上
費長房は汝南の人なり。曾て市掾たり。市中に老翁ありて薬を売る。肆頭に一壺を懸け、市の罷むに及びて、輒ち跳びて壺中に入る。市人これを見る莫し。唯だ長房のみ楼上にてこれを覩る。異ならんや。因りて往きて再拝し酒脯を奉ず。翁、長房の意は其の神ならんと知るや、これに謂いて曰く「子、明日更めて来るべし」と。長房、旦日に復た翁に詣す。翁乃ち倶に壺中に入る。唯だ玉堂の厳麗なるを、旨酒甘肴の其の中に盈衍なるを見る。共に飲みて畢はりて出る。翁、約して人とこれを言ふを聴さず。
※「市掾」市の役人
「肆頭」店先
「酒脯」酒と干し肉
「神」 神仙。仙人のこと
「盈衍」満ち溢れるさま
※文章参照 『後漢書』「方術列伝」より
※画像参照 東海林辰三郎『支那仙人列伝』(明治四十四年刊行)「費長房」より
壺中天という話がある。
中国の後漢の頃、市場の役人である費長房という男が壺の中に入っていく老人の姿を見た。この老人が仙人ではないかと思った費長房は、後日老人に頼み込み壺の中へと入れてもらうと、そこにはこの世とは別天地のような楽園が広がっていた。この話から、壺中天という言葉に「別天地」という意味が生まれたという。
「だからこのお店の名前は『壺中天』だって言うのかい?」
「ここがお客さまにとっての『壺中天』になればと、毎日思いながらお店に立っていますわ」
カウンター席に差し向かいで立つこのバーの女主人は、グラスを拭きながらにっこりと微笑んだ。私は彼女を見上げるように少し身体を前に出して、その顔を指差す。
「店長みたいな美人がいるなら、ここはもう私の『壺中天』さ」
「あら、お上手ですこと」
仕事帰りにふらりと立ち寄ったこのバーに、私が足繁く通うようになったのはそれが理由だった。
彼女は美人だった。それも普通の美人ではない。それは白シャツに黒ベストという、あまり女性が着る姿を目にしないバーテンダーの服装をしていることもあるだろう。しかしそれ以上に、彼女のその凛とした白い肌が、月のように冴えざえと光るこの青白い店内の照明に照らされている姿を見ていると、「なにを気取って」と笑う向きもあるかと思うが、私の目にはまるで一夜に咲き枯れてしまう月下美人の花が、人の象をとってこの世に姿を現したかのような神秘的なものに映るのだった。
特に彼女の魅力はその表情だった。常に涼しげなまなざしを浮かべる切れ長の目元。絶えず薄い微笑を湛える薄紅色のふくよかな唇。その表情はいわゆるアルカイックスマイルと呼ぶべきものなのだろうか。ギリシャ彫刻の女神像が見せるようなその微笑は、どこか謎めいた印象を与え、私の心をひどく惹き付けて止まなかった。
「金谷さんはお上手ですから、そう言って他人に気を持たせてしまうんでしょう。罪な人ですね」
彼女はグラスを拭く手を止めて、その魅力的な微笑で私をたしなめる。しかし私は手に持ったカクテルグラスを軽く傾けて首を横に振った。
「いやいや、私はお世辞が苦手なんだ。だから出世とはずっと無縁で、いつも一、二杯のカクテルしか頼めない。店長には悪い話だよ」
「また、お上手なこと」
私の冗談に彼女がくすりと笑みをこぼす。そのやわらかな微笑みを見ながら酒を飲むことが、この店での私の楽しみだった。
「――しかし、壺中天とは不思議な話だね。それで壺の中に入ったその男はどうなったんだい?」
カクテルグラスを置こうとしたとき、手の影にコースターに描かれた店名のロゴが見えた。私は先ほど聞いた壺中天の話を思い返し、その続きを促した。
「楽園で遊んで、帰ってきたあと老人に口止めをされました」
「へえ、それで喋っちゃったんだ」
なるほど、よくある話である。何かを得る代わりに禁忌を与えられ、最後にその禁忌を破り罰を受ける。教訓譚としてありそうな話である。
「いいえ」
しかし彼女は首を振る。
「おいおい。それじゃあオチがつかないじゃないか。普通は鶴の恩返しみたいに約束を破った報いを受けるもんじゃないのかい?」
喋るなと言われ、最後まで喋りませんでしたでは話にならない。私の呆れた顔に彼女は例の微笑で答える。
「オチのない話というのもあるのですね」
そういうものなのだろうか。よくそんな話が故事成語として残ったものだ。彼女は私の釈然としない表情を見ながら笑うと、シェイカーを取り出し、カクテルを作り始めた。
「でも不思議だと思いませんか? 男は口止めをされました。ではどうして、この話を私たちは知っているのでしょう?」
シェイカーにリキュールを入れながら彼女が聞く。そう言われると疑問である。誰にも話さなかったらこの話が後世に伝えられることもなく、ここでこうして酒の席の話題になるようなこともなかったはずである。
「じゃあ、やっぱり喋ったんだ」
「ですが男が約束を破った報いを受けたという話は伝えられていません。ということは喋ること自体は問題ではなかったということになります」
そこまで考えると確かに不思議だった。私が疑問に沈黙すると、彼女がシェイカーを振り出す。
「ではどうして老人は口止めなどしたのでしょう?」
答えられない疑問である。他人に話してはいけないが、話してしまっても構わない。まるで禅問答のようである。カクテルグラスを揺らしつつ首をひねっている間に、彼女のシェイカーを振る手が止まった。
「ここに特別なカクテルがあります」
彼女はそう言ってグラス棚からお猪口ほどの大きさの小壺を取り出すと、その中にシェイカーの中身を注いだ。金色の液体が小壺の中へと一筋の線となって流れていく。
「名前は“壺中天”。金谷さんには毎晩お越しいただいているので、これは私からのささやかなお礼です」
彼女が小壺を私の前に差し出す。青白い店内の照明の光に、小壺の中の液体が月を浮かべる小波のようにきらりと揺れた。
「なにか不思議な匂いだね」
手にとって鼻先で揺らすと、バニラに似た甘い匂いが鼻腔をくすぐった。けれどその匂いは決して甘いだけでなく、その下にどこかミントのような、鼻から頭へとすっと抜けていく清涼な香りを忍ばせていた。なにか人の脳を直接に刺激するような、今までに嗅いだことのないなんとも不思議な匂いだった。
「特別ですから。お飲みいただければその名の通り、別天地のような心持ちにさせてくれるカクテルですわ」
「それはまた強烈そうなカクテルだね」
ウオッカやテキーラでもベースにしているのだろうか? なるほど、そういう意味でも“壺中天”と呼べるだろう。私が笑うと、彼女と目があった。彼女の目が私の目をのぞく。あの例の謎めいた微笑で私の目をじっと。私は少し自分の頬が赤くなるのを感じた。
「えっと……、いいのかい、いただいて?」
照れ隠しに小壺に目を戻して訊ねた。彼女がうなずく。
「ええ。……ただし」
そう言って彼女は口元に人差し指を立てる。
「このことは他の人には秘密です」
私は破顔した。彼女がなぜ今夜、“壺中天”の話を始めたのか理解したからだ。
「ああ、もちろん秘密だ」
小壺に口をつける。舌に触れた酒はやわらかくその上を流れ、口に甘い香りを残しながら喉の奥へと落ちていった。