プロローグ
そこは楽園だった。
やわらかな光があたりに降り注いでいる。
どこまでも美しい花が咲き乱れ、目にも鮮やかな草原が広がっていた。空気はかぐわし
い香りがし、どこからか安らぐ楽の音が聞こえる。
空は薄い青色をしていて、淡い紫色や薄紅色の儚げな霞のような雲がたなびいていた。
黄金の実をつける銀色の樹々の森からは、風もないのに銀の葉が揺れ、シャラシャラと
心地よい音を奏でていた。
所々に、神殿が建っている。神々が住まう場所だ。
神々は地上を人間に任せ、ここにやってきた。しかし、完全に人との繋がりを切ってし
まった訳ではなかった。
地上の人々の信仰心は神々に力を与え、神は人の祈りを聞き、神託を与え、時には力を
貸したりする。まだ神と人は近いところにあった。
そこは神界と呼ばれ、また天界と呼ばれたりする。
老いも、争いも、飢えも病もなく、満ち足りた場所だった。
一つの神殿で、青年が眠っていた。彼は神であった。
長い黒髪が寝台に流れ、子供のように丸まって眠っている。身にまとった衣は、一見無
地の白銀のように見えるが、光の加減で七色の不思議な光沢を放っていた。
そこに、一人の男が入って来た。彼も神である。
背が高く、青年と同じ衣を着ている。堂々とした体格は威厳にあふれていて、彼自身が
輝いているかのように光に包まれていた。
男は寝台に寝ている青年を見るなり、突然
「起きんか、エルロンディア!!」
と、ものすごい声で怒鳴った。
「んあ?なっ、なんだ!?」
驚いて青年、エルロンディアが飛び起きる。顔を上げると、光る長身の男と目が合った。
「・・・なんだよ、オヤジ・・・。いきなり怒鳴るなよ、ビックリするじゃんか」
エルロンディアは不機嫌そうに頭をかきながら言った。
しかし、それ以上に父と呼ばれた男の方が機嫌が悪そうだということに、彼は気付いて
いなかった。
この二人は、親子といってもほとんど似てはいない。
父は天空と光を司る神ルーという。他の神々を統率する最高神だ。
豊かな金髪をなびかせ、切れ長の目は澄んだ青。彫りが深く通った鼻筋に、意志の強さ
を表すようにきりりと引き締まった口元。すっきりと整った顔立ちだ。額には彼を表す、
空と光を象徴した模様、神紋があった。
父といっても、外見的にはエルロンディアより十ほど年上に見えるくらいだ。
一方息子のエルロンディアは、魔物や悪霊を退けるための神であった。
父とは全く違う黒髪に、青灰色の瞳、中性的で綺麗な面差しは母、大地の女神ルーシア
ンによく似ていた。彼の額にも、二つの目を合わせたような神紋がある。
父神ルーは苦々しく眉根を寄せ、寝台にあぐらをかいている息子を見下ろしている。
「おまえはまだ自分の置かれた立場が解ってないようだな?」
その声は抑えられていたが、怒りがにじみ出ているのがエルロンディアにも分かった。
ルーは怒っている。とにかく怒っている。
「?なんでそんなに怒ってんだよ?」
とぼけているのか鈍いのか、エルロンディアは不思議そうに聞き返した。
ルーは再び怒鳴りそうになるのをこらえ、根気よく息子に問う。
「おまえはよもや、自分の役目を忘れた訳ではあるまいな?」
「なんだよ、そんなことで怒ってんのかよ。・・・にしてもオヤジ、なんか光強くなった
んじゃね?」
とエルロンディアはまぶしさに目をこすった。実際、父の発する光で目を細めなければ
姿を見ていられない。
ルーは怒りを抑えきれなかった。
「当たり前だ!わたしはあまねく人々に信仰されている!それに引きかえおまえはどうだ!
『そんなこと』だと!?『そんなこと』すらしっかりやらないから、自分の身体を見てみ
ろ!威光がすっかり失われているではないか!!」
「えっ・・・、ええ!?」
ビシッとルーに指をさされ、エルロンディアはあわてて自分の身体を見回した。
腕を上げたり背中を見たり、どこを見ても変わりはしないのだが、彼は愕然とし、やっ
と理解した。
「ほ、本当だ!オレの威光がなくなってる!!」
威光とは、人間の信仰の証である。それが光となって表れる。ルーが光の神だから光っ
ているのではなく、神はみな、信仰されていれば光っているのだ。
しかし今、エルロンディアは光っていない。威光がない。それはつまり、誰からも信仰
されていないということだった。
「なんだよもー!ちょっと寝てただけだろー!?」
自分の怠慢を棚に上げ文句を言うエルロンディア。
「それだけではあるまい。わたしの所には数々の魔物や異形の生物による被害の訴えが来
ておるぞ。もう前から役目をほったらかしていたな?人々はおまえにすがっても無駄だと
思い、おまえに祈るのを止めたのだ!その間におまえは忘れられてしまったのだぞ!?」
「う」
父は容赦なく追い討ちをかけ、図星を差されたエルロンディアは言葉に詰まった。
ルーの言葉がどれだけ重大なことかエルロンディアにも充分解っていたが、まだ言い訳
をしようと試みる。
「だ、だってさ、いくら魔物退治しよーが邪気を封じ込めよーが、なくならないんだよ!
オレががんばったって、人間が争ったりだの憎んだりだのして負の感情を溜めれば、同じ
ことの繰り返しだ!もう地上に人間なんかいらないよ!あいつらがいなければオレの仕事
も楽になるし、地上もキレイなままでいいじゃんか!」
「・・・そうか・・・。おまえには解らないのだな。人間と共にいたことがないから・・・」
エルロンディアの言い訳を聞いたルーは、ふっと怒りを解き、どこか懐かしむような、
悲しげな表情をした。
エルロンディアは父のそんな顔を見たのは初めてだったので、自分が何かいけないこと
を言ってしまったような気がして、ドキリとする。
「人間は、我々神が創った、というのは知っているな?」
最高神の威厳を湛えて、ルーは尋ねた。
エルロンディアは黙ってうなずいた。
彼は人間が創られてからだいぶ後になって生まれた神なので、天地創造や人間創造には
携わっていなかったが、それは人間の間に伝えられる神話の通りである。
「その頃は我々神も人間がここまで誘惑に弱く、欲望を求めるものになるとは思っていな
かった。確かに人間は自分勝手で、醜いところもある。しかし、それだけではないのだよ。
限りある命の中で、気高く生きている者もいるのだ。その生の営みは美しい。そして、人
に信仰を受けるということは、我ら神にとっては無上の喜びなのだよ。」
それが未だに人間を地上に置いておく理由だというのか。
エルロンディアはうつむく。
父の言うことは解るが、それを素直に受け入れられるほど、彼は人間を知らなかった。
「そんなこと言われても・・・、オレには解らないよ・・・・・・」
「しかし、そのままでいるわけにもいくまい」
エルロンディアははっとした。
そうだった。自分は今威光がないのだ。威光を失った神の行く先は一つ。そんなことは
いくらエルロンディアが怠け者でも知っている。
闇黒界だ。
闇黒界はこの楽園とは正反対の場所で、完全なる暗闇と悪意しかない。
威光を失って人々に忘れられた神は、やがて憎しみに蝕まれ闇黒界へと堕ちる。そして
常に人間を憎み、陥れようとする悪神に成り果てるのだ。
闇黒界と地上世界は接していて、人間の負の感情は闇黒界と繋がりやすい。境界が歪み
薄くなると闇黒界からの邪気が漏れ出し、人や動物に悪影響を与えるのだ。もし境界に穴
が開いてしまったら、そこから悪神が出てくることもあるだろう。
エルロンディアの役目とは、この境界を監視し、歪みを修復することだった。時には、
邪気により発生してしまった魔物などを退治することもある。
とにかく、このままではまずい。今のうちに何とかしなければ、確実に闇黒界行き決定だ。
自ら闇黒界に堕ちるなんて絶対にごめんだ、とエルロンディアは思った。考えるだけで
ゾッとする。
「分かった、オヤジ!オレは今からマジメになる!」
決意も新たに力いっぱい宣言するエルロンディアに、父ルーは首を振った。
「だめだ。それだけでは、人間を快く思っていないおまえは、また役目を投げ出すだろう。
おまえは一度、ちゃんと人間を知る必要がある」
「・・・って、どうやって?」
「簡単なことだ。人間と触れ合ってみればよい」
「それって・・・、まさか・・・!」
ルーはにっこりと笑った。
エルロンディアの全身に嫌な予感が突き抜ける。
父は有無を言わせぬ口調で宣告した。
「地上に降りて、直接境界の歪みを直して来い!!」
「えーーーーーーっっっ!!!」
驚きのあまり、エルロンディアは寝台から落っこちた。その姿勢のままルーを見上げる。
ルーはにこやかな笑みのまま、一歩一歩エルロンディアに近づいて来る。
「や、イヤだよ、それだけはカンベンしてくれよ・・・!!ここからでもできるからさ・・・!」
エルロンディアはじりじりと後ずさった。父の微笑がこんなに恐ろしく見えたことはない。
「直接行った方がよく分かろう」
「これからはちゃんとやるから!!絶対サボったりしない!!だいたい、威光がなくなっ
たとはいえ、仮にも神のオレが地上に行ったら、大変だろ?」
「大丈夫だ。父がちゃんと計らってやる」
もう何を言っても無駄のようだった。
すうっとルーの右手が上がる。
「イヤだってば!!待ってって!!頼むよ、オヤジ・・・!!」
ルーはエルロンディアの懇願をことごとく無視した。
「よいな、境界の歪みを全て修復し、おまえを信仰する人間を見つけるまで帰ることは許
さん!!わたしはいつでも見ているからな!!」
「そんな!!」
ルーの上げた指先がまぶしく光った。その強烈な光がエルロンディアを照らす。
「うっ・・・、わあああああーーーーー!!!」




