せんりがん
「おばあちゃんは、千里眼だからね」
これが祖母の口ぐせだった。
僕が少年時代に住んでいた家は二世帯住宅で、建物は戦前に建てられたという恐ろしく年季の入った木造建築。祖母はその家に宿る精霊か何かの様にいつもひっそりと佇んでいた。祖父は物心つく前に既に他界していて、全くと言って良い程姿形を思い出すことはできない。
そして私は大変なおばあちゃん子だった。父も母も仕事で遠くの街まで通っていた為、朝はまだ日も昇らない内から家を出て、夜私がとうに眠りに就いた後に帰宅するというのが常だった。そのため、兄弟もいない私は自然と祖母と一緒にいる時間が長くなっていった。
「ただいまあっ!!」
建つけの悪い引き戸を力一杯開いた昌平が、ランドセルを放り投げ、靴を脱ぐのももどかしそうに階段を駆け上がる。小学校から家までは歩いて30分程だった。その距離を駆け抜けて来た昌平にさして疲れの色は見えない。それは若いからというのもあるだろうが、単純に慣れてしまったのだと思う。小学校に同年代の生徒は数える程しかいなかったし、その少年達も遠くから小学校に通っていて、昌平とは家が遠く離れていた。その友人達と遊んだ事も、また、数える程しかない。皆授業が終わると散り散りになり、三々五々家路についた。昌平も例に漏れず授業が終わるやいなや帰宅していたが、昌平には家に帰っても楽しみがあった。
昌平が階段を昇り終える頃には既に部屋の前に祖母がいて、昌平を満面の笑みで迎えた。
「お帰り、昌坊」
祖母はいつも淡い茶色の着物を身に着けている。この服装は毎日変わることがないが、けして不衛生という訳でもない。体からは仄かな香水の匂いこそすれ、汗臭い匂いなど微塵もしないし、着物も黒ずんだり汚れたり皺がついたりすらせず、綺麗である。それとは対照的に顔や体には深い皺や染みが刻まれていた。
「ばーちゃん、ただいまー!でも、なんでぼくがかえってきたってわかったの?」
すると祖母はただでさえ皺の多い顔を更に皺だらけにして言う。
「おばあちゃんは、千里眼だからね。昌坊が、玄関の扉に手をかける前から、もう帰ってきたのがわかっていたよ」
みるみるうちに昌平の目に、少年らしい好奇心旺盛の輝きが増していく。
「やっぱすっげーや!ばーちゃんのせんりがんは」
手放しで喜ぶ昌平を優しい目で見ながら、しかし祖母の笑みには力がない。それでも昌平の肩に手を乗せ、何処か遠くを見るような眼をして言葉を紡ぐ。
「戸棚の中におやつがあるよ。今日は大福みたいだねえ」
「それもせんりがん?」
昌平が心底嬉しそうな顔で祖母の目を見たが今度は軽く微笑み頷いたのみで、肩に乗せた手に多少力をこめておやつのある居間へと先を促した。昌平は満面の笑みで先程凄い速さで駆け上がったばかりの階段を楽しそうに降りて行く。長い年月を経た木製の階段は弾むような昌平の足取りに、少しだけ悲鳴をあげた。
家の周りは一面緑に囲まれていた。他の民家を見るためには道ならぬ道を2、30分は悠に歩かなければならない。コンビニやスーパーに行こうとするなら車を一時間以上は走らせなければならず、その家はまるで海の外れにぽつんと浮かぶ無人島のようだった。
人が訪ねてくる事は滅多に無く、時間は驚く程にゆっくりと流れていた。
「ばあちゃん、外行こうよ〜!」
大福の白い粉とあんこを口の周りにいっぱいつけたままで昌平が言う。
「おやまあ、お口の周りをあんこだらけにして・・・。こんなお顔で外に出たら、皆に笑われてしまうよ」
「誰もいないよ!人なんて」
一応言葉を返してはいるが昌平も少し投げやりな感じだった。祖母は苦笑いしながらおしぼりで昌平の口の周りを丹念に拭う。体を抑えつけられて身動きの取れない昌平は手足をじたばたさせてどうにか逃れようとしたが、結局逃れられたのは口の周りが綺麗になった後だった。少し悔しそうな顔をしつつも昌平はまた大声を張り上げる。
「はやくはやく!!いこーよー!」
しかし祖母の顔は渋い。
「でも、今日はこれから雨が降るわよ。今からお外に行ってもすぐ帰って来る事になるだろうから、今日はお家の中で遊ぶことにしようね」
空は抜ける様に蒼く、9月に入ったというのに真夏のような暑さだった。当然の如く昌平はただでさえ大きな目をより一層大きく、まんまるくする。
「ばあちゃん、なに言ってんのさ!だって、お外はあんなに明るいよ?」
流し台の上にある小窓を指差して昌平が言う。半分ぐらい開いたその小窓からは差しこむ日の光と、木々の合間に太陽を感じることができた。
「そうだね、今はね。・・・でも、しばらくしたら雨が来るよ。見ててごらん」
祖母は不適とも取れる態度で一種異様な笑みを浮かべた。昌平にはもちろん祖母がただ微笑みかけているようにしか見えないが。
結局言いくるめられたような感じでその日は居間でトランプをして遊ぶ事になった。始めの内は名残惜しいという思いと、祖母の言葉に半信半疑で昌平は外をちらちらと見ていたが、次第にババ抜きに夢中になっていき、そんなことはどうでもいいことになってしまったようだった。
祖母はゲームに集中する素振りを見せながら、そんな昌平の様子を興味深そうに観察していた。
「はい、おばあちゃんがあがりだよ」
「あ〜!!くっそ〜・・・」
2勝2敗で並んでいたのにこのあがりで祖母にまた一勝差をつけられ、昌平は心底悔しそうに持っていたトランプを放り投げた。そのトランプ達が重力に負けて地面に身を触れさせた瞬間、雷の爆音が薄い壁を通して家の中にも鳴り響いた。
「うわわわわ」
普段は虚勢を張っている昌平も慣れない雷の音に驚き、慌てて祖母の体にすがりつく。そして雷の余韻が覚めやらぬ中、外では気付けば大粒の雨が降り出していた。
「ほらね、降り出した」
昌平を抱き抱えてその頭を撫でながら祖母が言うが、昌平はずっと目を伏せたままぶるぶる震えているのでそれに応えられない。それでもやはり祖母の凄さを感じずにはいられなかった。
雨が、規則正しいリズムを刻む。テレビもラジオも点けていない昌平の家はもちろんのこと、周りからの雑音は殆ど無い為に雨の音は不気味な程に澄んで聞こえた。どす黒い雲に厚く覆われた空からは、絶え間なく大粒の雫が降り注ぐ。舗装されていない通路はあっという間に粘土質になり、無数の水たまりを作った。そして普段は手に掴めそうな程に近くに映る木々は薄白い霧のようなものに遮られて、途方もなく遠くに見えた。
祖母はそんな外の様子を見るともなしに見ながら、昌平を腕に抱き抱えていた。
「うそじゃないんだよ」
昌平の目には少し涙が滲んでいる。しかし、それを拭おうともせずに、弁解とも言い訳ともつかない言葉を紡ぐ。
「だって『せんりがん』なんてホントにあるわけないじゃん。うそだよ、そんなの」
クラスメイトの二人はあくまで冷静だった。子供は実際に目には見えないもの、そして友達の自慢話等に対しては悔しさや反発心から疑ってかかる事が多い。特に昌平の話の様な不思議な事象には羨ましいという想いも強く、信じたいという気持ちとは裏腹に、頑なに否定してしまう事もままある。
「うそじゃないよ、ほんとうだよ」
しかし昌平にそれがわかる筈もなく、まるで祖母自体をも否定されているような気持ちになり、泥沼にはまっていく。
「じゃあ、『ショーコ』を見せろよ」
「だって、『ショーコ』なんて見せられないよ。形はないし・・・」
昌平はバツが悪そうに二人の顔を交互に見ると、クラスメイトの二人はしてやったりという様な顔をしている。
「やっぱりうそじゃん。しょうへいのうそつきー」
「うそつきー」
教室には他に誰もいない。まだ放課後になってそんなに時間は経っていないが、大体の子供はすぐに家路についてしまう。昌平の小学校に部活は存在しない。これは保護者からのたっての希望でそうなった。ただでさえ心配なのに、深い時間になってしまったら余計に心配が増す為ということだが、子供達にとってはプラスばかりではない。昌平のように、親が夜遅く帰ってくるという家庭も少なくはなく、寂しい思いをしているようだ。
昌平をからかう二人の少年もまた、その例に当てはまる。
「・・・じゃあ、みせるよ」
しばらく「うそつき」コールが続いた後に、うつむいていた昌平は顔を上げてうるんだ瞳を二人に向けた。
「え?なんだよー?」
「みせるよ!『ショーコ』!」
はっきりとそう言い切った。「うそつき」コールはとうに止み、教室は奇妙な静けさに包まれた。昌平の声の余韻だけを残して。
「どうやってみせるんだよー?」
「そうだよー」
多少怯んでいた二人がようやく口を開いたが、間髪入れずに昌平は言う。
「うちにきなよ」
しかしこの言葉に少年たちはまた怯んだ。少年たちの家もまた、学校からは遠く離れている。その上昌平の家は二人の家とは逆方向だということは、下校の時に見ているので知っていた。だからこそ、今まであまり行く気になれなかったのだが。昌平の家にこれから行くとなれば、帰る時にはもう暗くなっているであろうことは火を見るより明らかだった。
親がたまたま早く帰ってくることも全くない訳ではないし、何より夜道を長い間歩かなければならないのは怖かった。この辺りには街灯は無いに等しく、民家も多くはないので夜になると本当に真っ暗になってしまう。
「え・・でも」
「だって・」
少年たちの言葉は覚えず歯切れが悪くなってくる。しかし昌平の決心は固く、強い立場に立ったという自覚があるかどうかはわからないが、先程よりは強い調子で二人に詰め寄る。
「きたら、『ショーコ』みせれるよ。きなよ!」
考え込む時間はさして長くなかった。後の恐怖よりも目先の好奇心が上回ったようだ。
「じゃあ、みせてみろよ!『ショーコ』」
いつもならばものの数十分で駆け抜けて行く道を、昌平はゆっくりと歩いていた。というのも、今日はそうしなければならない理由があった。
「まだかよー」
その理由の内の一人が不平を漏らす。学校から歩き始めて一時間以上が経過していた。こちらの少年の家も離れてはいるが、通ったことのない道を延々と歩かされ、実際以上に時間と疲れを感じているのかもしれない。
「もうすぐだよ」
対して昌平は通い慣れた道。しかし、普段は周りの物になど目も暮れず走り抜ける道は、歩いてみると様々な発見があって面白かった。昌平の顔も自然とほころんでいる。しかし、そんな未知なる体験も終りを迎えようとしていた。
恐ろしく年季の入った木造建築、昌平の家が目前に見えた。
「あそこだよ」
昌平が指を指すと少年たちはようやくかという安堵の色と、古びた家への驚きの色とを半々ぐらいに表情へ含ませた。うっそうと茂る葉々、余り舗装されていない通路、薄汚れた二階建ての家屋。ともすれば廃墟と取れなくもないその景観に、昌平だけが全く臆せず溶け込んでいく。
二人は多少たたらを踏みつつも、当然のことではあるが至って平然と歩いていく昌平の後についていった。
「ただいまあっ」
建て付けの悪い引き戸を力一杯開いて、ランドセルを放り投げる。そして二人を玄関に招き入れた。
「ちょっとまってて」
そう言い残して既に靴を脱いでいる昌平は、二階へと続く階段を駆け上がった。しかし最後の一段を踏みしめても祖母の姿はなく、現れる気配も一向になかった。部屋へと続く襖は、鍵がかかっているかの様に固く閉ざされている。昌平は不思議に思いつつも、殆ど躊躇い無く襖を開けた。
・・・そこには、苦しげにうずくまる祖母の姿があった。
「ばーちゃんっ!」
とるものとりあえず駆け寄り、祖母の顔を覗き込む。顔中に脂汗が浮かび、どれが皺でどれが口でどれが目なのかわからなくなる程に顔は歪んでいた。
「あ・う・」
昌平の顔を確認して笑みに近いものを見せたが、それもほんの一瞬で消えてしまった。水を打った様に静かな空間の中、昌平の殆ど悲鳴のような声だけが響いていた。
祖母は、そのまま還らぬ人となった。
あの後、祖母を呼ぶ声が少年たちの耳に届き、比較的冷静な第三者だった彼等がすぐに救急車を呼んでくれた。おかげで「あと何分早かったら・」と言われることはなかったが、結局はそういう運命だったのだろう。八方手は尽くしたが祖母の体調は一向に快方へと向かわず、一月を数えることなく病室のベッドの上で静かに息を引き取った。
不思議なもので精霊の様な家の主がいなくなると、皆魔法が解けたかの如く考え方が変わり、僕たちは祖母の四十九日を終えた後にすぐ家を出た。当然というか買い取り手はつかず家はそのままだが、それでも都会に新居が持てる位の蓄えが両親にはあったようだ。
以来十数年、僕たちはそこで暮している。
ベッドで眠りこけていた昌平は、突然弾かれたように起き上がり、時計に目を向けた。
16時50分。17時からバイトなので、急がないと間に合わない時間だった。慌てて身支度を整え、家を飛び出す。
そして愛用の原付で発進しようとしたその時、進行方向にいた人たちの会話が、スッと耳に入ってきた。
「おばあちゃんは千里眼なんだよー」
そこには年端もいかない少女と、その少女の背の高さに合わせて腰をかがめる老女の姿があった。最初は不思議そうな顔をしていた少女も、しばらくして満面の笑みを浮かべた。
僕はその近くをなるべく遅い速度ですり抜け、一度振り返ってからスロットルを全開にして走り出した。
終