じだったのだ。
いつも通る使用人用の通用口の前で、彼は一呼吸置く。
こんな時間にここの入口はちゃんと開いているのだろうか?などとちょっとためらった
が、思い切って戸に手をかけると、鍵は開いていてすんなり中に入れた。すると、いきな
り暗闇の中で誰かにつかみかかられ、ろくな抵抗も出来ないまま両手足共に縛り上げられ
てしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!オレはヴィルカルド!ここの使用人だ!泥棒なんかじゃな
い!領主様に言われて来たんだ!本当だ!領主様に聞いてくれれば分かる!だからこの縄
をほどいてくれ…!!」
暗闇に慣れた目で見ると、彼を縛り上げたのは二人の男で、どちらも筋骨たくましい。
彼は領主が警備に雇っている男達なのかと思い誤解を解こうとしたが、男達は全くの無表
情で一言も発せず、彼の言い分を完全に無視した。
まるで初めからこうするのが仕事だとでも言わんばかりに。
それから男達は彼を担ぎ上げると、どこかへと運んで行く。
これは一体どういうことなのか、彼には全く理解できず混乱した。身をよじっても縄は
ほどけないし、男達の手が離されることもない。とりあえず領主に話をしてもらえば助か
る、とそれしか思い浮かばなかった。
「おい、どこへ連れて行くつもりだ!?領主様に取り次いでくれ!オレは何も…ぐっ!!」
しかし訴えた彼はみぞおちに一発くらい、気を失ってしまうのだった。
次に気が付いた時は、やはり暗闇の中だった。手足の戒めは解かれておらず、さらに体
が拘束されている。何か台の上に寝かされているようだ。その台に体を縛り付けられてい
るのだ。
わずかに動く首を回してあたりをうかがうと、その空間は狭くて窓がなく、代わりに天
井近くに空気取りのために開けられた、指が三本通るくらいの細い穴があるだけだった。
空気はかび臭く、湿った匂いと汚物が混じったような匂いがしている。
その部屋に彼は覚えがあった。直接行ったことはないが、罪人を入れておく地下牢に違
いなかった。
自分をこんな所に縛り付けてどうするつもりなのか。途端に彼の中に恐怖がわき上がる。
何も悪いことをした覚えはない。これは領主の命令なのか、他の誰かの仕業なのか。
暑いわけでもないのに、彼の全身から冷たい汗が流れた。
誰か助けてくれ!!
と叫ぼうにも、のどがくっついてふさがってしまったかのように声が出ない。しかし、
もし大声で叫んだとしても誰も来ないだろうということは、頭のすみで充分すぎるほど彼
は悟っていた。ここはそういう場所なのだ。
やがて、どこか遠くの方からカツン、カツンとゆっくりと歩を刻む足音が聞こえてきた。
足音はこの部屋の前で止まり、不快にきしむ音を立ててドアが開けられる。
入って来たのは、領主だった。
領主は彼が寝かされている台の側にやって来た。
「りょ、領主様、これは一体どういうことなのですか!?わたしが何をしたというのでしょ
う!?どうかここから出して下さい!」
彼は必死になって領主に懇願したが、領主の様子がいつもと違っているのに気付いて、
口をつぐんだ。
領主は日頃の娘の心労でやつれており、いつもきちんと後ろになで付けられていたグレ
イの髪も、今は乱れて額にかかっている。誰にでも愛されるいい領主という訳ではなかっ
たが、取り立てて悪い領主という訳でもなかった。けれども、今目の前にいる領主の眼は
狂気に満ちていて、彼をじっと見下ろしていた。
「領主様…?」
恐る恐る彼が呼びかけると、領主はようやく口を開いた。
「お前はよく働く、よい使用人であった。盗みも悪さもしない」
「ならば、なぜわたしをこんな目に…!」
「お前は私の娘の治療を手伝うと言っただろう?」
「は、はい、それは言いましたが…それがどうして…」
「あの子はもはや普通の療法では治らないのだ。私は手を尽くしてどんな病でも治るとい
う方法を探した。そして見つけたのだよ。もうこれしか方法がないのだ」
そう言いながら領主が下ろしていた手を持ち上げると、その手には大刃のナイフが握ら
れているではないか!
「りょ、領主様、まさか…!!」
ようやく彼は自分の運命に気付いたが、もう遅すぎた。この状況ではどうすることもで
きない。
「娘を救うには、健康な生きた心臓が必要なのだ!!」
領主が両手を振り上げる。
「や、やめて下さい!!うわあああ――――っ!!」
そこで彼の記憶は途切れた。
そこからはよく覚えていない。ただ繰り返し思っていたのは、激しい憎悪と小さな悲し
みだけだった。
憎イ!! 憎イ!!
――――ナニガニクイノダ?
全テガ憎イ!! 病モ、金持チモ、貧困モ、オレニコンナ運命ヲ定メタ神モ!コノ世界全
テガ憎イ!!
――――ナラバコワシテシマエバヨイ
ソウダ 何モカモ壊シテシマオウ!
――――ソノチカラヲアタエテヤロウ……
その声に従うことに何の疑問もなかった。残っていたはずの悲しみはもうとっくに強す
ぎる憎しみの中に飲み込まれ、思い出されることはない。
その声がどこから聞こえていたのか、彼にはもうどうでもいいことだった……。
ヴィルカルドは目を開けた。傷はもう全て完治していた。あの時の憎しみはまだそのま
まに、彼は口元を酷薄に歪める。
「そろそろいいだろう…」
人々の痛みを癒すはずの受難者はそうつぶやいた。
準備は整った。
この街を無に帰すために。




