ボロアパートの一室からの旅行
ボロアパートの一室からの旅行
夏がやっと終わり秋色に染まった頃。
僕と妻は住んでいるアパート近辺の空気から逃れるように遠出を決行した。
行き先は和のイメージの強い田舎のような町だった。
着いて早々に妻は、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと急がしそうに、パタパタと僕の目の行き届く範囲で、はしゃいでいた。
僕は妻の後をゆっくりと付いていきながら、商店に並ぶお土産のたぐい類の人形やお菓子を見て楽しんだ。
それから、少し行ったところから旅館までの道のりは坂になっていた。
その坂をさっきと代わらないテンションで歩き続ける妻を後ろから眺めていて気がついた。そういえば妻の持ってきた荷物はどこへ消えてしまったのだろうと・・・。
そのことを妻に訊くと、拍子の抜けた声で、
「駅に忘れてた」
と、笑顔で答えたのであった。
僕は、はぁ、とため息をつき、元来た道を戻り始める。後ろから妻が軽快にスキップなんて踏みながら追いかけてきているのが分かると、無性に怒りたくなった。
ただ、ここで怒ると妻は子供のごとく“うるうる”な瞳で僕に抱きついて許しを請うので分が悪い。
怒るときも見極めなければいけないのが、少々面倒ではあるが、更なる面倒を招くよりは、幾分かましであった。
それでも、駅から旅館までの道のりの半分くらいまで来ていたこともあってか、既に戻る気なんて失せているのが現状だった。
こんな状態でありながら、妻は鼻歌交じりに、楽しそうに、坂を下ってゆく、いつしか追う形になっていた僕の瞳には、駅に着いたときと同じようにはしゃいでいる姿の妻が映っていた。
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駅に、荷物を取りに一度戻った僕らは、再度、旅館への道を歩み、やっとのことで旅館についたのは良いが、妻が荷物を部屋に着くなり置いてこう言うのだった。
「さぁ、町に行こう!」
どうやら妻は可愛く言ったつもりらしいが、今の僕には効き目は薄く、正直、一番聞きたくない言葉だったので、聞こえないフリをして畳に寝転んだ。
すると妻は、自分がワンピースを着ていることを忘れたように、僕の上に乗ってきた。
下着が丸見えである。
まぁ、見せるためのような飾りの施された下着であるからなのか、昨日の晩、下着のままで僕に抱きついては仕事の邪魔ばかりしていた。
まるで子供のような妻に僕は怒るのを通り越して呆れ顔で、
「早く寝ないと明日起きれなくて旅行いけないよ?」
そう言い聞かせ、仕事に取り掛かったのは、十二時近くになってしまったのは、一番最近の嫌な出来事である。
いや、ついさっきそれも塗り替えられてしまった。
駅に置き忘れた妻の荷物を取りに戻るという果てしなく辛い出来事によって・・・。
はぁ、とまたため息がこぼれた。そのため息で妻は崖から突き落とされたような絶望の表情を見せた。
僕はそっと妻の頭に手を伸ばし、それから撫で始めた。
すると妻は、すぐに笑顔になり僕の身体を無理やり起こすと、無言で“もっともっと!”と、せがむのであった。
ひとしきり撫でてあげると満足したのか妻は立ち上がって、
「温泉・・・入る」
唐突にそう言い、準備を完了させるなり部屋から凄い速さで出て行った。
僕は呆然と部屋のドアを見ていた。
数十秒の間、そうして過ごした後、窓を開け空気を入れ替える。
窓を開けると葉と葉が擦れる音や、都会では聞いたことのない鳥の声が、僕を思考の海に突き落とした。
妻に幸せを貰う毎日でいいのだろうか?
僕は長くは生きられない。
そんな僕と一緒に居て、妻は幸せだろうか?
「あぁ、最悪だッ!」
つい叫んで、壁を右手で作った拳で、思いっきり殴ってしまった。
近くを歩いている人が居たら、きっとビックリしていただろう。
壁を殴った右手が次第に痛みを訴えてきた。
そして泣きそうになる。右手の痛みが原因ではない。心が痛くて、痛くて、泣きそうなのである。
痛みを堪え、涙を堪えている僕に突然、温もりと言葉が訪れた。
「大丈夫・・・私は、ここに居ます。」
妻の声だった。
僕はいつの間にか、後ろから抱きしめられていた。
柔らかい妻の身体が、背中に密着して、温もりが僕の心身を暖める。
冬でもないのに温もりが、こんなにも嬉しく思えるのは、きっと・・・。
身体から力が抜ける。そして涙が頬を伝って落ちていく。溜め込んできた不安や、苦しみと一緒に流れる涙を妻は優しく拭ってくれた。
僕は妻に抱きついて泣いた。泣いて泣いて、泣きまくった。
子供のように泣き続ける僕の頭を、妻は優しく撫でていてくれた。
いつの間にか、僕は眠ってしまった。
妻に抱きしめられたまま、眠りについた。
妻を抱きしめたまま、眠りについた。
秋の風に揺られる葉の音をBGMにして、優しい時間が過ぎていく。