8.開いた鍵
「今日はルカ様はいらっしゃいませんの?」
あれから何度も通い続けているロイ様の家。毎度くたくたになって下に降りると、おいしいお茶とお菓子、この家の住人達とのおしゃべりが待っていた。
今日はレン様とハロルド様の2人しか見当たらない。
ルカ様の場所には猫のジェットが丸まって寝ていた。
「ルカは今日出かけているんですよ」
ハロルド様が答えてくれる。
なぜか、どことなく寂しさを覚える。
「何だ、元気ないじゃん。何?ルカがいないの寂しいの?」
見透かしたように、レン様がからかうように言ってくる。
「そんなんじゃありません。ただ、いつもいらしたから…」
「じゃあ、会いに行くか?」
「え?」
レン様の提案にハロルド様とロイ様が慌てる。
「何を言ってるんですか?ステラ嬢をあそこに連れて行く気ですか?」
「あなた、あそこに行くまでステラに何かあったらどうするの⁉」
お二人がそこまで言うなんて、ルカ様は一体どこに行ったの?
「別に貧民街ってだけだろ」
貧民街—その言葉に、胸がざわついた。
「貧民街って……あの、治安が悪いって噂の?」
「まあな。元々は戦争や厄災で逃げてきた連中が住み着いた場所だ。ドラゴンの瘴気で村が潰れたとか、そういう話は聞いたことあるだろ?」
私は小さくうなずいた。教本で読んだことはある。でも、現実のそれは、もっと生々しいのだろう。
「仕事も住む場所もなくて、行き場を失った人たちが集まってできたのが、あそこさ。王都にもあるぜ、もっとでかいのがな」
レン様の声には、どこか冷めた響きがあった。
「ルカ様は……なぜそこに?」
「孤児院育ちだよ。育ててもらった恩返しだって、今でも寄付してる。」
思わず息を呑んだ。ルカ様が、あの場所の出身—?
ルカ様も、てっきりレン様たちと同じような育ちだと思っていた。
レン様の尊大な態度、ロイ様の学歴、ハロルド様の所作—どれも貴族のそれに見えたから。
だから、ルカ様も当然そうだと、勝手に思い込んでいた。
「ステラ?」
黙ってしまった私に、レン様がわざとらしく首をかしげる。
「ルカが貧民街出身でがっかりした?」
その言い方に、からかいと探るような色が混じっていた。
思わず苛立ちがこみあげる。
「は?なんでですか?」
「貴族の中には貧民街に住む者たちを人とも見ない奴らが多いだろう?」
その言葉にカッとなって、私は立ち上がった。
「私をそんな人たちと一緒にしないでください!ルカ様は私の命の恩人です!っていうか、恩人じゃなくても貧民街出身だからなんだっていうんですか⁉育ててもらったからだとしても、そうやって寄付をしたり、自分の命を張って人を助けることができる人に対してがっかりするわけないじゃないですか。むしろ尊敬の念しか抱きません!」
言い終えた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
—静寂。
レン様が含み笑いを浮かべながら、私の後ろに視線を向けた。
「だそうだ、ルカ」
へ?
振り返ると、そこにルカ様が立っていた。ドアの影から、いつの間にか。
「ル、ルカ様……⁉」
顔が一気に熱くなる。どこから聞かれてたの⁉
「人のこと、ペラペラしゃべりやがって」
そう言いながらも、ルカ様の目はどこか優しくて、怒っているようには見えなかった。
「別に隠してないだろ」
悪びれもせずにレン様が答えると、ルカ様は「そうだけど」と、ため息をついた。
ルカ様はそっと私の横に立ち、ぽんと頭に手を置いた。
「ステラ、ありがとう」
その言葉に胸がぎゅっとなる。
見上げると、優しい瞳が、まるで私の心を見透かすように揺れていた。
その瞬間、心の中で、鍵が外れる音がした。
何の鍵が外れたか―、気づきたくなかった。
だからこそ、私の口から出た言葉は、皆を驚かせた。
「…私もそこへ行ってみたいです」
「だめです!」
真っ先にアンの声が飛んできた。
言われると思ったがむきになって返す。
「何で?」
「危険です!そもそも、そんな事、旦那様がお許しになりません!」
「貧民街だから危険って思い込む方が危険よ。そもそも、私は何も知らないの。知識としては知っていても、実情は何一つわかってない。…ちゃんと、わかりたいの!この国のこと!」
私の思いが届いたように、アンの言葉が詰まる。
一瞬静かになった部屋に笑いを押し殺す声が聞こえた。
ルカ様だった。
突然笑いだすルカ様に、皆が唖然とする。
「お前、何を笑っているんだ」
「いや、ちょっと昔のこと思い出して。レンと同じこと言ってんなって」
「え?俺、あんなこと言った?」
「言った言った」
二人のやり取りを尻目に、アンが言う。
「お嬢様のお気持ちはわかりました。でも、私は判断を下せる立場ではないので、旦那様に伺います」
「お父様がいいって言ったらいいの?」
アンは大きくため息をついて、冷静な面持ちのまま、ルカ様に顔を向けた。
「…ルカ様、その際は、お嬢様をお願いしてもよろしいですか?」
「うん。もちろん」
アンはまた一つため息をついた。
窓の外では、夕暮れの光が静かに部屋を染めていた。
その横顔には、ほんのわずかに影が差していた。




