ボロアパートの一室の告白
ボロアパートの一室の告白
開けられない一通の手紙が私の目の前にあります。
あて先は私で、差出人は夫です。
夫が死んでから一週間が過ぎた。
私は何をするでもなく今まで貯めてきたお金を銀行から全額引き出してきて、部屋にぶちまけた。
たしか六千万くらいあるはずだ。
そんな額だというのに、ちっとも勿体無いと思えない。
今なら、このお金を全てゴミ袋に詰めて捨てるのもたやす容易いだろう。
それに夫を失ったというのに、涙が出てこない。
そのことのほうがよほど苦しかった。
息が詰まりそうなこの部屋での生活に、終止符を打つべく、私の手には包丁が握られていた。
包丁の刃を見つめ、夫の驚いた顔を思い出す。
せっかく料理を作ったのに、血染めを理由に食べてくれなかったときは、少しイラッときたけど、すぐに私の指を手当てしてくれたのは嬉しかった。
私は誰かに心配されたことなんて無かったから・・・。
いや、心配はされていた。
ただし、それは私の“身体”に対しての心配であって“私”の心配ではなかった。
包丁を持つ手に力が入る。
顔を上げ、部屋の中を見渡す。
明かりを点けていない部屋が、昼間だというのにやけに暗く感じた。
私は、この部屋で夫と暮らしていたのだ。
たったの一年くらいの期間だけだけど・・・。
はぁ、とため息をついて畳みに包丁をブスリと突き立てた。
夫が死んでから一週間。
私は実にいろんなことを思い出した。
いろんな物を壊した。
いろんな物を失くした。
そもそも夫が・・・いや、彼が・・・これも違うか・・・やっぱりこれかな?―――さん・・・これだね。
―――さんが私と結婚する前、最初に言った言葉を聞いてしまった時点で何かを失っていたのかも・・・と、今思う。
あの時はその言葉で私は涙を流し、―――さんに抱きついていた。
それから私は―――さんの支えになったつもりで居た。
でも、実際は私のほうが支えられていたんだと思う。
―――さんと出会う以前の私は、人に頼ってばかりで自分では何もしない最低の人間だった。
誰かのために自分の人生を捨てることなんて出来なかった。
でも、―――さんに、残りの人生を私にくれると言われた日に、確かに世界は少しだけ変わった。
貯金は封印し、新しく仕事を見つけて一からもう一度生活を始めた。
今度は独りでも、一人でもなくて、二人で、このボロアパートの一室で・・・。
「開く!」
そう私が出せるであろう一番大きな声で決意を固めると、机の上に置かれた一通の手紙に手を伸ばす。
手紙を手に取ると、数秒見つめてから封を開ける。
ぴりぴりという音が部屋の中に広がる。
手紙を封筒から取り出すと、三つ折にされている紙を開いた。
そこにはこう書かれていた。
『―――さんへ
前略
告白したいことが一つだけあるので、どうか一人で読んでください。
僕は―――さんの貯金のことを知っていました。
―――さんの、前の仕事も知っていました。
ごめんなさい。
僕のために人生を棒に振らせてしまって、ごめんなさい。
僕との生活に付き合ってくれて、ありがとう。
―――さんと過ごした一年は、とても充実していて、毎日がお祭りのようで楽しかったです。
僕が苦しんでいるとき、優しく抱きしめてくれて、ありがとう。
すごく、助かりました。
僕に自由な時間を与えてくれて、ありがとう。
最後に。
僕を愛してくれて、ありがとう。
―――より
追伸
寝ている―――さんへのキスが僕の日課でした。』
読み終わって、私は噴出してしまった。
そして胸の鼓動が早くなったのが分かった。
「知ってます・・・。だって、毎日、キスが楽しみでニヤけそうになるのを我慢していたんですから・・・。それに・・・」
カーテンの隙間から光が差し込んだ。
「それに私は、愛されていたの・・だから・・・それだけで十分幸せでした。」
そう言い終えた私の頬を溢れ出した涙がつたい、それが少しくすぐったく思え、それから袖でゴシゴシと涙を拭うと、カーテンを開け、窓を開けて、日の光を浴びた。
冬の寒さが少しだけ残った心地の良い春の風が私の頭を撫でるように吹き抜ける。
優しい時間は終わらない。
私の心の中にずっとある思い出が消えないように・・・。
おしまい
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
こんなくだらなくてつまらない物語でよければ、またお会いしましょう。