60.勇者の願い
竜を討った翌朝、空は驚くほど静かだった。
夜明け前の領主館はまだ眠りの名残を抱えたまま、薄い霧に包まれている。
戦勝の余韻も、歓声も、今は遠い。
俺は窓辺に立ち、東の空がわずかに白むのを眺めていた。
胸の奥に残るのは、昨日の光景だ。
瘴気が晴れ、倒れ伏した竜の巨体。
血にぬれた弓と、震えていた自分の指先。
――終わった。
そう思って、ようやく眠りについたはずだった。
違和感に気づいたのは、目を覚ましてすぐだった。
右手が、妙に熱い。
俺は無言のまま、ゆっくりと手の甲を見下ろした。
そこにあった。
王家にのみ現れる、紋章。
代々、神に認められた瞬間に浮かび上がるという――王の印。
肌の内側から滲みだすように、はっきりと刻まれている。
「……来たか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
覚悟がなかったわけではない。
兄たちの死、竜の復活、託された弓――すべて、この瞬間へと繋がっていたのだと、頭では理解していた。
それでも。
印を帯びた手は、確かに重い。
この手で、どれほどの決断を下すことになるのか。
この手で、どれほどの願いを受け止めることになるのか。
俺は拳を握り、そして、静かにほどいた。
逃げない。
背を向けない。
あの戦場で、誰よりも前に立った者たちの顔が浮かぶ。
剣を振るった者。
魔法を展開した者。
瘴気を無効化し、仲間を守り抜いた者。
俺は、生き残っただけじゃない。
彼らの未来を預かる立場に立ったのだ。
「王になる、か」
独りごちて、苦く笑う。
選ばれたのではない。
押しだされたのでもない。
――自分で、この場に立った。
窓の外で、朝の鐘が鳴り始めた。
町が、国が、ゆっくりと目を覚ます音。
俺は背筋を伸ばし、印の刻まれた手を胸元に引き寄せる。
「……受け取ろう」
それが、誰かの願いを叶えるための力であるなら。
誰かの人生を変える責任であるなら。
この手で、最後まで。
王の朝は、こうして静かに始まった。
******
瘴気の後処理に予想以上の時間を要し、ステラを含めた一部の隊員と俺が所属する支援部隊の帰還は、他の部隊よりも数日遅れた。
戦場はすでに沈黙していたが、血に染みついた瘴気はしぶとく残り、放置すれば人を蝕む。
最後まで残ったステラたちの働きがなければ、討伐はただの“勝利”で終わらず、後に禍根を残していたはずだ。
王都の城門が視界に入った瞬間、俺の胸の奥で張り詰めていたものが、音もなくほどけた。
「……帰ってきた」
誰に向けたとも知れない呟きは、吹き抜ける風にさらわれて消えた。
石畳の続く道の先、城門の前には人だかりができている。行き交う商人、門番に声をかけられる旅人、そのざわめきの中から、ひときわ慌ただしく動く影があった。
「あ……!」
次の瞬間、駆け出してくる声が弾ける。
「ステラ!」
聞きなれた声に向かって、横にいたステラも走り出す。
「フレイヤ!」
互いに名を呼び合い、抱きしめ合う。強く、確かめるように。
ステラの腕の中で、フレイヤの肩が小さく震えた。
……恋人より親友に先に駆け寄ったことに、ほんの少しだけ嫉妬を覚える。
けれど、二人が抱き合う姿を見た瞬間、それはすぐに溶けていった。
「よかった……本当に……」
「うん……ごめんね。心配かけて……」
二人の言葉は途中でほどけ、涙に混じって消える。
生きて、ここに立っている。それだけで、すべてが報われる気がした。
俺は腕を組んで、泣きじゃくる二人を見守った。
「……おいおい。再会早々、二人とも泣きすぎだろ」
そう言いながらも、目元が熱いのは自分でもわかっていた。
フレイヤが涙をぬぐい、こちらを向く。
「トビアス……あなたも……」
「約束しただろ。ちゃんと帰ってくるって。ステラを連れてな」
言葉にした途端、胸の奥がまた熱くなる。
本当に、無事でよかった。
――その時だった。
「ステラ」
低く落ち着いた声が背後から響いた。
振り向くと、そこに意外な人物――ルカ・ヘイル隊長が立っていた。
戦場用の装いではなく、王都に溶け込む騎士の服装。
殿下――、いや、今は陛下だ――と共に先に王都に帰還していたはずだ。
背筋の通った立ち姿と、静かな存在感に、おもわず息を呑む。
隣に立つステラが、隊長に話しかける。
「ルカ様……紹介したい人がいます」
ステラの声はどこか緊張を含んでいた。
ヘイル隊長は一瞬だけ目を瞬かせ、小さく頷く。
親し気な二人の様子に、頭が追い付かない。
「親友のフレイヤと、従兄弟のトビアスです」
「……あ」
思わず間抜けな声が漏れた。
慌てて姿勢を正し、敬礼する。
「し、失礼しました!宮廷騎士団八番隊所属、トビアス・スタンリーです!」
勢いよく敬礼する姿に、ステラが慌てて声をあげた。
「え、ちょ、トビアス!?」
だが隊長は困ったように笑った。
「そこまで畏まらなくていい。……それに」
俺を見下ろし、わずかに口角を上げる。
「君には以前負けたことがあるな」
「……っ!あれは、ヘイル隊長が不調であっただけで!勘違いするなと先輩方からも注意されています!」
顔が熱くなる。
フレイヤが小さく笑った。
くそ、恥ずかしい。
「それでステラ。この方は?」
フレイヤが尋ねる。
ステラは一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
その横顔を見て、胸がざわつく。
そして、彼女は言った。
「ルカ・ヘイル様。私の……」
ひと呼吸おいて。
「大切な人」
空気がぴたりと止まった。
「…………ええええ!」
思わず叫んでしまった声が城門前に響く。
「ちょっと、トビアス!」
「あっ!失礼しました!」
俺は慌てて頭を下げた。
隊長は肩を揺らして笑っている。
その笑顔を見て、胸の奥が妙に静かになった。
城門をくぐると、王都の喧騒が一気に戻ってくる。
ステラと隊長は並んで歩きだした。
その背中を、俺とフレイヤは並んで見送る。
「……不思議ね。二人が並ぶと、すごくお似合い」
フレイヤが小さく囁く。
「ああ。……本当に驚いたけどな」」
俺は肩をすくめた。
「昔から、あいつには驚かされっぱなしだ。……まさか、ヘイル隊長とは」
「どんな方なの?」
「……普段は穏やかな人なんだけど、剣を持つと怖いくらい別人」
「……ステラ、大丈夫かしら」
「うん。大丈夫」
「なんで言い切れるの?」
「あの人が、あんな顔をするのは初めて見た」
ステラを見るその目は、優しくて、柔らかい。
それはきっと――俺がフレイヤを見る時と同じだ。
フレイヤが微笑む。
「そう。……ステラ、きっと幸せになるわね」
「……ああ」
人混みに紛れながらも、二人の背中は確かに並んで、前へ進んでいた。
その姿を見送りながら、胸の奥に小さなざらつきが残る。
喜びと、寂しさと、そして――これから何かが動き出す予感。
――この帰還は、ただの終わりじゃない。
新しい物語の始まりだ。
その確信が、胸の奥で静かに形を成していた。
******
王宮内の会議室は、朝の光を受けて静まり返っていた。
長机を囲むのは、この国の柱そのものだ。
騎士団長、魔法師団長、研究師団長。
討伐に同行した辺境伯。そしてロイとハロルド。
その中心に、俺は立っていた。
右手の甲を浮かぶ印は、否応なく視界に入る。
王の印――逃げ場のない現実。
「……まず、報告を」
思ったよりも落ち着いた声が出た。
騎士団長が一歩前に出る。
「竜は完全に沈黙。瘴気の再発生も確認されていません。封印地周辺も安定しています」
魔法師団長が続く。
「無効化の残滓も急速に薄れています。今回は“封印”ではなく、確実に討ち果たしたとみていいでしょう」
室内の空気がわずかに緩む。
だが、ここからが本題だ。
研究師団長が、慎重に口を開いた。
「……陛下」
その呼び方に、俺は眉一つ動かさなかった。
もう、驚く段階は過ぎている。
「王の印が現れた以上、もはや否定の余地はありません。儀式を待たずとも、王位は――」
「わかっている」
静かに言葉を遮る。
「だからこそ、今日ここに集まってもらった」
ロイが、横から視線を寄こす。
「勇者の扱い、ですね」
その一言で、全員が察した。
辺境伯が、腕を組んだまま口を開く。
「童話『勇者の約束とご褒美』。あの最後は実話です。つまり――」
アレンが引き継ぐ。
「竜を討伐した勇者には願いを叶える権利がある」
騎士団長が低く唸る。
「……誰を、勇者とするか」
その問いは、重い。
誰が一番前に立ったのか。
誰が致命傷を与えたのか。
誰が矢を放ったのか。
どれも、正解になり得る。
だが――
「答えは、最初から決まっている」
全員の視線が俺に集まる。
「瘴気を無効化し、戦線を維持し、誰一人欠けることなく討伐に至らせた人物」
ハロルドが、短く息を吸った。
「……ステラ様」
「ああ」
俺は頷いた。
「彼女がいなければ、騎士団は前に出られなかった。魔法師団も、弓も、意味をなさなかった」
ロイが苦笑する。
「現場にいた全員が、それを知っています」
研究師団長も静かに頷いた。
「勇者の定義は、“最も多くを救った者”。今回、その条件を満たすのは彼女しかいない」
その中で、辺境伯がゆっくりと目を閉じた。
「……姪が、その役を背負うことになるとはな」
だが、その声には誇りがあった。
騎士団長が俺を見る。
「陛下。勇者に与えられる“ご褒美”は、王の裁量に委ねられます」
俺は、右手を見つめた。
刻まれた印。
この国の意志を背負う証。
「……大広間で、正式に行う」
そう告げる。
「王として、勇者を称え、願いを聞く」
ハロルドが一歩下がり、静かに頭を下げる。
「準備を整えます」
会議は、終わった。
人が去って行く中、俺は一人席に残る。
――王になる覚悟は、できている。
だが同時に、思う。
彼女が、何を願うのか。
そしてその願いを、王として叶えることができるのか。
右手の印が、わずかに熱を帯びる。
これは、逃げられない物語だ。
勇者の願いと、王の決断が、もうすぐ、大勢の前で交わされる。
その時、この国の未来も、定まる。
***
王宮の大広間は多くの人で満ちていた。
高い天井からつるされた魔道灯の明りが、磨かれた石床に幾重もの光を落としている。
騎士団、魔法師団、研究師団。
貴族、官僚、王都に集められた有力者たち。
その中央に、ステラが立っていた。
白に近い淡い色の礼装は、戦場の彼女とはまるで違う。
勇者として、人前に立つための衣だ。
向けられる視線は多種多様だ。
称賛、好奇、計算、そして純粋な感謝。
玉座に座る俺は、そのすべてを静かに見渡していた。
竜を討ち、王の印が現れ、即位してからまだ日も浅い。
だが、この場に集う誰もが理解している。
これから告げられる言葉は、ただ一人の勇者の未来だけでなく、この国の在り方そのものを示すものになる、と。
「ステラ・ハワード」
名を呼ぶと、彼女は一歩前に進み、跪いた。
その背筋は真っ直ぐで、迷いは見えない。
「顔をあげろ」
ステラが顔を上げる。
昔と変わらない、まっすぐな瞳。
恐れを知り、それでも進むことを選ぶ者の目だ。
俺は宣言した。
「竜討伐において、最も大きな功績を残した者として、ステラ・ハワードを――勇者と認める」
ざわめきが広がるが、反対の声はない。
「勇者には、王が願いを一つ叶える」
この国に古くから伝わる、王権の象徴。
それが今、現実として行使される。
「ステラ、願いは?」
一瞬の沈黙。
だが、彼女は迷わなかった。
「私の願いは――」
声は澄み、はっきりとしている。
「宮廷騎士団二番隊隊長ルカ・ヘイルを、私の夫として迎えることを望みます」
どよめきが走る。
平民出身の騎士と、公爵家の娘。
それが、この場で公に語られた意味は大きい。
さらに彼女は続けた。
「そして、私はいずれ父より公爵位を継ぎます。その責務を、この身で果たす覚悟があります」
大広間は息を呑んだように、静まり返った。
――変わらないな。
昔から、彼女はいつもそうだ。
逃げ道を作らず、自分で選び、自分で背負う。
「いいだろう」
俺の声が、王として場を支配する。
「ステラ・ハワードの願いを、王としてここに認める」
静寂が破れ、ざわめきが大きくなる。
「ルカ・ヘイルを功績ある騎士として叙勲し、その婚姻を、王の名において許可する」
その瞬間だった。
ステラが、わずかに視線を動かし、立ち上がる。
人垣の中から、ルカが前へ進み出た。
彼は一歩、また一歩と、まっすぐに歩む。
誰の視線もそらさず、ただステラの前へ。
そして、彼女の前で膝をついた。
「――ルカ様?」
驚くステラに、ルカは静かに頭を垂れる。
「王の御前にて、誓います」
低く、揺るがぬ声。
「この命ある限り、剣として、盾として、そして一人の男として――ステラ・ハワードを生涯守り抜くことを」
顔を上げた彼の瞳には、迷いはない。
ただ一人を見据える、覚悟の光だけがあった。
その覚悟を見届け、俺は静かに姿勢を正した。
――儀式はまだ終わらない。
この場に立つものすべてに、等しく光を届けるために。
「魔法師団、ジェームズ・ディクソン」
名を呼ぶと、若い魔法師が驚いたように目を見開き、前へ進み出た。
彼は深く跪く。
「ステラとともに瘴気の解析にあたり、討伐にも大きく寄与した。王として、その功績を称え、叙勲を授ける」
ジェームズの背筋が、震えながらもまっすぐ伸びた。
顔を上げた彼の瞳には、誇りと安堵が入り混じった光が宿っている。
「……はっ。身に余る光栄です、陛下」
その声は微かに揺れていたが、確かに届いた。
彼が積み重ねてきた努力と、戦場での働きが、今この瞬間、正式に“国の歴史”へと刻まれたのだ。
大広間の空気が、静かに温度を変えていく。
ステラとルカの誓いとは違う種類の熱。
仲間の功績を称える、誇りの熱だ。
最初に手を叩いたのはハロルドだった。
重く、確かな音。
それに続くように、ロイが、騎士団の者たちが、魔法師団、研究師団、そして貴族たちが――。
拍手は波のように広がり、大広間を満たしていく。
俺はその光景を、静かに見守った。
――勇者の願い。
それは、宝でも、地位でもない。
共に歩む相手を、自分で選ぶこと。
「……いい結末だな」
誰にも聞こえないほど、小さく呟いた。
王として下した裁定。
そして、友として願った未来。
この国は、まだ変われる。
勇者の選択が、その証だった。




