弟は270点で「家の誇り」、私は782点で「一族の恥」でした
平成最後の冬。大学入試センター試験が終わり、学校で一斉に自己採点が行われた。
弟の翔太は270点だった。もっとも、その点数が進学に影響するわけではない。翔太は数か月前、すでにAO入試で雪森県内の私立大学への進学を決めていたからだ。
それでも結果が出るなり、翔太は真っ先に親族のLINEグループへ点数を投稿した。叔母は「翔太は将来有望だ」と褒め、叔父は「これで木原家からも大学生が出るな」と喜び、祖母まで拍手のスタンプを何個も連続で送っていた。
私はしばらくそのやり取りを眺めたあと、自分の点数も送った。
782点。
それまで賑やかだったグループが、十数分間ぴたりと静まり返った。
最初に口を開いた叔母は、「女の子がそんなに勉強して何になるの」と言った。叔父は「翔太の点がよくないと分かっているのに、わざわざ高得点を見せるなんて姉として思いやりがない」と続けた。
祖母はもっと露骨だった。
「どうせ嫁に行くんだから、そんなにいい点を取ってどうするの。翔太に恥をかかせたいのかい?」
スマホの画面を見つめながら、私は思わず笑った。
木原家では、270点なら家の誇り。
782点を取った私は、身の程をわきまえない娘らしい。
1
センター試験のあと、私は光峰大学の前期日程を受験した。二次試験まで終えた三月上旬、ようやく大学から合格通知が届いた。
光峰大学は、雪森県内でも有数の国立大学だ。その薄い紙を手に入れるために、高校三年間、まともに一晩眠れた記憶はほとんどなかった。
毎朝五時に起きて鶏の世話をし、納屋を片づけ、六時半には自転車で町の高校へ向かう。放課後は家に戻ってまた仕事を手伝い、家族全員が寝静まってから、ようやく布団の中で参考書を開いた。
ずっと信じていた。
この村から出さえすれば、人生は変えられると。
けれど合格通知が届いた日、私はその封筒を自分の手で開けることすらできなかった。
夕方、改造されたバイクの大きなエンジン音が集落に響いた。
翔太が、染めたばかりの明るい茶髪を揺らしながら降りてくる。口元には煙草までくわえていた。まだ十八歳なのに、家では誰も注意しない。
「母さん! 通知、来た?」
母の富美子が、満面の笑みで家から飛び出してきた。
その手に持っていたのは、私の光峰大学の合格通知だった。
「来たよ! 翔太、見てごらん。光峰大学だって!」
私は台所の入口に立ったまま、自分の耳を疑った。
父の正雄も玄関先で煙草を吸いながら、しわだらけの顔をほころばせている。
「さっき自治会長まで見に来たぞ。光峰大学っていうのは、県内じゃ名の通った国立大らしいじゃないか。これで木原家も村で鼻が高いな」
翔太は通知を受け取ると、表から裏まで何度も眺めた。
もちろん、自分のものではないと分かっている。
それでも悪びれる様子は少しもなかった。
「姉ちゃん、どうせ行かないんだろ」
「写真くらい撮ったっていいじゃん」
頭の中で、何かが弾けた。
「誰が行かないって言ったの?」
母の笑顔が一瞬で消えた。
「女の子が国立大学なんて行ってどうするの」
「翔太の私立大だけで、学費が一年百万円以上かかるんだよ。下宿代も生活費も必要なのに、二人も大学へ行かせる金なんてどこにあるの」
信じられない思いで母を見た。
「つまり、私に諦めろってこと?」
「ほかにどうするの」
父が煙草の灰を落とした。
「健吾はもう家庭を持ってるし、翔太だってこれから木原の家を支えるんだ。お前はどうせ嫁に出る。四年間も金をかけて大学へ通わせたところで、最後はよその家の得になるだけだろ」
私は合格通知を取り戻そうと飛び出した。
母が慌てて背中へ隠す。
「何するんだい!」
「私のだから!」
「光峰大学に受かったのは私なの!」
翔太が私を強く突き飛ばした。
身体がよろめき、玄関の石段へ手をつく。掌の皮が大きく擦れ、すぐに血がにじんだ。
「木原澪。ちょっといい点を取ったくらいで、調子に乗ってんじゃねえぞ」
翔太が近づいてきた。
次の瞬間、頬を思いきり叩かれた。
「俺はお前の弟だぞ。家の金を俺に使わないで、誰に使うんだよ」
顔の半分が一気に痺れ、耳の奥で甲高い音が鳴った。
私は地面に手をついたまま、こらえきれず涙を流した。
「奨学金だって申し込む! バイトもする! 全部払ってなんて言ってない!」
「通知を返して!」
「私は大学へ行く!」
翔太の顔つきが変わった。
「まだ騒ぐなら、本気で痛い目に遭わせるぞ」
母がようやく飛んできた。
一瞬、私をかばってくれるのだと思った。
けれど、聞こえてきたのは違う言葉だった。
「顔は殴るんじゃないよ!」
「明日は大庭家が顔を見に来るんだから。顔を腫らしたら、支度金を減らされるかもしれないでしょう!」
全身が固まった。
父まで不機嫌そうに翔太を睨む。
「そうだ。今は余計な傷をつけるな」
そこでようやく理解した。
私に大学を諦めさせるだけではない。
嫁に出すつもりなのだ。
楢ヶ谷村には、今も時代遅れの慣習が残っていた。縁談がまとまると、形式的な結納とは別に、男側から女側の家へ「支度金」と呼ばれるまとまった金が渡される。
名目上は、新婦の新生活を整えるための金。
けれど実際には、実家が好きなように使っていた。
大庭家が木原家へ払う金は、翔太の四年間の学費にちょうどいい。
「また娘を金に換えるの?」
声が震えた。
母が眉をひそめる。
「何を馬鹿なこと言ってるの」
「大庭さんなら土地も家もある。あんたの将来を考えたら、悪い話じゃないでしょう」
私は二人を睨みつけた。
「健吾兄さんが結婚した時だって、家にお金がないからって、美咲を十六歳で田所修一に嫁がせたよね」
「今度は翔太を大学へ行かせるために、私の結婚を利用するの?」
「私と美咲、本当にあんたたちの娘なの?」
父が冷たい目を向けた。
「家族なんだから、苦しい時に助け合うのは当たり前だろ」
「それに女には女の幸せがある。大庭家なら生活に困ることもない」
母も当然のように続けた。
「木原に残るのは息子なんだよ。健吾も翔太も、これからこの家を支えていく。あんた一人だけ自分のことしか考えないでどうするの」
目の前にいる二人が、突然知らない人間に見えた。
「だったら私、一生結婚しなくていい」
「いつか私に子どもができたとしても、娘の人生を息子のために使い潰すような親には絶対ならない」
母の顔が赤くなった。
「恩知らず!」
翔太へ目配せする。
その夜、私は二階の小部屋へ閉じ込められた。
夕食すら与えられなかった。
2
翌朝、まだ日が昇りきらないうちから、村で昔から縁談の世話をしている山崎さんがやって来た。
その後ろにいたのは、大庭夫婦と、彼らの息子とされている大庭直人だった。
男は二十代半ばくらいで背が高く、明らかに身体に合っていない古びたスーツを着ていた。髪だけは油できれいに撫でつけられていたが、視線はほとんど人と合わない。話しかけられても返事が遅く、短い言葉しか口にしなかった。
村の人間は、直人のことを勝手に「頭が弱い」と決めつけていた。
山崎さんは満面の笑顔だった。
「直人くんは、ちょっと人付き合いが苦手なだけよ。大庭さんの家には土地も家もあるし、果樹園だって持ってる。澪ちゃんが嫁げば、生活には困らないわ」
母は上機嫌だった。
「うちの澪は光峰大学に受かったんですよ」
山崎さんがすぐに手を打つ。
「まあ、それならますますいいじゃない!」
「きちんと勉強のできるお嫁さんなら、大庭さんも安心よね」
表向きはもっともらしい言葉だった。
けれど、少しすると話題は支度金の額へ移った。
大庭家は木原家の三百万円以上ある借金を肩代わりし、さらに結婚準備の名目で別に金を出すという。
父の目が露骨に輝いた。
翔太まで隣で、自分の私立大学四年間の費用を計算している。
私がどう思っているかを聞く人間は、一人もいなかった。
母はすでに婚姻届まで用意していた。
私は署名を拒んだ。
一度頬を叩かれ、「家族に迷惑をかけるな」と怒鳴られたが、それでも名前は書かなかった。
だから、彼らが言う「結婚」は法律上成立していない。
木原家と大庭家が村で勝手に式を挙げ、それだけで私はその日から大庭家の人間になるのだと、周囲が決めつけているだけだった。
山崎さんは私と直人を隣の和室へ押し込んだ。
「若い二人で、少し話してなさい」
扉は外側から鍵をかけられた。
薄い壁越しに、今も大人たちが金の話をしている。
私は畳の上に座り、正面の男を警戒して見ていた。
けれど直人は近づいてこなかった。膝を抱えて扉のそばに座り、こちらを見ようともしない。
むしろ、私以上に怯えているように見えた。
その時、窓の外から小さな声が聞こえた。
「お姉ちゃん」
私は勢いよく振り向いた。
美咲だった。
窓の下にしゃがみ込み、大きく膨らんだ腹を抱えている。顔色は悪く、頬やまぶたまでむくんでいた。
「怖がらなくていいから」
「お姉ちゃんを、私みたいにはさせない」
私は窓辺へ飛びついた。
「美咲?」
「マイナンバーカードと保険証、通帳はどこ? 私が持ってくる」
私も声を落とした。
「合格通知も」
「光峰大学の通知も持ってきて」
「大学が私を合格者として認めてくれるなら、まだここから出られる」
美咲は強く頷いた。
すっかり変わってしまった身体を見ていると、鼻の奥が痛くなった。
子どもの頃、私はいつも美咲に言っていた。私たちみたいな家に生まれた女の子には、兄や弟みたいな逃げ道はない。楢ヶ谷村から出たいなら、勉強するしかない、と。
美咲は私より真面目なくらいだった。
成績もずっとよかった。
けれど二年前、健吾兄さんが結婚することになり、家の改修や披露宴で木原家には大きな借金ができた。
両親は十六歳だった美咲に婚姻届を書かせ、二十歳以上年上の養鶏場経営者、田所修一へ嫁がせた。
二年間で、美咲は何度も妊娠した。
すでに幼い子どもが二人いる。
今も腹には、また一人いる。
私はずっと不思議だった。
どうしてあの時、送られたのは美咲で、私ではなかったのか。
ようやく分かった。
私を大切に思っていたわけではない。
ただ――
私なら、あとでもっと条件のいい縁談に使えると思われていただけだった。
3
完全に日が暮れたあと、美咲がもう一度窓の外へ現れた。
重そうな旅行鞄を、窓の隙間から押し込んでくる。
中には身分証や通帳、数着の服、それから母に隠されていた光峰大学の合格通知が入っていた。
「逃げて」
美咲が窓を押し開ける。
「今すぐ」
私は妹の顔を見た。
「美咲は?」
「私のことはいい」
「でも……」
「お姉ちゃん!」
美咲の目から涙がこぼれた。
「私を見てよ」
大きな腹へ手を置く。
「本当に、こうなりたいの?」
「昼間は鶏舎で働いて、夜は子どもの面倒を見る。いつ妊娠するかも自分で決められないし、妊娠したあと産むかどうかだって、私には決められない」
歯を食いしばり、声を落とした。
「私だって高校に行きたかった」
「大学にだって行きたかったよ」
「でも、十六歳で田所家の嫁になった」
涙を乱暴に拭う。
「木原澪。昔、私に何て言った?」
「私たちみたいな家の子が、勉強しないでどうやって逃げるの?」
私は旅行鞄を強く抱いた。
美咲が背中を押す。
「行って!」
「大学に行って」
「木原家なんて、誰も知らない場所に行って!」
涙が止まらなくなった。
それでも私は窓を乗り越えた。
立ち去る前、泥の上へ膝をつき、美咲に深く頭を下げた。
「待ってて」
「自分で生きていけるようになったら、絶対に迎えに来るから」
美咲は泣きながら怒鳴った。
「早く行って!」
「振り返らないで!」
集落の入口まで走ったところで、高校の担任だった高橋先生の車を見つけた。
彼も楢ヶ谷村の出身だった。
普段は私の成績を褒め、「澪ならきっとこの村から出られる」と何度も励ましてくれた。
だから車を見つけた瞬間、助かったと思った。
私は、大学を諦めろと言われていること、両親が勝手に縁談を進めていること、どうしても今夜は家へ戻りたくないことを話した。
けれど、支度金の話や、部屋に閉じ込められていたことまで全部打ち明ける勇気はなかった。
高橋先生は困った顔でしばらく黙った。
「とにかく乗れ」
「落ち着けるところまで連れていく」
私はそれを、光峰市へ連れていってくれるという意味だと思った。
山道はひどく揺れた。
何も食べておらず、疲れ切っていた私は、ほどなく助手席で眠ってしまった。
どれくらい経ったのか分からない。
半分眠ったまま、高橋先生が電話をしている声を聞いた。
「見つけました」
「はい、荷物も全部持ってます」
「合格通知もあります」
「あと十分くらいで戻ります」
目が覚めた。
窓の外に見えるのは、光峰市へ向かう国道ではない。
車は楢ヶ谷村へ戻っていた。
全身から一気に血の気が引いた。
「先生……?」
高橋先生のハンドルを握る手が、わずかに震えた。
「澪、お前はまだ未成年なんだ」
「親と喧嘩して、そのまま一人で街へ出るなんて危ない。大学のことも縁談のことも、まず家でちゃんと話し合うべきだ」
「先生……私、戻りたくない」
「分かってる。でも親なんだぞ。いきなり逃げるより、俺も間に入るから、一度話したほうがいい」
彼はたぶん、自分では正しいことをしているつもりだった。
木原家も。
自治会の人間も。
子どもの頃から知っている。
だから、私が言っていることより、自分が知っている「木原家」を信じた。
その瞬間、ようやく分かった。
この村で本当に恐ろしいのは。
分かりやすい悪人だけではない。
間違っているかもしれないと思いながら。
それでも波風を立てないほうを選ぶ大人たちだった。
4
車から降ろされた時、集落の入口にはすでに人だかりができていた。
真っ先に目に入ったのは美咲だった。
地面に倒れている。
田所修一が馬乗りになり、何度も拳を振り下ろしていた。
二十歳以上年上の男は身体も大きく、太い腕をしている。美咲は頭を抱えて丸くなり、もう悲鳴を上げる力すらほとんど残っていなかった。ただ身体だけが、意思とは無関係に激しく震えている。
周りにいた全員が、平然と見ていたわけではない。
顔を背けている人もいた。
若い女性がスマホを取り出しかけたが、隣にいた母親らしい人に腕をつかまれた。
「よその家のことに関わるんじゃない」
小さな声が聞こえた。
誰かは止めたほうがいいと思っている。
それでも。
誰も最初の一人にはなろうとしなかった。
美咲の一番上の子どもまで、少し離れた場所に立ち、表情もなく母親が殴られるのを見ていた。
私は我を忘れて走った。
翔太は地面に落ちた私の旅行鞄を拾おうとしている。
誰も反応するより先に、田所へ体当たりした。
「美咲!」
妹を抱き起こした。
あまりにも激しく震えている。
ただ痛いからではなかった。
長い間、暴力の中で生きてきた人間は、誰かが急に近づくだけで身体が勝手に怯えるようになる。
田所が立ち上がった。
「殺されてえのか!」
拳を上げる。
その時、それまで大庭夫婦のそばに立っていた直人が、突然飛び出した。
道端にあったスコップをつかみ、私たちの前へ立つ。
山崎さんが慌てて間に入った。
「もういいでしょう!」
「夫婦なんて喧嘩くらいするものよ。家庭のことに外の人間が口を出したら余計こじれるわ」
私は美咲を抱いたまま、山崎さんを睨みつけた。
「これは夫婦喧嘩じゃない!」
「人殺しです!」
「美咲に何かあったら、ここで黙って見てた人たちも『自分には関係なかった』なんて言わせないから!」
その言葉の直後。
さっきスマホを取り出しかけた若い女性が、今度は周囲の手を振り払って通報した。
「救急車お願いします! 妊婦さんが殴られて、出血してます!」
山崎さんの顔色が変わった。
私も視線を落とす。
美咲の服が、血で真っ赤に染まっていた。
美咲はまず村の診療所へ運ばれ、そのまま近隣の総合病院へ緊急搬送された。
強い暴力によって常位胎盤早期剥離を起こしていた。
赤ちゃんは助からなかった。
美咲自身も大量出血を起こし、緊急手術を受けた。命を救うため、最終的には子宮を摘出しなければならなかった。
警察と病院から児童相談所にも連絡が入り、田所家にいた二人の子どもは一時的に保護された。
長い間、家庭内暴力を目の前で見ていたことも分かった。
あの日、何もせず立っていた子どもの顔が、頭から離れなかった。
怖くて動けなかったのは、大人だけではなかったのだ。
田所修一は、美咲がもう妊娠できないと知ると、急に病院へ顔を出さなくなった。
数日後には両親を連れて木原家へ行き、結婚時に負担した金を返せと要求したらしい。
「こっちだって、あの時かなり金を出したんだ」
「このまま全部なかったことにされるのは困る」
父が納得するはずもなかった。
口論は次第につかみ合いになり、最後には自治会長まで出てきて双方を止めた。
結局、木原家は受け取った支度金の一部を、田所家へ私的に返すことになった。
田所修一は、ほどなく離婚を求めた。
美咲は引き止めなかった。
離婚手続きが済んだあと、美咲は再び「木原」の姓に戻った。
けれど田所家は、美咲を迎えに来なかった。
木原家も、連れて帰ろうとはしなかった。
病室に残された妹は。
どちらの家からも。
もう自分たちには関係のない人間として扱われていた。
5
もちろん、美咲に会いに行きたかった。
けれど最初の逃亡に失敗して以来、私は完全に自由を奪われていた。
父と翔太が交代で見張り、夜は部屋の外から鍵をかけられる。トイレへ行く時でさえ、誰かがついてきた。
半月後。
木原家は、翔太の大学進学祝いと私の結婚の儀式を、同じ日に開くことにした。
そのほうが賑やかで。
金もかからないのだという。
私はもう泣き叫ばなくなっていた。
両親は、ようやく諦めたのだと思ったらしい。
けれど、知らなかった。
毎晩布団の中で考えていたのは、たった二つだけ。
どうやってここから出るか。
どうやって美咲も連れ出すか。
式の前に、もう一度だけ美咲へ会わせてほしいと頼んだ。
父は拒否した。
私はほとんど食事を取らなくなった。
精神的にも追い詰められ、何度か自分を傷つけかねない状態になったため、両親もさすがに不安になったらしい。
式より先に私が倒れれば、大庭家との話そのものが壊れる。
結局、父、母、翔太の三人に見張られながら病院へ行くことを許された。
美咲の腹はもう平らになっていた。
病室のベッドで静かに眠っている。
顔は紙のように白かった。
「美咲」
小さく呼んだ。
返事はなかった。
私はベッドのそばに座り、冷たい手を握った。
眠っているなら、それでもいい。
木原家にいた頃も。
田所家へ嫁いだあとも。
美咲は一度だって、本当の意味で安心して眠れたことがなかったのかもしれない。
心の中で妹へ呼びかけた。
待ってて。
今度こそ私は出ていく。
ちゃんと自分で生きられるようになったら、必ず探しに来るから。
病院には、担当の医療ソーシャルワーカーがいた。
私は両親に聞こえないよう、小さな声で事情を話した。
「妹を田所家に戻したくないんです」
「DVの相談窓口や、一時的に保護してもらえる場所につないでもらえませんか」
ソーシャルワーカーは、私の顔をじっと見た。
「分かりました」
「美咲さん本人の意思を確認したうえで、こちらでも支援先を探します。お子さんたちについても児童相談所と連携します」
私は自分の名前と、連絡を取れるようになった時のためのメモを残した。
現金を預けようとすると、それは病院では保管できないと言われた。
代わりに、必要になったら生活費を渡す意思があることも記録に残してもらった。
病院を出ると、駐車場には直人が立っていた。
髪をきれいに整え、安物のスーツを着ている。
腕には造花の花束を抱えていた。
母が衣装袋を私へ押しつける。
「早く着替えなさい」
「今日は大事な日なんだから、また面倒を起こすんじゃないよ」
袋を開く。
中に入っていたのは、安っぽい白のウェディングドレスだった。
私はふいに母へ尋ねた。
「美咲を田所修一に嫁がせたこと、一度でも後悔した?」
母はこちらを見なかった。
「何を後悔することがあるの」
「美咲には美咲の人生があるでしょう。いつまでも実家を頼られても困るよ」
私は頷いた。
この人は、自分が美咲を追い込んだとは一度も考えたことがない。
全部。
本人の人生。
本人の選択。
そういうことにしている。
なら。
私も覚えておこう。
この先。
自分の人生に何が起きても。
この人たちに許可を求める必要なんて。
もうない。
6
私も美咲も、子どもの頃から、自分だけの新品の服などほとんど着たことがなかった。
美咲が結婚する時、初めて与えられた新しい服は、値下げ品の白いワンピースだった。
その服を着て木原家を出た日。
雪が降っていた。
真っ白な服。
一面の雪。
遠くから見れば、結婚するために出ていくというより、自分の葬式へ向かっているようだった。
そして今。
私が人生で初めてまともに与えられた新しいドレスも、ウェディングドレスだった。
病院の化粧室で、鏡の中の自分を見つめる。
一瞬、そこに映っているのが美咲のように思えた。
窓の向こうでは、また細かな雪が降り始めている。
駐車場では直人が安っぽい造花を抱えていた。
私は目を閉じた。
何度も考えてきたことが。
その時、はっきりと決意に変わった。
私の結婚の儀式と翔太の進学祝いは、木原家近くの古い集会所で開かれた。
村人も大勢集まっていた。
父と母は、最初から最後まで満面の笑みだった。
翔太は相変わらず明るい茶髪で、友人たちと酒を飲んでいる。まだ二十歳にもなっていないのに、大勢の大人の前で平然と煙草を吸い、酒まで口にしていた。
何人かは眉をひそめていた。
けれど父が笑っているのを見て、わざわざ注意する人はいなかった。
宴も終わりに近づいた頃。
翔太はとうとう椅子の上へ立った。
「みんな、見てろよ!」
「大学出たら絶対に大企業に入って、稼ぎまくるから!」
「そのうち光峰市に家買って、父さんと母さんも呼んでやるよ!」
周囲から拍手と歓声が上がった。
両親は誇らしそうに息子を見つめている。
まるでセンター試験270点の男が。
すでに人生の頂点へ立っているかのようだった。
私はゆっくり立ち上がった。
集会所が次第に静かになる。
両親の前へ進み、正座して深く頭を下げた。
「お父さん」
「お母さん」
「今日を最後に、私は木原家を出ます」
「今まで育ててくれて、ありがとうございました」
母は明らかに驚いていた。
周りの親戚まで、「澪もようやく分かったんだ」と感心したように囁いている。
私は顔を上げた。
「式の前に、一つだけお願いがあります」
父が眉をひそめた。
「何だ」
「翔太がここ数日、みんなに見せていた光峰大学の合格通知を、もう一度見せてください」
会場が一瞬静まり返った。
この数日間。
翔太は何度も私の通知を使って写真を撮っていた。
村の人間で、そこに書かれた名前まできちんと確認した者はほとんどいない。
噂はいつの間にか、
「木原家の翔太が、有名な国立大学へ受かった」
そんな話にまで変わっていた。
父も母も訂正しなかった。
そのほうが気分がよかったからだ。
これだけ大勢の前では拒めなかったのだろう。
翔太が不機嫌そうに鞄から通知を取り出した。
「見たらすぐ返せよ」
私は受け取った。
驚くほど軽い。
たった数枚の紙。
けれど、そこには私の高校三年間が全部詰まっていた。
氏名欄を確認した。
そして両手に力を込めた。
「ビリッ――」
紙が真ん中から裂けた。
集会所が一瞬で静まり返った。
次の瞬間、翔太が狂ったように飛びかかってきた。
「木原澪! お前、何してんだよ!」
父も母も顔色を変える。
でも、もう遅かった。
私は残った紙も一枚ずつ破いた。
白い紙片が床へ散っていく。
翔太の顔が怒りで歪んだ。
「それ、俺がみんなに見せてたやつだぞ!」
私は笑った。
笑っているうちに、涙まで出てきた。
床に落ちた紙片を一つ拾う。
そこにはちょうど氏名欄が残っていた。
翔太へ突きつける。
「じゃあ、読んでみて」
翔太は黙り込んだ。
「ここに、誰の名前が書いてあるの?」
顔がどんどん引きつっていく。
私は代わりに読み上げた。
「木原澪」
「私の名前だよ」
その場にいた全員を見渡した。
「これは私の合格通知です」
「光峰大学に合格したのも、私です」
「今日ここに座れと言われたから、座りました」
「ウェディングドレスを着ろと言われたから、着ました」
「でも、私の人生まであんたたちのものになったわけじゃない」
両親へ顔を向ける。
「私が勝ち取った合格を、翔太の手柄みたいに使わないで」
「私の人生を、息子を立派に見せるための飾りにしないで」
母が人混みをかき分けて走ってきた。
頬を思いきり叩かれる。
一瞬、視界が真っ白になった。
耳鳴りの向こうから、母の罵声だけが響いてくる。
私は床へ手をついて立ち上がった。
そのまま隣のテーブルをひっくり返す。
料理の汁や酒が母へ浴びせかかり、皿や茶碗が次々と床へ落ちて割れた。
母は呆然とした。
次の瞬間には、その場へ座り込んで泣き始める。
「何でこんなことするのよ!」
「家族のことを、そんなに憎いの!?」
その言葉が少しおかしかった。
私たちを「家族」と呼ぶのは。
いつも私たちに我慢させたい時だけだった。
私はもう何も答えなかった。
集会所から走り出した。
7
そのまま木原家の古い家へ駆け戻った。
壁には何枚もの賞状が貼られていた。
私のもの。
美咲のもの。
小学校、中学校、高校。
何枚も重ねるように並んでいる。
普段は、どれだけいい成績を取っても両親はほとんど興味を示さなかった。
それなのに客が来ると、決まって壁を指さした。
「木原の娘は頭がいいんだ」と、自分たちの手柄のように自慢した。
私は賞状を一枚ずつ剥がした。
庭には、枯れ枝や古紙を燃やす時に使っていた古い金属製の焼却缶があった。
一枚目の賞状へ火をつける。
炎がすぐに紙の端を巻き込んだ。
二枚目。
三枚目。
私の名前も。
美咲の名前も。
炎に飲み込まれていく。
後ろから父と母が追いかけてきた。
翔太まで庭へ飛び込んでくる。
「まだ燃やすのか!」
私から紙を奪おうと飛びついた。
混乱の中。
誰かの身体が、縁側のそばに置かれていた灯油のポリタンクへぶつかった。
容器が倒れる。
灯油が床へ広がった。
次の瞬間。
炎が一気に走った。
誰も状況を理解できないうちに、火は木造の縁側から壁へ燃え移った。
誰かが叫ぶ。
誰かが水を運ぶ。
父と健吾兄さんは、通帳や現金を取り出そうとして何度も家へ戻ろうとした。
私は庭に立ち、古い木造家屋が少しずつ赤い炎に包まれていくのを見ていた。
焦げた賞状の破片が夜空へ舞い上がる。
この家で十数年間。
私と美咲が飲み込んできたものまで。
ようやく全部。
一緒に燃えているように見えた。
消防隊と警察が到着した頃には、火はかなり広がっていた。
幸い、大半の人間は集会所の周辺にいて、家の中に取り残された者はいなかった。
父は警察へ、「澪が賞状に火をつけた」と何度も訴えた。
けれど誰が灯油のポリタンクを倒したのかについては、全員の証言が食い違っていた。
私はその場で簡単な事情聴取を受けた。
警察官は、明日改めて詳しい話を聞くと言った。
家が焼けたため、母は警察官の前で、
「今夜は大庭さんの家に泊めてもらいます。もともと今日は結婚のお祝いだったんです」
と、何でもないことのように説明した。
私は反論しようとした。
けれど父が先に、
「家族の話ですから」
と言った。
地元の警察官は、大庭家も木原家も昔から知っていた。
その場では、婚姻届に私が署名していないことも、部屋に閉じ込められていたことも知らない。
火災現場の処理に追われていたこともあり、「今夜の宿泊先」程度に受け取ったようだった。
消防隊と警察が引き上げ。
村人の多くも家へ戻った。
そのあとだった。
父が私の腕をつかんだ。
「行くぞ」
「嫌だ」
「今さら何を言ってる」
大庭家の人間まで加わり、私は無理やり連れていかれた。
婚姻届には署名していない。
法律上、大庭家の妻でも何でもない。
それでも彼らには関係なかった。
金はもう払った。
村中の前で式もした。
その事実だけで。
私はもう「大庭家へ行く女」だという。
部屋へ押し込まれたあと。
逃げられないよう、両手を布で縛られた。
扉が閉じる。
もう怒鳴る力すら残っていなかった。
身体の奥まで冷たかった。
しばらくすると、足音が近づいてきた。
けれど入ってきたのは。
今日一日、「花婿」と呼ばれていた直人ではなかった。
大庭宗一郎だった。
8
宗一郎は後ろ手で扉を閉めた。
上着を脱ぎながら、薄く笑った。
「大庭の跡継ぎができれば、それでいい」
「お前だって、ちゃんと子どもを産んで大庭の家に馴染めば、悪いようにはしない」
何をするつもりなのか。
一瞬で理解した。
全身から血の気が引いていく。
「直人じゃ、いつになるか分からない」
「こっちは木原家の借金まで背負ってやったんだ。何年も待たされるわけにはいかない」
宗一郎が近づいてくる。
私は必死にもがいた。
「来ないで!」
男の手が肩を押さえつける。
抵抗した拍子に、ウェディングドレスの襟元が裂けた。
噛みつこうと顔を上げた。
その時だった。
扉の向こうを、黒い影が横切った。
「ガンッ!」
スコップが宗一郎の頭すれすれを通り、ベッドの柱へ叩きつけられた。
宗一郎が驚いて床へ転がる。
荒い息のまま顔を上げた。
そこにいたのは直人だった。
けれど、目が違った。
昼間まで、人とほとんど目を合わせようとしなかった男が、今は真っすぐ宗一郎を見ている。
その目は驚くほど冷静だった。
宗一郎が起き上がろうとすると、直人はスコップを構えたまま低い声で言った。
「触るな」
はっきりした声だった。
言葉も普通だった。
私は呆然とするしかなかった。
けれど直人は説明する暇もないと言わんばかりに、まず私の手を縛っている布を外した。
旅行鞄を押しつけてくる。
中には身分証。
通帳。
そしてまとまった現金が入っていた。
「早く行け」
「警察はもう帰った。でも明日になれば、また木原家も大庭家もお前を見張る」
「今しかない」
私は彼を見つめた。
「あなた……」
「ずっと、分からないふりをしてたの?」
直人は一度だけこちらを見た。
「話はあとだ」
「走れ」
私たちは裏口から逃げた。
そのまま村外れにある小さな石橋まで走り続けた。
大庭家の明かりがもう見えなくなった頃。
ようやく足を止めた。
肺が破れそうだった。
橋の欄干につかまり、必死に息をする。
「どういうことなの?」
男は長い間黙っていた。
やがて、静かに口を開いた。
「俺は、大庭家の子どもじゃない」
9
彼は、子どもの頃に連れ去られたのだと言った。
元々は街で暮らしていた。
母親は医師。
父親は高校教師。
自分より年下の弟もいた。
「冬だったことは覚えてる」
「家族で遊園地に行ったんだ」
「途中で父さんと母さんを見失った」
「知らない女の人が来て、『お母さんのところへ連れていってあげる』って言った」
「飲み物を渡されて」
「目が覚めた時には、知らない場所にいた」
それが大庭家だった。
当時、彼はすでに幼稚園へ通う年齢だった。
だから元の家のことも覚えていた。
楢ヶ谷村へ連れてこられたばかりの頃は、毎日「家に帰りたい」と訴えた。
宗一郎夫婦は、それを聞くたびに怒った。
実の両親について話すと殴られた。
「最初は何度も逃げようとした」
「でも、何を言っても『あの子は変なことを言ってる』ってことにされた」
やがて彼は、返事をわざと遅らせるようになった。
人と目を合わせない。
長い話を理解できないふりをする。
何かを聞かれても短い言葉しか返さない。
自分の過去について聞かれれば、覚えていないふりをする。
「そうしてると、そのうち誰も俺を警戒しなくなった」
「俺の前で、普通に金の話もした」
「逃げるためのことを考えてるなんて、誰も思わなくなった」
大庭夫婦には子どもがいなかった。
けれど、彼を正式に養子にする手続きすらしていなかった。
周囲には、「遠い親戚が残していった子どもだ」と説明していたらしい。
住民登録の手続きも曖昧なままで、宗一郎は外では「身体と知的な問題があって、自宅で面倒を見ている」と話していた。
学校にもほとんど通わせてもらえなかった。
「誰も何も聞かなかったの?」
私が尋ねると。
彼は少し笑った。
「聞いた人はいたと思う」
「でも、大庭の家のことだからって、それ以上は踏み込まなかった」
その言葉に。
高橋先生の顔が浮かんだ。
制度がなかったわけじゃない。
疑問に思う人間が、一人もいなかったわけでもない。
けれど。
誰も最後まで問いたださなかった。
彼は私を橋脚の下へ連れていった。
何重ものビニール袋で包まれた小さな箱が隠してある。
開けると、中には黄ばんだ紙が一枚だけ入っていた。
文字はひどく歪んでいた。
小さな子どもが、覚えたばかりの文字を必死に書いたような字だった。
お母さんは医者。
お父さんは先生。
弟は悠斗。
桜ヶ丘団地106号室。
「覚えてるのは、それだけ」
彼が言った。
「全部忘れるのが怖かった」
「だから、文字を書けるようになって最初に残した」
鼻の奥がつんとした。
「じゃあ、どうして今まで逃げなかったの?」
彼は小さく笑った。
けれど、その顔には何の笑いもなかった。
「身分証がない」
「金もない」
「村中の人間が俺を知ってる」
「前に一度だけ逃げたこともある。でも、乗せてくれた運転手が大庭家を知ってて、そのまま連れ戻された」
彼が顔を上げる。
「だから、この村の人間を信じるな」
「先生も、自治会の人間も、駐在所で村の連中と親しくしてる大人も」
「全部悪い人間だって意味じゃない」
「でも、最後には『昔から知ってる人』のほうを信じる」
「まず外へ出ろ」
「木原家も大庭家も、誰も知らないところへ行け」
「警察に行くなら、それからだ」
私は思わず彼の手をつかんだ。
「あなたも一緒に行こう」
彼は首を横に振った。
「俺がどこへ行く?」
「本当の名前すら、ほとんど覚えてない」
「親がまだ生きてるのかも分からない」
「でも、お前は違う」
私の旅行鞄へ視線を向ける。
「勉強ができる」
「大学に受かった」
「ここから出れば、まだ別の人生を生きられる」
私は俯いた。
「でも、合格通知は破っちゃった」
彼は何も言わなかった。
ただ、旅行鞄の一番奥を開いた。
そこに、一枚の紙が入っていた。
透明なテープで、少しずつ丁寧に貼り合わせてある。
私の光峰大学合格通知だった。
端はいくつも欠けている。
真ん中には何本もの裂け目が残っている。
それでも大学名も、私の名前も、合格番号も読めた。
「見つけられた分は、全部拾った」
「それに、合格した記録は大学に残ってる」
「紙が破れたくらいで、お前が合格したことまでなくなるわけじゃない」
傷だらけの通知を胸へ抱いた。
涙が落ちた。
一枚の紙を破ったくらいでは。
私が勝ち取った大学までは。
誰にも壊せない。
別れる前。
私は尋ねた。
「本当の名前、何ていうの?」
彼は長いこと黙っていた。
「名前は覚えてない」
「ただ……たぶん」
「朝倉っていう姓だったと思う」
10
私が楢ヶ谷村を離れた時。
村中から「大庭直人」と呼ばれている男は、石橋のそばに立ったまま私を見送っていた。
かなり遠くまで走ったあと。
一度だけ振り返った。
夜の闇が、彼の身体をほとんど飲み込んでいた。
まともに大人になることすら許されないまま。
枯れ始めてしまった木のように見えた。
ほどなく、村の方角から赤い警光が近づいてきた。
車が彼のそばで止まる。
遠くから、宗一郎が頭を押さえたまま歩いてくるのが見えた。
そして、いきなり彼の顔を殴った。
警察官らしき人が止めようとしている。
また村人たちが集まり始めた。
その中で。
彼はもう一度。
いつものぼんやりした表情へ戻った。
目を合わせず。
何を聞かれても、曖昧に頷くだけ。
まるでさっきまで。
私に「前へ走れ」と言っていた男など。
最初から存在しなかったように。
私は唇を噛んだ。
そして前を向いた。
今度こそ、振り返らなかった。
美咲の姿を忘れなかった。
彼の言葉も忘れなかった。
だから、その後も知らない人間の車にはできるだけ乗らなかった。
腹が減れば、旅行鞄に入れてくれていたおにぎりやゆで卵を食べた。喉が渇けばコンビニや公共施設で水を手に入れ、どうしても眠る場所がなければ、二十四時間営業のネットカフェや駅の待合室を使った。
やがて私は、光峰市の女性相談窓口へたどり着いた。
事情を全部話したわけではない。
それでも、家へ戻れない未成年であることと、無理な結婚話から逃げてきたことを伝えると、一時的な保護先につないでもらえた。
そこで初めて。
私は安心して眠った。
支援員は光峰大学にも連絡してくれた。
大学側は本人確認を行い、私が正式な合格者であることを確認した。
さらに学生課の職員が、入学金の納付猶予や授業料減免、奨学金制度について説明してくれた。
私は日本学生支援機構の奨学金を申し込み、大学の学生寮にも申請した。
「最初から全部、自分で何とかしなくていいんですよ」
学生課の職員にそう言われた時。
なぜか泣きそうになった。
私は生活費を作るため、光峰市でいくつものアルバイトを掛け持ちした。
飲食店の皿洗い。
コンビニの夜勤。
倉庫での仕分け。
金になるなら何でもやった。
そして入学式の日。
学生寮から光峰大学へ向かう路線バスに乗った。
窓の向こうへ流れていく街並みを見ながら。
初めて本当に実感した。
私は。
楢ヶ谷村を出たんだ。
11
それでも恐怖は消えなかった。
父と母が大学の門で待っているかもしれない。
翔太が誰かを連れてきて、私を無理やり村へ戻すかもしれない。
何より怖かったのは、突然警察が現れて、木原家の火事は私の放火だったと言われることだった。
路線バスが次の停留所へ止まった。
野球帽をかぶった若い男性が、大きなキャリーケースを引いて乗ってくる。
車内は混んでいたから、最初はほとんど気にも留めなかった。
けれど私の隣にいた乗客が降り、その男性が代わりに座った。
清潔な洗剤の匂いが漂った。
何気なく横顔を見る。
次の瞬間、身体が固まった。
その顔。
楢ヶ谷村にいた「あの人」と、あまりにも似ていた。
けれど。
同じ人間ではない。
肌は白い。
腕にも、長い間暴力を受けてきたような傷跡はない。
そして何より。
目が明るかった。
私は彼をじっと見つめた。
心臓がどんどん速くなる。
「すみません」
若い男性が不思議そうにこちらを向いた。
「その……」
「朝倉さんですか?」
明らかに驚いた。
「そうですけど」
私は思わず腕をつかんだ。
「悠斗?」
男性の顔色が変わる。
「どうして俺の名前を知ってるんですか?」
「お兄さん、いませんか?」
「小さい頃、遊園地でいなくなったお兄さん」
「お母さんは医師で、お父さんは高校の先生で、昔は桜ヶ丘団地106号室に住んでた。そうですよね?」
話しているうちに、自分でも気づかないほど声が大きくなっていた。
車内の人たちまでこちらを見ている。
朝倉悠斗は、私の手を強く振り払った。
「あなた、誰なんですか?」
涙がこぼれた。
「お兄さんの友達です」
「お兄さんがいるかもしれない場所を知ってます」
悠斗の最初の反応は。
私を信じることではなかった。
警察へ通報した。
その行動に。
私はむしろ安心した。
少なくとも彼は。
何でも「身内だけで解決しよう」とはしなかった。
12
警察はすぐにやって来た。
朝倉悠斗の両親も、近くの街から警察署へ駆けつけた。
二人とも、到着した時には目が真っ赤だった。
特に母親は、私を見るなり何度も同じことを聞いた。
「生きてるんですか?」
「本当に……私の子は、生きてるんですか?」
私は頷いた。
朝倉夫人は、その場にしゃがみ込んで泣き始めた。
もちろん、警察も私の話をそのまま信用したわけではなかった。
まず過去の児童失踪事件の記録を調べた。
失踪した少年は当時六歳。
母親は医師。
父親は高校教師。
家には悠斗という弟がいた。
失踪前の住所も、桜ヶ丘団地106号室だった。
私が話した情報は、すべて当時の資料と一致した。
雪森県警は続いて、楢ヶ谷村を管轄する警察へ連絡した。
そして、村には確かに年齢の合う成人男性が長年暮らしていることが分かった。
大庭家は彼を「遠い親戚が残した子ども」だと説明していたが、戸籍や住民登録の状況と、実際に村で暮らしてきた経歴には明らかな食い違いがある。
そこまで確認したうえで。
警察は正式に楢ヶ谷村へ向かうことを決めた。
その時。
私は木原家の火事が、その後どう扱われているのかも初めて知った。
父と母は確かに警察へ届け出を出していた。
私は故意に家へ火をつけたのだと主張していた。
けれど現場調査では、最初の火は庭で賞状を燃やしていた焼却缶から出ており、その後の混乱で灯油のポリタンクが倒れ、住宅へ延焼した可能性が高いと見られていた。
当日は人も多く。
証言も食い違っていた。
そのため、私が最初から住宅そのものを焼こうとしていたとは断定されていなかった。
担当の警察官が、もう一つ教えてくれた。
「君がいなくなったあと、大庭家の若い男性が何度も『火をつけたのは自分だ』と言っていた」
私は息を呑んだ。
「本人が?」
「まともな供述とは言えないけどね」
警察官が眉を寄せた。
「自分がやったと言ったかと思えば、そのあと何も答えなくなる。具体的にどう火をつけたのか聞いても、説明できない」
胸の奥が重く沈んだ。
あの人は。
私の火事まで。
自分のせいにしようとしていた。
必要な確認が終わったあと。
私は警察と朝倉夫婦と一緒に。
楢ヶ谷村へ戻った。
13
警察車両が村へ入ると、ほとんどの住民が外へ出てきた。
私の父と母も、その人混みの中にいた。
母は最初、こちらを見てもすぐには反応しなかった。
村を出てからは屋内の仕事が増え、髪も短く切り、眼鏡もかけていた。
服も、自分で稼いだ金で買ったものだった。
数秒して。
母の目が大きく見開かれた。
「……澪?」
私は答えなかった。
警察が先に大庭家へ向かった。
私と朝倉夫婦は、少し離れた場所で待つよう言われた。
宗一郎は家の前で煙草を吸っていた。
最初は訳が分からないという顔をしていた。
けれど。
警察車両のそばにいる朝倉悠斗を見た瞬間。
顔から血の気が引いた。
あまりにもよく似た二つの顔。
一人は。
村で「大庭直人」と呼ばれてきた男と。
そっくりだった。
宗一郎が家へ逃げ込もうとした。
警察官が先に進路を塞いだ。
捜査員が、長年保管されていた一枚の写真を取り出した。
六歳くらいの男の子。
丸い顔で。
楽しそうに笑っている。
「この子を知っていますか?」
「朝倉朔也です」
息が止まった。
朔也。
それが。
彼の本当の名前だった。
やがて家の中から、何かが割れる音が聞こえた。
少しして、支援スタッフと警察官が一人の男を連れてきた。
その姿を見た瞬間。
胸が沈んだ。
同じ顔だった。
けれど。
あの夜の目ではなかった。
朔也は肩をすぼめ、怯えたように部屋の隅へ下がろうとする。
誰かが急に近づけば、強く拒絶した。
大きな声を出し、手の届くものを払い落とす。
悠斗が呆然と私を見た。
「あなた……言いましたよね」
「兄貴は、前は演技してたって」
私は答えられなかった。
あの頃。
彼は確かに演じていた。
けれど今は。
長年の暴力と支配。
そのあとに何度も受けた頭部への外傷。
すべてが重なって。
かつて自分を守るために作った振る舞いと。
本当に抱えている障害との境目が。
もう簡単には分からなくなっていた。
宗一郎が慌てて叫んだ。
「こいつは買っ……いや! 小さい頃からこうなんだ!」
そこまで言った瞬間。
本人が先に固まった。
警察官たちの表情も変わった。
その後の捜査で、過去の資料とDNA鑑定から、彼が朝倉朔也本人であることが正式に確認された。
さらに、大庭家が正式な養子縁組をしていなかったことも分かった。
捜査を進めるうち、宗一郎夫婦が当時、子どもを欲しがって違法な仲介をしていた人物へ金を渡していた疑いも浮かび上がった。
遊園地で朔也を連れ去った女が、その仲介に関わっていた可能性もあるという。
朔也はまともな教育を受けられず。
住民登録や戸籍上の扱いも不自然なままだった。
それでも長年問題にならなかったのは、制度が存在しなかったからではない。
村で。
「大庭さんちの事情だから」
という一言が。
何度も疑問を止めてきたからだった。
当時の児童失踪事件。
子どもが違法に連れ去られた経緯。
そして大庭家が長年にわたって本当の身元を隠してきたこと。
すべて、改めて捜査されることになった。
それでも宗一郎は。
最後まで朔也を一人の人間として見ていなかった。
「何年も俺たちが食わせてきたんだ」
「連れていくなら、その分くらいは考えてもらわないとな」
朝倉夫婦は一瞬、何でも払うという顔をした。
警察がすぐに制止した。
「これは売買ではありません」
「今ここで金銭の話をする場面でもありません」
宗一郎は不満そうだった。
それでも、今まで食事にいくらかかった、服にいくら使った、そんな話ばかりを続けた。
最初から最後まで。
朔也が痛かったかを。
一度も聞かなかった。
本人が。
帰りたいかどうかさえ。
一度も。
14
実際に朔也を大庭家から連れ出すことは、誰もが想像した以上に難しかった。
彼はもう、実の両親を覚えていなかった。
二人が近づくことにも、強く怯えた。
朝倉夫人が涙を流しながら、たった一度、
「朔也」
そう呼んだだけで。
彼は部屋の奥へ逃げ込んだ。
最終的には医師や支援スタッフが長時間対応し、少しずつ大庭家の敷地から離れることができた。
楢ヶ谷村を出る前。
私は、美咲が入院していた病院へ立ち寄った。
担当だった医療ソーシャルワーカーは、まだ妹を覚えていた。
「木原美咲さんなら、もうここにはいません」
胸が締めつけられた。
「どこへ行ったんですか?」
ソーシャルワーカーは少し迷ってから答えた。
「DV被害者向けの支援機関につながりました。お子さんたちも児童相談所で一時保護されていて、美咲さん自身も今後一緒に暮らせるよう支援を受けています」
「今、どこに……」
「申し訳ありません。安全上の理由から、本人の同意なしに居場所をお伝えすることはできません」
私は唇を噛んだ。
それでも。
少しだけ安心した。
美咲は田所家へ連れ戻されたわけではない。
子どもたちも。
あの家に置き去りにはされていない。
ソーシャルワーカーが続けた。
「お姉さんを探したい、と話していました」
私は自分の連絡先を書いた。
「もし美咲が私を探しに来たら、これを渡してください」
「私は、ずっと同じ名前でいますから」
帰り道。
警察車両はもう一度、木原家の前を通った。
古い家は火事で焼け。
家族は隣の物置小屋を仮住まいにしていた。
母は入口に座っている。
翔太は父と金のことで言い争っていた。
健吾兄さんは作業道具を担いだまま、二人の横を黙って通り過ぎた。
その近く。
健吾の妻が子どもの手を引いて立っていた。
彼女は昔から、美咲が結婚した金で自分たちの結婚費用が出たことを知っていた。
ずっと居心地が悪そうにしていた人だった。
木原家の惨状をしばらく見たあと。
彼女は母に向かって何か小さく言った。
車の中からは聞こえなかった。
ただ。
母が顔を上げ。
何も言い返せなかったことだけは見えた。
私は前を向いた。
それきり。
二度と振り返らなかった。
15
その後、私は一度も楢ヶ谷村へ戻らなかった。
朝倉夫婦は朔也を光峰市内の病院へ連れていき、長期的な治療と生活支援を受けさせた。医師によれば、長年の暴力や支配、極端な生活環境に加えて頭部外傷の痕跡もあり、認知面や情緒面の問題はかなり複雑だったという。
物語のような奇跡は起きなかった。
一晩眠ったら、突然すべてが元通りになる。
そんなことはなかった。
それでも時間をかけるうち、見知らぬ人を見るだけで激しく怯えることは減っていった。
実の父と母が、自分を傷つけない人間だと少しずつ理解した。
そのあと。
悠斗が弟であることも覚えた。
そして。
もう少し時間が経った頃。
自分の本当の名前を受け入れた。
朝倉朔也。
今でも、単身で生活するには支援が必要だった。
それでも自分で食事をし、洗濯をし、慣れた路線なら一人でバスに乗れるようになった。
時々、私は朔也と一緒に簡単な作業をした。
イベントのチラシを配れば、子ども向けの案内は小さな子どもを連れた人へ渡す。
終了時刻が近づけば、私より先に気づいて残った資料をまとめ始める。
私は時々、わざとからかった。
「朝倉朔也」
「たまに私より要領いいよね」
意味が分かると、朔也は少し得意そうに笑った。
かつて、生きるために「何も分からない人間」を演じなければならなかったその顔に。
少しずつ。
朔也自身の表情が戻っていった。
朝倉夫婦は、ずっと私に感謝してくれていた。
悠斗に何かを送る時には、私の分まで用意してくれることがあった。
年末年始に帰る場所がないと分かれば、悠斗が、
「澪さんも来ればいいじゃん」
と誘ってくれた。
初めて朝倉家の食卓へ座った日。
私はひどく落ち着かなかった。
私が女だからという理由で、先に台所へ立てと言う人はいない。
一番いい料理を、全部息子の皿へ載せる人もいない。
誰も、
「娘はいずれ、よその家の人間になる」
とは言わなかった。
その夜。
私は初めて分かった。
家というのは。
同じ名字を名乗ることじゃない。
血筋を絶やさないことでも。
跡取りを残すことでもない。
同じ食卓に座っている時。
いつか自分が。
誰かのために金へ換えられるのではないかと。
怯えなくていいこと。
きっと。
それが。
本当の家なんだ。
大学に通った四年間。
私は美咲を探すことも諦めなかった。
当時入院していた病院へ問い合わせ、彼女を助けてくれた支援機関にも定期的に連絡した。
けれどDV被害者の安全とプライバシーを守るため、美咲がどこで暮らしているのか、第三者である私には教えられないと言われた。
だから、自分の名前と連絡先だけを何度も確認した。
その間。
美咲も自分の生活を立て直していた。
あとで知ったことだが、彼女は支援施設で治療と生活再建を続けながら、子どもたちと再び暮らすための準備をしていた。
児童相談所や支援員の助けを受け、少しずつ親子で過ごす時間を増やした。
やがて、二人の子どもと再び一緒に暮らせるようになった。
仕事を探すため。
美咲は介護職員初任者研修も受けた。
その後は、高齢者や障害のある人の日常生活を支える仕事を始めたらしい。
けれどその頃の私は。
まだ何も知らなかった。
16
四年後。
私は光峰大学を卒業した。
卒業証書を受け取った日。
正門の前で、長いこと立ち止まっていた。
あの日、自分で破いた合格通知。
朔也が一片ずつ拾い集め、テープで貼り直してくれた合格通知。
私はずっと大切に持っていた。
透明なテープは、もう黄ばんでいる。
紙にはいくつもの裂け目が走っている。
それでも氏名欄だけは、今もはっきり読めた。
木原澪。
卒業後、私は安定した仕事に就いた。
生活も少しずつ忙しくなっていった。
朝倉夫婦も年齢を重ね、仕事で家を空けることが増えていたため、朔也の日常生活を支えるスタッフを、家事・生活支援の事業所を通して探すことになった。
面談の日。
私はたまたま朝倉家にいた。
台所で料理をしていると、玄関のチャイムが鳴った。
少しして。
居間から女性の声が聞こえた。
「こんにちは」
「家事・生活支援の事業所から紹介を受けて参りました」
包丁を持っていた手が止まった。
その声。
四年経っていても。
たった一言しか聞いていなくても。
間違えるはずがなかった。
居間の女性が続ける。
「木原美咲と申します」
「本日はよろしくお願いいたします」
手が震え始めた。
包丁が指から滑り、まな板の上へ落ちた。
カタン、と小さな音がした。
居間が静かになった。
数秒後。
こちらへ近づいてくる足音が聞こえた。
私は動けなかった。
まだ姿も見ていないのに。
涙だけが先に頬を伝った。
台所の入口に。
一人の女性が立っていた。
ずいぶん痩せていた。
髪は肩まで短くなっている。
四年前、繰り返す妊娠と暴力でむくんでいた顔ではなかった。
ただ、目尻に。
私の記憶にはなかった細い皺が少し増えていた。
美咲が私を見る。
私も美咲を見る。
どちらも。
すぐには何も言えなかった。
長い沈黙のあと。
美咲の唇が、小さく震えた。
「……お姉ちゃん」
私は駆け寄った。
美咲を力いっぱい抱きしめた。
しばらくして。
泣きながら。
笑いながら。
どうしてここへ来たのかを聞いた。
美咲は、女性支援機関に残されていた私の連絡先を、ようやく受け取ったのだと言った。
私が朝倉家と親しくしていることも知った。
ちょうど自分が所属している生活支援事業所に朝倉家から依頼が入った時。
担当者に頼み、自分を紹介してもらったらしい。
「電話しようとも思ったんだけど」
美咲が笑った。
「ちゃんと自分の足で会いに来たかった」
私はまた泣いた。
美咲は支援施設を出たあと、二人の子どもと暮らすために仕事を始めた。
子どもたちも今は一緒に生活しているという。
田所家へ戻ることはなかった。
四年前。
楢ヶ谷村のあの窓の下で。
美咲は私に、身分証と通帳と光峰大学の合格通知を渡してくれた。
逃げろと言った。
大学へ行けと言った。
絶対に。
自分のようになるなと。
あの日。
私は約束した。
自分で生きていけるようになったら。
必ず迎えに来ると。
けれど結局。
私たちは二人とも。
あの村へ戻ることはなかった。
楢ヶ谷から遠く離れた街で。
それぞれ自分の足で立って。
もう一度。
お互いを見つけた。
ずっとあとになって。
私はようやく分かった。
本当の意味で逃げ出した瞬間は。
あの夜。
山道を抜けた時ではなかった。
いつか誰かに。
「あなたは、どこの家の娘なの?」
そう聞かれた時。
私はもう。
静かに答えられる。
私は、木原澪。
ただ、それだけでいい。
私は、私だ。
――完――




