3−1 <受難者>
二人はベーコンエッグとパンとミルクの朝食を終えると、すでに店を開けているベオルに
断ってから、セロットの案内で町に繰り出すことにした。
外はすでに活気にあふれていて、通りにはベオルの薬方屋の他に、鍛冶屋やガラス工房や
食器屋等等…、さまざまな店が軒を連ねている。セロットの説明によると、ここは「職人通
り」と言って道具類のあらゆる店がある通りなのだそうだ。人通りも多く、荷物を抱えた商
人や町人たちが行き交い、雑多な物音でいっぱいだ。
エラムの町は、大きな町だった。周囲を高い壁に囲まれており、中央に噴水のある大きな
広場がある。放射線状にいくつもの通りがあり、広場に通じているのだ。
エルゥとロンドはこんなに大きな町に来たのは久しぶりだった。境界の歪みを見逃さない
よう、あたりに気を配りながら歩いて行く。
いつもならエルゥとロンドはその風体から、周りの人間の注目を集めていたのだが、ここ
には色々な人間がいることに慣れているのか、顔も同じ、服装も似ていて、長い杖を持った
双子には誰もほとんど関心を示さなかった。
「うわー、広いねー!」
ロンドが広場で感嘆の声を上げると、セロットは得意げに言う。
「ここはね、週の始めに大きな市が開かれるのよ!海が近いから、色んな所から人が集まる
の!それはすごいんだから!あんたたちが見たこともないような、珍しい物もあるかもね」
「へえー、すごいね!」
噴水の周りにはベンチが置いてあって、観光で来たらしき人たちが休んでいた。ここに全
ての通りが繋がっているだけあって、色んな人が目指す通りへと進んで行く。中でも、ロン
ドたちの左前方にある通りに人が集まっているようだった。
「あっちは何があるの?」
「あっちは『聖職者通り』よ。神殿とか修道院がある所なの。行ってみる?」
「うん」
町はだいたい四つに区切られて、北東が町長とか議員、裕福な商人たちの居住区、南東が
町の外に畑などを持つ農民の居住区で、宿屋や酒場、食材を扱う店もここにある。南西が職
人や生活用品の店を持つ者たちの区、北西は神殿や学校などがある聖職者が暮らす区となっ
ているのだとセロットが教えてくれた。
聖職者通りは人は多いが、静かだった。どこか厳かな空気が漂っている。
「ここの大神殿は立派だから、観光で来る人は皆立ち寄って行くのよ!ホラ、あれが最高神
ルーと女神ルーシアンの神殿!」
セロットの指差す先には、文字通り大きな神殿が建っていた。門構えからしてたいそう立
派で、エルゥとロンドは呆気に取られて立ちすくんでしまった。
「さ、さすがだね…」
圧倒されたロンドが思わずつぶやく。神殿の豪華さは、信仰の篤さでもある。どんな小さ
な村でもルーとルーシアンの名を聞かないことはなかったが、ここまで大きくて立派な神殿
はそうない。
正面入口の上には、ルーとルーシアンの神紋が大きく浮き彫りにされていた。その下を、
人々が祈りを捧げようと通過して行く。三人もそこを通って中に入った。
中もまたきらびやかで、床は大理石、天井は高く、窓のガラスはどれも色とりどりのステ
ンドグラスだ。柱には見事な彫刻がほどこされ、壁は神話の一場面を描いた絵画や壁画で飾
られていた。祭壇の上には、普通の人の二倍ほどの大きさの像が二体祀られており、右の雄
々しく手を掲げている男性像が光と天空の神ルーで、左で大らかに両手を広げている女性像
がその妻、大地の女神ルーシアンだ。この夫婦神はこうやって一緒に信仰されていることが
多い。この二体の像は、その時代に合わせて最も美しいとされる姿に作り替えられている。
訪れた人は皆この像の前にひざまづき、頭を垂れて祈りを捧げていた。この祈りを神界で
神々が聞くのだ。そしてこの祈りが神の威光に現れる。神は己の役割を果たさないと人々の
心が離れ、やがて忘れられてしまうのだ。
エルゥたちは一通り神殿を見回り、神官に話を聞いたりしたのだが、夫婦神の神話やそれ
ぞれの文献は数多く残されているらしいが、その息子のエルロンディアについては、その存
在、名前の一言すらも残されていなかった。
「くそう、何でなんだよー」
神殿を出てから、エルゥは苛立たしげに言った。それが人々に「忘れられる」ということ
なのだと、痛いほど知るのだった。
次は大学の図書館に行くことになり、その道の途中、治療院が目に入った。
特に変わった所のない治療院だったが、やけに混んでいる。建物の中に入りきらないのか、
道路にまで長い列を作っていた。
「何だ、ここはそんなに病人や怪我人が多いのか?」
エルゥがいぶかしげにセロットに尋ねると、
「ああ、受難者様がいらっしゃってるのよ」
とのことだった。
「ジュナンシャ?」
今度は双子らしくエルゥとロンドが同時に聞き返した。
「そう。何でも徳の高い神官様だそうでね、人に聞いた話だと、痛みを自らが引き受けるこ
とによって、その人を癒すんだって。それがもうすごい効き目で大評判で、こうして皆並ん
でるってワケ。ま、中にはただ悩みを話しに来るだけの人もいるみたいだけど、それでも悩
みがなくなってスッキリするそうよ。もう一週間くらいこの町に滞在してるかな」
「へえ〜、そうなんだ〜」
「ふーん……」
ロンドは感心しきりだが、エルゥはどこか面白くなさそうな表情で聞いていた。
結局一般にも開かれている図書館でもエルロンディアについての収穫が得られないまま、
一行が広場へと通りを歩いていると、急に前の方でわあっと声が上がった。
何だろうと三人は顔を見合わせ、何とか人の間から事の中心を見てみると、大きな体格の
男と、いかにも小ずるそうな痩せた男が向き合っていた。痩せた男は殴られたらしく、左の
ほほに手を当てている。大男はひどく怒っているようだった。誰かが「自警団を呼べ」と言
っていた。
「俺から財布をスろうなんて、運が悪かったな。もう二度とスリなんてできねえようにして
やる!」
大男がぐい、と手を突き出し、痩せ男の右手をつかもうとする。指を折ろうというのだ。
「待てよ、おれじゃない。おれができるわけないだろ?よく見てくれよ」
痩せ男は後ろに逃げながら、哀れっぽい声で言い訳した。しかし大男は聞く耳持たずとい
う感じだ。
「信じられねぇな。だったらどうしてお前の手をつかんだ時、俺の財布を握ってたんだよ?」
痩せ男は一瞬しくじった、とでも言いたげな顔をしたが、すぐに弱者を装う。
「た、たまたまだよ。あんたが財布を落としそうだったのを、たまたま手に取っただけだ。
もちろん、すぐにあんたに言って、返すつもりだったさ…!それをあんたが勘違いしたんだ、
そうだろ?」
「見え透いたウソをつくんじゃねえ!『聖職者通り』で盗みを働くなんて、いい度胸してる
じゃねえか。きっちり天罰を受けやがれ!」
再び大男が痩せ男に近付いて手を伸ばすのを、周りの野次馬たちは気の毒そうな目で見て
いるだけで、止めようとはしなかった。誰かが自警団を呼んだはずなので、彼らが来れば全
て解決するだろうと思っているのかもしれない。
大男がとうとう痩せ男の右手をつかんだ時、セロットの顔がしかめられた。本人が悪いに
しろ、傷つけられるのを間近で見るのは女の子なら当然、苦手なのだろう。
「ねえ、エルゥ」
隣でロンドがつまらなそうに成り行きを見ているエルゥにささやいた。
「何だよ?」
「止めようよ」
「はあ?何で?悪いのはあの痩せ男だろ。自業自得じゃないか。助ける理由なんかない」
「それはそうだけど…、でも、指を折るとかいうのはやりすぎじゃない」
「…おまえなあー…」
お人好しすぎる、と言おうとしたが、その後ろでセロットが訴えるような目で見ているの
に気づいて、しぶしぶうなずいた。
「わーかったよ」
とエルゥが一歩前に出た瞬間、目の前の人垣が二つに割れた。途端にあたりがしん、とな
る。大男と痩せ男すら、動きを止めてそっちを見た。
開いた道から現れたのは、神官らしき男だった。背はそれほど高くない。どちらかといえ
ば痩せ気味の体格で、黒髪を肩で切りそろえ、頭にぴったりとした神官特有の白い帽子をか
ぶっている。質素ともいえる青を基調とした法衣を身にまとい、色白で整った顔には薄い笑
みが浮かべられていた。
こいつが受難者か、とエルゥとロンドは直感した。
神官は大男の側まで来てから、立ち止まった。
「な、何だよ、なんかモンクがあるってのか!?」
大男が言った。多少は神官に対して畏れがあるようだ。
皆が静かに、彼らを見守っていた。
神官は微笑みを絶やさずに、穏やかに告げる。
「その方を許して差し上げて下さい」
「ああ?いくら神官様の頼みでもそれはできねえ相談だな」
大男の怒りはまだ収まっていないのだ。
「ですが、あなたは財布を取り返したのでしょう?ならそれでいいではありませんか」
「あんたは何も解ってねえ。こういうヤツはな、逃がせば何度でも同じことをするんだよ。
だから二度とできねえようにしちまうのが世の中のためなのさ」
「そうだとしても、この神のおわす通りでの乱暴はやめて下さい」
痩せ男は、大男が神官と話しているスキにそっと離れ、急に駆け出した。
「あっ、この野郎!!」
大男が叫んだがもう遅かった。痩せ男は野次馬をかき分け、あっという間に逃げてしまっ
た。誰も後を追おうとか、捕まえようとはしなかった。あんなコソ泥よりも、この受難者と
大男のやり取りの方が皆の興味を引いたのだ。
「あんたのせいだぞ!あんたがヤツを助けたって、ヤツは礼も言わない!そんなヤツをかば
って何になるんだ!?」
「それでもいいのです。これが私の仕事ですから」
「神官様は弱い者の味方ってか!お偉いことで!」
大男の嫌味にも神官は動じない。
「あなたはまだ怒りが収まらないようですね」
「ああ、お偉い神官様のおかげでな!」
「ならば、あの男にやろうとしたことを、私にやりなさい」
「なに?」
大男の目が、いや、その場にいた者全員の目が驚きに見開かれた。
この神官は、あの痩せ男にしようとしたこと、つまり指を折ってもいいと言うのだ。
「あんた本気か?なんでそこまでする?」
「あなたの怒りも最もですし、それで収まるのならばいいのです」
「神官様だからって、手加減はしねえぜ?」
「かまいません。私は受難者。人の痛みを我が身に受けることが、私のなすべきことなので
す」
すっと大男の前に差し出された右手を、大男は一瞬ためらってからつかんだ。それでも受
難者は少しもひるんだ様子を見せない。
そして大男は、ぐっと一気に力を入れた。ゴキ、と鈍くくぐもった音が響き、セロットが
口を押さえて悲鳴をのんだ。他の見物人たちも小さく声をもらし、顔を歪める。確実に受難
者の指二本は折れただろう。しかし、当の受難者はかすかな痛みの声すらも出さず、顔には
微笑を浮かべたままだった。
男が受難者の手を離す。受難者を見つめる大男の表情はどこか苦々しいもので、気が晴れ
たようではない。
「これで満足ですか?」
そう言う受難者の目の奥に何か恐ろしいものを垣間見たような気がして、大男は目をそら
し、
「ああ、もうどうでもいい」
と踵を返してさっさと立ち去ってしまった。
ちょうどそこでやっと自警団がやってきて、それを合図に人々が散り始めた。自警団はト
ラブルの元を確かめようと受難者に何があったか尋ねたが、受難者は「もう丸く収まりまし
た」とにこやかに答えたので、釈然としないものの、そのまま持ち場に戻って行った。
受難者のことを知っている人々は彼を取り囲み、大丈夫かと心配の声をかける。
「受難者様!大丈夫ですか!?」
「受難者様、こちらで休んで下さい!」
セロットも彼の側に行ってみたかったが、あまりの人で近寄れなかった。ちらりと見えた
ところでは、受難者の右手の人差し指と中指は変なふうに曲がっていた。
受難者はやんわりと、皆に自分は平気だから、と言っている。
「私は受難者です。このような傷など、何でもないのです。皆の痛みを引き受けても全てを
癒すことのできる力が、私にはあるのです。皆さんも、怪我や心の痛みを抱えていることは
ありません。私の受難を受ければ、すぐに癒されるでしょう」
そうしてぞろぞろと人を引き連れながら、受難を行っているという治療院の方へと歩いて
行ったが、エルゥとロンドの前を通り過ぎる時、さりげなくこちらを向き、はっきりとエル
ゥを見た。
「…!?」
エルゥも一瞬、厳しい目つきで彼を見返す。
それは偶然エルゥと目が合ったというのではなく、エルゥが何者か解っていて見た、とい
う感じだった。
受難者ご一行の小さくなる後ろ姿を眺めながら、セロットがはあ〜、とため息を吐いた。
「すごいわねえー、あんな人が世の中にいるのね〜」
「ホントだねぇ。他人のためにあそこまでできる人はなかなかいないよ。あーいう人を、神
様の使いって言うのかもしれないね。ね、エルゥ?」
どうやらロンドはさっきの視線に気付かなかったらしい。他人のために自分の身を差し出
すという行為に、すっかり感心してしまっているようだ。
「…ふん、どうだかな。オレは、ヤツの目がちっとも笑ってねーのが気に入らない。おまえ
は気が付かなかったのか?」
「またまたー、考えすぎだよ、エルゥは」
エルゥの不機嫌が自分達よりもよっぽど神の使いらしい人間を見たからだと思っているロ
ンドには、まだ解らなかった。
ロンドはすぐに、受難者の認識を改めることになるのだと。




