59.告白
領主館の大広間は、いつになく明るかった。
壁にかけられた燭台には火が満ち、今朝の戦いを知らないかのように、柔らかな光が床に広がっている。
長机には料理と酒が並び、騎士も魔法師も、身分の差を忘れたように杯を掲げていた。
戦いの後――
私たちは領主館に戻り、ようやく身体を休めた。
幸い、死人は出なかったが、大きな怪我を負った兵士もいる。
彼らの療養、避難民たちの帰宅、被害を受けた家屋の修復、瘴気に侵された土地の浄化……明日から向き合うべき現実は山ほどある。
今だけは、それらを忘れて、一時の勝利の夜を味わっていた。
隊服を脱いだ皆は普段の服に着替えていたが、布の隙間から覗く包帯や傷跡が、今日の戦いを物語っていた。
机の端では、互いの傷を確かめ合いながら、冗談めいた口調で今日の無茶を笑い合っている。
笑い声の奥に、安堵と疲労が滲んでいた。
私は杯を手にしたまま、大広間を見渡す。
ここにいる誰もが、何かを失いかけ、何かを守り切った。
その重みがあるからこそ、この祝宴は騒がしすぎない。
静かな熱が、空気の底にゆっくりと満ちている。
少し離れた場所に、アレン様の姿が見えた。
弓から離れたその手は、いつもより静かで、周囲と穏やかに言葉を交わしている。
視線の奥には、まだ戦場の名残が残っているようだ。
ジェームズ様は、騎士団の者と言葉を交わしながらも、時折こちらを気にとめているのがわかる。
近すぎず、遠すぎず。
まるで、声をかけるべきか迷っているような距離感だった。
ルカ様の姿は、人の輪の外にあった。
祝杯を受け取ってはいるものの、騒ぎの中心には入らず、壁際で静かに場を見守っている。
その立ち位置が、戦場で前に立つ彼とは、少しだけ違って見えた。
彼の横顔は、炎の光に照らされて、どこか遠い。
勝利の場に満ちる光と音の中で、私の胸の奥には、まだ静まらないものがあった。
ここは祝うための夜。
けれど――
この夜が終わる前に、向き合わなければならない言葉がある。
逃げずに選んだ道。
その先にある答えは、まだわからないけど――。
私は杯をそっと置き、深く息を吸った。
******
同級生でもあった騎士団の男と別れを言葉を交わした、その直後だった。
背後から、控え目でありながら、迷いのない声がかかる。
「ジェームズ様、少しよろしいですか?」
――ああ、とうとう来てしまったか。
胸の奥で小さく息を吐き、その感情を表に出さぬよう整える。
覚悟していたはずなのに、心臓がひどく落ち着かない。
周囲はまだ祝勝会の熱が残り、人の輪も途切れない。
ここで話すべきことではない。
「……いいよ」
短く答え、視線で示す。
二人きりになれるバルコニーへと歩き出した。
夜風が、火照った空気を切り替えるように吹き抜ける。
月明りに照らされて、ステラは静かに立っていた。
その姿を見た瞬間、胸がわずかに痛んだ。
「……いつもと感じが違うな」
思わず零れた独り言に、彼女が小さく肩をすくめた。
「叔母に着せられて……」
照れたように言うその声は、いつも通りなのに、纏う空気だけが違って見えた。
王宮を出てからの彼女は、濃紺のズボンに高く結んだ髪――実用一辺倒の姿が当たり前になっていた。
今、その髪は柔らかく下ろされている。
深紅のドレスは露出を押さえながらも、彼女の線の細さを際立たせていた。絞られたウエストから広がるスカートが、わずかな身動きに合わせて、夜風に揺れる。
――綺麗だ。
そう思ってしまった自分が、少しだけ嫌になる。
だから視線を逸らした。
「身体は大丈夫?」
「ええ。しっかり休みましたから」
いつもの笑顔。
だが、その奥にある決意だけは、隠しきれていなかった。
窓越しに、祝勝会のざわめきが届く。
その明るさが、今はやけに遠い。
「……君が無事でいてくれたことが、何より嬉しいよ」
飾らない本音だった。
けれど、彼女の瞳がかすかに揺れる。
「ジェームズ様」
名を呼ばれ、無意識に息を呑む。
「私……あなたに、たくさん救われました。学院でも、今日の戦いでも、今までずっと――」
彼女は言葉を探すように視線を落とす。
「……あなたがいてくれたから、私は前を向けました」
丁寧に、慎重に。
一言ずつ、確かめるように紡がれる言葉。
「……でも、私の心は、もう決まっています」
胸の奥が、きゅっと縮む。
聞きたくない。
それでも、遮ることはしない。
それが彼女の誠実さだと、知っているから。
「ジェームズ様は大切な人です。尊敬も、信頼も、あります。でもそれは――恋ではありません」
わかっていた。
ずっと前から。
それでも、ほんのわずかでも可能性があるならと、縋ってしまった自分がいる。
醜い。情けない。
「……傷ついても、泣かされても、それでもいいのか?」
声が、思ったより低くなった。
「はい」
迷いのない返事。
「私は、傷つくのも、泣かされるのも、あの人ならいいんです」
深く、息を吐く。
胸の奥にたまっていたものが、ようやく形を持って抜けていく。
痛みと、安堵と、悔しさと――
全部が混ざって、苦い。
「……なら、仕方がないか。君が自分で選んだ答えなら」
口元を緩める。
笑えているだろうか。
うまく笑えているふりが、できているだろうか。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
一歩、距離を取る。
これ以上近くにいると、感情が崩れそうだった。
「行っておいで、ステラ。君が幸せになるために」
彼女は静かに頷き、一礼をした。
「ありがとう、ジェームズ様」
振り返らずにバルコニーを後にする背中を、最後まで見送る。
その背中が見えなくなった瞬間、胸の奥が、ひどく痛んだ。
手すりに寄り掛かかり、夜空を見上げる。
星が、滲んで見える。
――らしくないな。
そう思った矢先、バルコニーの扉が開く音がした。
「ジェームズ」
「ゲランド殿」
学院の一つ上の先輩で、前会長。
彼は何も言わず、手すりの上にグラスを二つ置いた。
「親父のコレクションからくすねてきた。いい酒だ」
学院時代には見たことのない、肩の力の抜けた笑み。
深紅の酒が、静かにグラスを満たす。
「酒は嫌なことを忘れさせてくれる」
「……一時だけですよ」
「その一時で、また明日から前に進めるんだ」
グラスを合わせる音が、夜気に溶けた。
舌の上で、熟した果実の気配がほどけ、濃密な香りが広がってゆく。
喉を通ると、長い余韻が残った。
一口で終わらず、もう一度確かめたくなるような複雑さと品格。
「……さすが辺境伯のコレクション」
「だな。だが飾ってあるだけじゃもったいない。酒っていうのは飲んでなんぼだろ」
「あなたにそんな面があるなんて、……少し意外です」
「誰だって、こういう時は飲むさ。お前も例外じゃない」
その言い方は、慰めでも励ましでもなく、ただ事実を告げるように穏やかだった。
苦笑が漏れた。
自嘲とも、照れともつかない、情けない笑みだと自分でも分かる。
ゲランドは無言でグラスに酒を注ぎ足し、差し出した。
二人のグラスが静かにふれ合う。
深紅の酒が喉を通ると、胸の奥までしみていく。
視界が滲むのを、もう誤魔化せなかった。
ゲランドは横で何も言わず、夜空を見上げながら、静かに酒を味わい続けていた。
******
ジェームズとともに、バルコニーに消えた彼女は、ほどなくして一人で戻ってきた。
その背中を見た瞬間、胸の奥が、嫌な音を立てて軋む。
――どんな話をしたんだ。
問いかける権利なんて、俺にはない。
それでも、彼女の表情を見れば、何かが終わったことだけはわかった。
彼女は周囲の喧騒から逃れるように、足早に会場を抜けていく。
深紅のドレスの裾が、明かりの外へと消えた。
俺は、手にしていたグラスを無言で置き、その後を追った。
昨夜、彼女から伝えられた言葉が、ずっと頭から離れない。
任務だと答えながら、引き留めるように掴まれたマントを振り払えなかった。
好きだと伝えらえた瞬間、胸に走ったかすかな痛みと、それを塗りつぶすほどの甘さ。
振り向いてしまえば、きっと押さえきれなくなる。
だから、俺は背を向けた。
彼女が離れていって、ようやく、その背中を見送った。
回廊にでると、夜の空気が肌に触れる。
石造りの床に、俺の足音だけが反響していた。
「ステラ」
呼び止めると、彼女はすぐに振り向いた。
迷いのない瞳が、真っ直ぐに俺を見る。
「ルカ様……」
その声に、胸がまた痛む。
俺の名前を呼ぶその響きが、どうしようもなく欲しかった。
言葉が喉につかえる。
伝えたいことが多すぎて、どれから言えばいいのかわからない。
一歩、距離を詰める。
手を伸ばせば、届く距離。
「……俺は、ずっと君を守っているつもりだった」
自嘲が、声に混じる。
「でも違った。守られていたのは、いつも俺の方だった。……今日だって、そうだ」
マントの感触が、まだ残っている。
瘴気が消えた、あの瞬間。
自分が守られたことを、はっきりと理解した。
「……遅いよな」
小さく笑う。
「いつもそうだ。大事なことほど、気づくのが遅い」
ステラの表情は、何も変わらない。
ただ、静かに、聞いている。
「ありがとう、ステラ」
――違う。
それじゃ、足りない。
言いたいことは、本当は――。
「――好きだ」
抑えていたものが、一気に溢れた。
彼女の瞳が、わずかに見開かれる。
「ステラ、好きなんだ。本当は、ずっと……」
言葉が追い付かない。
だからはっきりと、核心だけを告げる。
「君が好きだ」
「……ルカ様」
彼女の声が震える。
それでも、目はそらさない。
「君の幸せを守りたかった。…でも、君を幸せにするのは俺じゃないと思ってた」
あふれた思いは、弱さまでさらけ出す。
もう、隠せない。
ステラは小さく首を振った。
「……私を幸せにできるのは、あなただけです」
その言葉が、胸にまっすぐ刺さる。
「ルカ様、好きです」
息が震えた。
喉の奥が熱くなる。
「……いいのか」
絞り出すように言う。
「変な憶測をたてられるかもしれない。結婚も――簡単じゃない」
ステラは迷いなく頷いた。
「それでも、自分で選びます。誰に何を言われても、私は……あなたと生きたい」
その強さが眩しかった。
「……俺は、君が傷つくのが嫌なんだ」
「私を傷つけられるのも、あなただけです」
……敵わない。
「それなら――俺は二度と君を傷つけない」
伸ばした指先が、彼女の手に触れる。
左手の甲に、そっと唇を落とす。
誓いだ。
二度目の誓い。
今度こそ、破らない。
夜の空気は冷たいのに、指先から伝わる体温だけが、やけに熱い。
視線が合う。
逃げない。
逸らさない。
それだけで、十分だった。
ゆっくりと距離を詰める。
近づくほど、彼女の呼吸がかすかに触れる。
一瞬、ためらう。
触れてしまえば、もう戻れない。
それでも――
ステラが、ほんのわずかに首を傾けた。
受け入れるように。
左手で彼女の耳元をそっと押さえ、引き寄せる。
「ステラ」
額が触れるほど近くで、一度だけ止まる。
問いかけるように見つめると、彼女は静かに目を閉じた。
唇が触れた。
確かめるように、短く、静かなキス。
「……ルカ様」
離れた瞬間、吐息混じりに呼ばれた名前が、胸の奥を強く揺らす。
その微かな震えに、張り詰めていた理性がほどけた。
もう一度、唇を重ねる。
触れた瞬間、彼女の指先がそっと俺の服をつまんだ。
拒まない。
そのかすかな肯定に背中を押されるように、俺はさらに深く彼女を求めた。
唇を離すと、彼女は熱を帯びた頬を隠すように視線を伏せた。
その仕草が愛しくて、俺は額を、そっと彼女の額に預ける。
互いの呼吸が触れ合う距離で、胸の鼓動だけがやけに大きく響いた。
「ステラ……愛してる」
震える声で告げると、彼女はゆっくりと視線を上げ、まっすぐに見つめ返してきた。
「私も……愛してます」
長い夜が、静かに終わっていく。
けれど――
この想いは、ここから始まる。




