アーク0 プロローグ
初めて者を書く素人ですので、亀更新になるかと思いますが、『辞書の禁則』応援お願い致します。
朝の屋敷は、磨かれた床が窓の光を返していて、甘いパンの匂いと、湯気の立つ紅茶の匂いが重なって、世界はちゃんと“整っている”はずだった――
俺が幼い頃、名前を呼ばれるたびに振り向くのが当たり前で、呼ばれ方には癖があって、父は短く、母は少し伸ばし、使用人は丁寧に語尾を揃える、その違いが心地よくて、俺はそれを面白がって真似していた。
あの日もそうだ、食堂へ駆け込んで「おはよう!」と声を張った瞬間、母が振り向いて笑いかけ、口を開いた――のに、声が出ない、母の唇だけが動いて音が落ちない、落ちたはずの音が床へ届く前に消えてしまうみたいに、空気がすかすかに抜ける。
次いで父が不機嫌そうに何か言った、低い声が響いたはずなのに、俺の耳には“意味だけ”が刺さって、音が付いてこない。
怖くなって俺は自分の名前を言おうとした、家中の誰もが当たり前に呼ぶあれを、ただ確認したかっただけなのに、舌が空回りして、喉から出たのは途中でちぎれた息みたいな音だった。
笑ってごまかせると思って、俺は両手を広げてふざけた調子で言ったつもりだった、「ぼく、ここだよ」――けれど言葉は勝手に別の形を取って、空気のどこかで硬い音に変わり、椅子がぎいっと床を裂くように動き、銀のスプーンが皿から跳ね、カップの縁が欠ける。
使用人が慌てて「大丈夫です」と言った、その“大丈夫”が、今度は本当に大丈夫ではないものを呼び寄せたみたいに、窓際の花瓶が揺れ、揺れた花瓶が落ちる前に止まり、止まったまま宙に貼り付いて、次の瞬間、貼り付いたまま割れた。
割れた破片だけが遅れて落ちて、床に散る。
父が声を荒げる、母が俺の腕を掴む、掴まれた腕が痛いのに言葉が出ない。
俺はただ「ごめん」と言いたいのに、その“ごめん”がどこかで別の語になりそうで、怖くて息を止めた。
屋敷の整った朝が、音のないまま壊れていく。
そこへ玄関の扉が開く音がした。
空気が一枚、静かに引き延ばされるみたいな気配と一緒に、若い男が入ってきた、豪奢な広間に場違いなほど軽い足取りで、でも目だけは笑っていない、仕事の目だ。
胸元に小さな章が光っていて、誰かが「語法官だ」と呟いたのが聞こえた。
男は父の怒鳴り声を受け流し、床に散った欠けた陶片を一瞥し、宙に貼り付いたまま歪んでいる空気の端を確かめるように指を伸ばし、指先を引っ込めてから小さく息を吐いた。
そして俺を見た。
俺は助けてと言えない、言えばまた壊れる気がした。
男はそれを見抜いたみたいに口角だけを上げて、子どもに話しかける時の声で言った、「いい。しゃべらなくていい。いまは“聞こえる形”を戻すだけだ」
腰の袋から黒い紙片を一枚取り出し、床に置き、短い一行を書いた。
読めたのは「ここでは音が落ちる」だけだった。
たったそれだけで、母の声がふっと戻った、「……大丈夫?」――音が付いた“ことば”が戻ると、世界の輪郭が一気に現実になる、父の荒い息も、割れた皿の欠けも、使用人の足音も全部、俺は泣きそうになったが泣いたらまた何かが崩れそうで、必死に笑ってみせた。
男は俺の笑いを見て、ほんの少しだけ目を柔らかくした、「うん。その顔なら戻せる」
それから男は立ち上がり、父に向けて早口で何かを言った、難しい言葉じゃない、手順の言葉だった、「これ以上、声を重ねないでください」「同じ言い回しを繰り返さないでください」「子どもから離れて」
父は不満そうに眉をひそめたが、男の指示に従うしかなかった。
屋敷の空気は落ち着き、花瓶の破片も、宙の歪みも、ゆっくりと“落ちるべき場所”へ戻っていった。
俺は助かった、確かに助かった――その瞬間、廊下の奥から、別の叫びが聞こえた。
甲高い、息が詰まる声だ、
「だめ! そこ、入っちゃ――」
言葉が途中でちぎれ、次に重い音がした、何かが倒れる音、そして、短い沈黙。
男の表情が変わった。
さっきまで軽く見せていた足取りが一瞬で消え、肩が固くなる。
男は廊下の奥を見て、俺を見て、父を見た。
選ぶ顔だった。
父が怒鳴った、「先にこっちを――」
母が震える声で「お願い」と言い、使用人が動揺して足を止める。
その止まった一拍の間に、廊下の奥からもう一度、かすれた声が聞こえた。
助けて、と言えないまま潰れる声だった。
男は歯を食いしばり、低く言った、
「……ここは縫った。これ以上触ると、もっと裂ける」
そして母に黒い紙片の束を押し付けるように渡し、父には冷たい声で釘を刺した、「あなたがたの声は強い。強い声ほど事故を広げます。黙って、記録だけしてください」
最後に俺の目を見て、子どもにだけ分かる小さな合図みたいに指を二本立てた、
「呼び名が落ちても、拾い方はある。覚えとけ」
そう言って男は廊下の奥へ走った。
走りながらもう一枚札を落とした。
落ちた札には何か書きかけの一行があって、でもその一行は最後まで書ききられていなかった、急いでいるからだ。
俺はその札を拾おうとして、拾う手が止まった。
拾えばまた何かが変わる気がした。
廊下の奥で人が集まる足音、誰かの泣き声、誰かの怒鳴り声、そして男の声が一度だけ響いた、
「間に合わない……!」
その一言が、今でも耳に残っている。
語法官は来れば全部救うんじゃない。
救える場所と救えない場所があって、救うというのは選ぶことで、選ぶたびに誰かが取り残される。
その痛みを背負って走る職業なんだと、幼い俺はそこで初めて知った。
屋敷の食堂に戻った母は俺を抱きしめながら、何度も俺の名前を呼ぼうとして、呼べずに喉を詰まらせた。
父は怒りのままに誰かを責める言葉を探し、でも言葉が怖くて黙った。
床の上には黒い札が残っていて、「ここでは音が落ちる」という一行だけが、まるで縫い跡みたいに朝の光を吸っていた。
俺はその札を見つめながら、助かった安堵より先に、廊下の奥の沈黙を抱えた。
そして心の中でだけ決めた。
いつか自分の口で誰かを押さえるんじゃなく、誰かを縫える側に立つ。
でも同時に、縫っても間に合わない瞬間があることからは逃げない――
その日、俺の“呼び名”は完全には戻らなかったらしい。
母が呼ぶたび、ほんの一音だけ引っかかる癖が残った。
それが恥ずかしくて、でも妙に手触りがあって、俺はその欠けを指でなぞるように胸の奥へしまい込んだ。
プロローグを書くだけでヘトヘトですね。




