中
「泣いていますの?」
妻の差し出すハンカチを受け取り、私は目尻にたまる涙を拭いた。
「早いものだと思ってね」
「そうですね。もう娘が生まれて二十三年になります」
ウエディングドレス姿の娘が、今、花婿と並んで座っている。二人は次々と祝福に訪れる友人たちにむかって、にこやかな笑顔で応えている。
「キミと結婚してからは二十五年か。私たちも二十五年前はああやってあそこに座っていたんだよな」
娘の結婚式。披露宴会場の末席から望む二人の姿に、私はなんとも言えない時の流れを感じていた。
「二十五年ですか……。あなたが私のバーにお客様として訪れてから、もうそんなに経つのですね」
妻の言葉にその馴れ初めを思い出す。そう、妻はバー「壺中天」の女主人で、私はその常連客だった。
「今、思い返しても、キミがこうして私の横に座っているのが、夢のように思えるよ」
「あなたがとてもご熱心でしたから」
妻がにこりと笑う。出会ったときから変わらない、あの謎めいた透明感のある魅力的な笑顔で。
「それはキミの魅力がそうさせた」
「変わりませんね、そういうセリフは」
「キミの魅力と同じにね」
二人で笑った。しかし、それは事実だった。妻はもう五十を過ぎたとは思えないほど美しかった。当然シワは増えているし、肌のつやも衰えている。それでも妻の持つ独特の雰囲気は変わらず私を魅了し続けていた。
「キミと出会えてなかったら、こんな幸福な人生なんて送れなかった」
キャンドルサービスの時間になった。照明が落ち、娘夫婦がキャンドルを手に賓席をまわる。私はその暗闇に紛れて、妻に感謝の言葉を述べた。
この二十五年、順風満帆の人生だった。妻と出会った頃から仕事もうまく動き出し、今では会社の役員にまでなった。家に帰れば美しい妻に、かわいい娘。明るい家族の風景が私の心を常に満たしていた。その娘も私と同じようにこうして幸せな出会いをし、また新しい家族を作ろうとしている。私は幸せだった。その感慨が私にこの感謝の言葉を述べさせた。
「まだ、先は長いですよ」
妻がそっと私の手に触れる。その手の温度に私は妻の手を握り返した。
「あら、ラブラブじゃない」
娘が私のテーブルにキャンドルを灯しに来た。手を握り合う私たち夫婦を見て娘が笑う。
「私たちも負けていられないわね」
そう言って娘は新郎に腕を寄せる。私が照れて顔をかくと、新郎も同じように顔をかく。それを見た妻が口元を押さえて笑った。
「やあ、金谷さん。おめでとうございます」
娘夫婦が別のテーブルへ移動すると、入れ替わるように隣席から新郎の父親が訪ねてきた。
「さ、一杯」
「ありがとうございます」
ワインを注いでもらいながら頭を下げる。新郎の父親は少し小太りで、太い眉毛に大きな丸い目が印象的な男であった。
「仲のよいご様子で、うらやましい限りです。私の妻とは大違いだ」
そう言って大きな声で笑う。先ほどの娘とのやり取りを見られていたらしい。私はワインを飲みながら内心に苦笑する。
「しかしお美しい奥さまだ。どちらでお口説きになられたのです?」
新郎の父親は近くの空いたイスを引いてきて、私の横に座った。少し無遠慮な態度に話題かとも思ったが、祝いの席であるし私も少し酒が回っていたので、特に気にせず私はその話題に応じた。
「妻は昔、バーを経営していまして。そのバーの女主人と客です。だいぶ足繁く通いました」
「ほう、それは。ではだいぶお熱い言葉でお迫りになられたのでしょう?」
ワインを手酌でグラスに注ぎながら、彼はその丸い目をくりくりと動かして私に訊いた。そう問われて、私は妻との馴れ初めをひとつずつ思い返していく。
「いえ、確かに好意は示していましたが、恥ずかしながら最後には妻の方から……」
「こんな美しい奥さまから! 果報者とはこのことですね。どういったご経緯で」
彼の大仰な驚きぶりに苦笑いを浮かべながらうなずいた。確かに妻に好意を抱いて私は店に通いつめたが、ある日をきっかけに妻の方から私を誘い、それからすぐに私たちは結ばれたのであった。
「ははは……。そうですね、今、思い返せば……あのときだ。ほら、キミが私にカクテルをおごってくれた夜。確か“壺中天”という名前のカクテルを飲ませてくれた夜。その日、私が酔いつぶれてしまって、それをキミが介抱してくれたときから、私たちは……」
記憶を確認するように妻の方を振りむこうとしたとき、私の耳にすべての音が聞こえなくなった。
「……え?」
食器の鳴る音、人の歩く音、場内に流れる音楽、そして人の話す声。なにも聞こえなくなった空間は、時間の止まったように完全な静寂に包まれていた。いや、「時間の止まったよう」ではない。止まっていた。目の前にいる新郎の父親が、ワインを飲む姿勢のままで止まっていた。傾いたグラスのワインはこぼれない。口に流す傾きのまま、ワインの流れも止まっているのだ。
どういうことだ。困惑が混乱に変わる。すべてが止まっていた。腕時計の秒針も動いていない。場内のすべての人が、物が停止していた。時間という概念そのものが失われたような空間に、私だけがただ一人取り残されて、その光景を見ているのだ。
恐怖が足元から震えとなって立ち上ってくる。そのときだ。その声が天井から聞こえてきたのだ。
「……さん。金谷さん……」
私を呼ぶ声。その声を私は知っていた。
「……金谷さん……金谷さん……」
妻の声だ。けれど妻は私の隣にいるはずだ。なのにこの声は天井から聞こえてくる。
私は恐る恐る天井を見上げた。
「金谷さん」
天井に円い穴があった。青白い光の差し込む、大きな円い穴。十メートルはあろうかという、とても大きな穴。その穴に顔があった。二つの顔。私はその顔を両方とも知っていた。
「私だ……」
穴を覆うように私の顔があった。それも若い、二十年以上前の私の顔がそこにあった。青白い光を影に、目をつぶって眠る私の顔が。そしてその私を揺り動かす人の手ともうひとつの顔が、その穴から見えた。
「妻だ……」
私と同じように若い、私と出会った頃の妻の姿が。バーテンダーの服を着た、あの頃の妻の姿がそこにあった。彼女が穴のむこうで首をうなだれて眠る私を起こそうと、声をかけているのだ。
「なんだ……」
理解ができなかった。できるわけがなかった。
「なんなんだ、これは!」
叫ぶしかなかった。こんな意味不明な、井戸の底から空を見るような光景、壺の中から外を見るような光景……。
「……壺……」
そのイメージは直感のように私の頭の中で渦を巻いた。それは戦慄となって、私の背筋を走り抜けた。
壺。壺だ。そうだ壺なのだ。
私は気づいてしまった。この夢のような光景がなんであるか。しかしそれは私には認められなかった。いや、認めたくなかった。なぜって、それを認めてしまったら、私は……。
「話してしまいましたね」
隣から妻の声。私の愛する妻の声。私が過ちを犯したときに聞く、静かに私を諭す妻の声。
私は隣に座っているはずの妻に振りむくことができなかった。怖かったのだ。もし振りむいてしまったら、きっと私は、私は……。
「そろそろ目を覚ましますね」
残酷に告げられたその言葉とともに、穴のむこうの私がゆっくりと目を開ける。
「私は……」
その瞳に私の顔が映った。