表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
壺中天  作者: ラーさん
2/3

「泣いていますの?」


 妻の差し出すハンカチを受け取り、私は目尻にたまる涙を拭いた。


「早いものだと思ってね」


「そうですね。もう娘が生まれて二十三年になります」


 ウエディングドレス姿の娘が、今、花婿と並んで座っている。二人は次々と祝福に訪れる友人たちにむかって、にこやかな笑顔で応えている。


「キミと結婚してからは二十五年か。私たちも二十五年前はああやってあそこに座っていたんだよな」


 娘の結婚式。披露宴会場の末席から望む二人の姿に、私はなんとも言えない時の流れを感じていた。


「二十五年ですか……。あなたが私のバーにお客様として訪れてから、もうそんなに経つのですね」


 妻の言葉にその馴れ初めを思い出す。そう、妻はバー「壺中天」の女主人で、私はその常連客だった。


「今、思い返しても、キミがこうして私の横に座っているのが、夢のように思えるよ」


「あなたがとてもご熱心でしたから」


 妻がにこりと笑う。出会ったときから変わらない、あの謎めいた透明感のある魅力的な笑顔で。


「それはキミの魅力がそうさせた」


「変わりませんね、そういうセリフは」


「キミの魅力と同じにね」


 二人で笑った。しかし、それは事実だった。妻はもう五十を過ぎたとは思えないほど美しかった。当然シワは増えているし、肌のつやも衰えている。それでも妻の持つ独特の雰囲気は変わらず私を魅了し続けていた。


「キミと出会えてなかったら、こんな幸福な人生なんて送れなかった」


 キャンドルサービスの時間になった。照明が落ち、娘夫婦がキャンドルを手に賓席をまわる。私はその暗闇に紛れて、妻に感謝の言葉を述べた。

 この二十五年、順風満帆の人生だった。妻と出会った頃から仕事もうまく動き出し、今では会社の役員にまでなった。家に帰れば美しい妻に、かわいい娘。明るい家族の風景が私の心を常に満たしていた。その娘も私と同じようにこうして幸せな出会いをし、また新しい家族を作ろうとしている。私は幸せだった。その感慨が私にこの感謝の言葉を述べさせた。


「まだ、先は長いですよ」


 妻がそっと私の手に触れる。その手の温度に私は妻の手を握り返した。


「あら、ラブラブじゃない」


 娘が私のテーブルにキャンドルを灯しに来た。手を握り合う私たち夫婦を見て娘が笑う。


「私たちも負けていられないわね」


 そう言って娘は新郎に腕を寄せる。私が照れて顔をかくと、新郎も同じように顔をかく。それを見た妻が口元を押さえて笑った。


「やあ、金谷さん。おめでとうございます」


 娘夫婦が別のテーブルへ移動すると、入れ替わるように隣席から新郎の父親が訪ねてきた。


「さ、一杯」


「ありがとうございます」


 ワインを注いでもらいながら頭を下げる。新郎の父親は少し小太りで、太い眉毛に大きな丸い目が印象的な男であった。


「仲のよいご様子で、うらやましい限りです。私の妻とは大違いだ」


 そう言って大きな声で笑う。先ほどの娘とのやり取りを見られていたらしい。私はワインを飲みながら内心に苦笑する。


「しかしお美しい奥さまだ。どちらでお口説きになられたのです?」


 新郎の父親は近くの空いたイスを引いてきて、私の横に座った。少し無遠慮な態度に話題かとも思ったが、祝いの席であるし私も少し酒が回っていたので、特に気にせず私はその話題に応じた。


「妻は昔、バーを経営していまして。そのバーの女主人と客です。だいぶ足繁く通いました」


「ほう、それは。ではだいぶお熱い言葉でお迫りになられたのでしょう?」


 ワインを手酌でグラスに注ぎながら、彼はその丸い目をくりくりと動かして私に訊いた。そう問われて、私は妻との馴れ初めをひとつずつ思い返していく。


「いえ、確かに好意は示していましたが、恥ずかしながら最後には妻の方から……」


「こんな美しい奥さまから! 果報者とはこのことですね。どういったご経緯で」


 彼の大仰な驚きぶりに苦笑いを浮かべながらうなずいた。確かに妻に好意を抱いて私は店に通いつめたが、ある日をきっかけに妻の方から私を誘い、それからすぐに私たちは結ばれたのであった。


「ははは……。そうですね、今、思い返せば……あのときだ。ほら、キミが私にカクテルをおごってくれた夜。確か“壺中天”という名前のカクテルを飲ませてくれた夜。その日、私が酔いつぶれてしまって、それをキミが介抱してくれたときから、私たちは……」


 記憶を確認するように妻の方を振りむこうとしたとき、私の耳にすべての音が聞こえなくなった。


「……え?」


 食器の鳴る音、人の歩く音、場内に流れる音楽、そして人の話す声。なにも聞こえなくなった空間は、時間の止まったように完全な静寂に包まれていた。いや、「時間の止まったよう」ではない。止まっていた。目の前にいる新郎の父親が、ワインを飲む姿勢のままで止まっていた。傾いたグラスのワインはこぼれない。口に流す傾きのまま、ワインの流れも止まっているのだ。

 どういうことだ。困惑が混乱に変わる。すべてが止まっていた。腕時計の秒針も動いていない。場内のすべての人が、物が停止していた。時間という概念そのものが失われたような空間に、私だけがただ一人取り残されて、その光景を見ているのだ。

 恐怖が足元から震えとなって立ち上ってくる。そのときだ。その声が天井から聞こえてきたのだ。


「……さん。金谷さん……」


 私を呼ぶ声。その声を私は知っていた。


「……金谷さん……金谷さん……」


 妻の声だ。けれど妻は私の隣にいるはずだ。なのにこの声は天井から聞こえてくる。

 私は恐る恐る天井を見上げた。


「金谷さん」


 天井に円い穴があった。青白い光の差し込む、大きな円い穴。十メートルはあろうかという、とても大きな穴。その穴に顔があった。二つの顔。私はその顔を両方とも知っていた。


「私だ……」


 穴を覆うように私の顔があった。それも若い、二十年以上前の私の顔がそこにあった。青白い光を影に、目をつぶって眠る私の顔が。そしてその私を揺り動かす人の手ともうひとつの顔が、その穴から見えた。


「妻だ……」


 私と同じように若い、私と出会った頃の妻の姿が。バーテンダーの服を着た、あの頃の妻の姿がそこにあった。彼女が穴のむこうで首をうなだれて眠る私を起こそうと、声をかけているのだ。


「なんだ……」


 理解ができなかった。できるわけがなかった。


「なんなんだ、これは!」


 叫ぶしかなかった。こんな意味不明な、井戸の底から空を見るような光景、壺の中から外を見るような光景……。


「……壺……」


 そのイメージは直感のように私の頭の中で渦を巻いた。それは戦慄となって、私の背筋を走り抜けた。

 壺。壺だ。そうだ壺なのだ。

 私は気づいてしまった。この夢のような光景がなんであるか。しかしそれは私には認められなかった。いや、認めたくなかった。なぜって、それを認めてしまったら、私は……。


「話してしまいましたね」


 隣から妻の声。私の愛する妻の声。私が過ちを犯したときに聞く、静かに私を諭す妻の声。

 私は隣に座っているはずの妻に振りむくことができなかった。怖かったのだ。もし振りむいてしまったら、きっと私は、私は……。


「そろそろ目を覚ましますね」


 残酷に告げられたその言葉とともに、穴のむこうの私がゆっくりと目を開ける。


「私は……」


 その瞳に私の顔が映った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ