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ボロアパートの一室にもう一度・・・

ボロアパートの一室にもう一度・・・


いつまでも続くと思っていた優しい時間はついに終わりを告げようとしていた。

僕が倒れてからもう一ヶ月以上過ぎた。

日に日に悪くなる僕の身体はいつ壊れてもおかしくなかった。

そんな状態の中でむかえたある日。妻はいつものように病院へお見舞いに来てくれた。

一緒に居られる時間が残り僅かだと分かっているから仕事を辞めてまで毎日通ってくれる。そんな妻の優しさに毎晩涙を流す僕は、凄く弱っていた。

身体だけじゃなく心まで弱くなってしまっていた。

僕は弱くなった身体や心を妻に支えてもらいながら毎日小説を書いている。

タイトルはまだ決まっていないが、僕と妻が過ごしたこの一年間を書こうと努力していた。これは本にするわけではない。妻に残す思い出である。

残された人が思い出で苦しむのも、思い出で癒されるのも、僕には全部分かっていた。

それでも残したい想いがある。残したい自分が居る。だから書こうと、そう決めた。

懐かしい思い出がよみがえってくる。

お花見をしたこと、てるてる坊主を吊るしまくったこと、七夕の日に短冊に願い事を書いたこと、小さな花火大会を庭でやったこと、お祭りで拾った蝉の幼虫が蝉になるのを夜通し見守ったこと、温泉旅行に行ったときに買ったお土産が部屋にまったく合わなかったこと、クリスマスにナタデココケーキを作ったこと、初詣で引いたおみくじが大吉だったのに洗濯してしまったこと、いきものかるたで妻に酷い負け方をしたこと、それからバレンタインにチョコを貰ったこと、いろんな思い出が溢れて、涙となり零れ落ちる。

一年は長くて、でも、とても短くて、あっという間に過ぎてしまった。

僕に残された命があと少し、たくさんの思い出が詰まったボロアパートの一室を最後に一度だけ戻りたかった。

そのことを妻に言うと、無言で部屋を一度出て、少ししてから車椅子を持ってきた。

そんな妻に僕は我侭を言った。

「アパートまで走ってくれる?」

実際無理なのは分かっている。妻はそんなに普段走ったりすることが無いのだ。ましてや車椅子を押しながら走って一駅先のボロアパートまでなんて到底走れるものじゃない。

「わかりました・・・頑張って見ます!」

妻の突然の返答に僕は一瞬思考が停止した。

すぐに言葉が出てこない僕にさらに妻は言った。

「その代わり、着替えるのとコートを着てください。外はまだ寒いですから♪」

「なぜ?」

やっと声が出た。言葉が出てきた。

「なぜ、こんな我侭を?」

そんな僕の疑問をあっさりと妻は笑顔で打ち払った。

「だって・・・―――さんが初めて私に我侭を言ったんですよ?いつも私の我侭を聞くくせに、自分は言わないなんてズルイです。だから今回ので、お相子です♪」

最後なんて思ってはいけなかったのかもしれない。まだ最初だったんだ。僕はまだまだ妻に我侭を言って良いんだ。そう思ったらすぐに一つの我侭が口から零れていた。

「抱きしめて」

妻は何も言わずに僕を抱きしめた。

優しく抱きしめた。



僕らは町の中を車椅子で走り抜けていた。

病院を出るときが一番冷や冷やしたのを妻と二人で笑い合いながら町の中を駆け抜けていた。

僕らの住んでいたボロアパートはすぐそこまで来ている。

病院の重たい空気はどこかへ行ってしまったようで、今は代わりに幸せに満ち溢れる春の花畑のような空気が僕らを包んでいた。

そんな心地よい空気を纏いつつ僕らはたどり着いた。

住み慣れた。僕らが過ごしたボロアパート。

部屋に入ると懐かしい匂いが僕たちを包んだ。

急に心が締め付けられるような感覚に陥る。

そんな感覚を背負ったまま畳に寝転がると、妻も一緒に寝転がる。

二人でしばらくの間、天井を見つめていた。

ただ、一分もしないうちに妻が沈黙に耐えられなくなったのか、抱きついてきた。

でも、違っていた。

沈黙に耐えられなくなったんじゃなくて、寂しくて抱きついてきたんだと思う。

抱きついてきた妻は、いつかのように泣いていたから・・・。

そして僕は自分が寂しかったんだと分かった。

さっきの胸が締め付けられるような感覚は寂しいからなんだと・・・。

妻は何かを受け入れるように泣いていた。

僕も何かを受け入れるように涙がこぼれた。

涙を流す。ただ、それだけの事なのにこんなにも想いが溢れるなんて思っていなかった。

だから勝手に言葉が紡がれたのかもしれない。

「ありがとう」

妻と二人で長い間そう言い続けた。

日が暮れる頃、病院へ戻ると医者に怒られたのは言うまでもない。



ボロアパートに訪れたその日から三日後に僕は小説を書き終えた。

そして小説を書き終えてから二日後に僕は息を引き取った。

死ぬ前に妻に抱きしめられたのが嬉しかった。そしてその短い時間がとてつもなく長くて、終わりが来ないんじゃないかと思うくらいの時間の中で優しさを感じた。

ゆっくりと瞼が下りてくる。妻は何も言わずに抱きしめ続けていた。

僕は最後に弱々しい声で妻にお礼を言った。

「優しい時間を・・・ありがと・・・」

春の心地よい風を頬に受けて、僕は旅立った。

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