58.討伐
夜明け前。
空は深い藍に沈み、湿った空気が肌にまとわりつく。
馬の鼻息が静寂を震わせ、鞍の下で筋肉が緊張しているのが伝わった。
誰も言葉を発しない。
ただ、これから始まるものを前に、全員が息を潜めていた。
合図とともに、地を覆う巨大な結界が展開される。
領地の魔法師団と宮廷魔法師団――二つの陣が重なり合い、魔力の波が地脈を叩く。
空気が震えた瞬間、背筋が粟立つ。
――来る。
地の底から、腹を裂くような咆哮。
大地が震え、瘴気が噴き上がる。
黒い影が、眠りから引きずり出されるように身を起こした。
竜だ。
岩盤を押しのけ、巨大な身体がゆっくりと姿を現す。
その動きだけで、空気が重く沈んだ。
「魔法師団、第一波!」
号令とともに術式が空を走る。
足場を崩すための集束魔法――しかし竜の魔力が壁となり、衝撃は弾かれた。
光が砕け、術式が霧散する。
瘴気が濃く渦を巻き、前線を押し返す。
「効かないっ……!」
その瞬間。
「……通さない!」
ステラの声が響いた。
瘴気へ向けて、無効化が波紋のように広がる。
透明な歪みが前線を走り、竜の纏う瘴気が押し返される。
完全に消えるわけではない。
だが、濃度が削がれ、壁のように立ちはだかっていた瘴気が裂け目を作った。
「……今です!」
俺とハロルドは馬腹を蹴り、瘴気の裂け目へ飛び込んだ。
騎士団が一斉に突撃するよりも早く、竜の足元へ駈け込む。
「ルカ、右足を狙う!」
「わかった!」
馬上から剣を振り下ろす。
ハロルドの大剣が轟音を立て、俺の刃と同時に竜の鱗へ叩きつけられた。
火花が散り、衝撃が腕に痺れを走らせる。
後ろから騎士団が続き、剣が次々と鱗を叩く。
攻撃は浅い。
だが――確かに揺らいでいる。
竜が怒り狂い、尾が地を薙ぎ払う。
数名の騎士が馬ごと吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。
骨の折れる音が聞こえ、血が土に染み込む。
「くそっ……!」
竜の喉奥が赤く脈動する。
「来るぞ!!」
放たれたのは炎ではなく、濃縮された瘴気の奔流。
前線が飲まれる――そう思った瞬間。
「――下がらないで!」
ステラの叫び。
瘴気が壁にぶつかるように霧散した。
ステラの無効化が広がるたび、彼女の肩がわずかに震え、指先から光が零れ落ちそうに揺れていた。
「弓兵、放て!」
号令と同時に、無効化を施された矢が雨のように降り注ぎ、竜の鱗に突き刺さる。
竜が低く唸り、巨体がわずかにのけぞった。
――効いている。
「ジェームズ!」
ロイの叫びに応えるように、ジェームズの魔法陣が空に展開される。
光の鎖が竜の前足を絡め取り、巨体の動きを鈍らせた。
「魔力循環よ、乱れろ!」
ジェームズの魔法が竜の体内を揺さぶり、竜の喉奥から苦悶の咆哮が漏れる。
そこにロイが強化魔法を重ねるが、それでも――倒れない。
再び尾が地を裂き、騎士たちが吹き飛ばされる。
血が飛び散り、馬が悲鳴を上げる。
「……っ!」
その瞬間――
竜を覆っていた瘴気が、急激に薄れた。
禍々しい気配が、一気に削ぎ落とされる。
ステラが全力で“無効化”している。
その身体は、限界を超えていた。
顔は青白く、唇が震えている。
指先は痙攣し、魔力の奔流に耐え切れず膝がわずかに沈んだ。
それでも、彼女は前を見ていた。
倒れそうな身体を必死に支えながら、瘴気を押し返し続けている。
――持たない。
このままでは、彼女が先に倒れる。
今しかない。
俺は馬から飛び降り、ジェームズの前に駆け寄った。
彼が驚いたように目を見開く。
「……頼みがある」
「……なぜ俺に?」
「ロイは殿下の元を離れられない。この中で君が一番正確に魔法を使える」
ジェームズの喉が動く。
「……何をすれば?」
「俺を竜の頭上まで、投げ飛ばしてくれ。できるだけ高く、真上に」
「正気ですか」
「ああ」
短い沈黙。
ジェームズは息を吐き、魔力を練り上げた。
「……どうなっても知りませんよ」
足元に魔法陣が展開し、空気が震える。
「行きます!」
魔力の衝撃が俺の体を押し上げ、視界が一気に広がった。
空へ――跳ね上がる。
狙いを定めた瞬間――
竜がこちらを見た。
気づいた。
瘴気が、俺に向かって放たれる。
「ルカ様!マントを!」
ステラの声。
反射的にマントで身を覆う。
――消えた。
瘴気が嘘のように霧散する。
……そうか。
胸が痛むほど理解した。
このマントに、彼女は――。
考える暇はない。
落下の勢いを利用し、竜の頭上へ剣を突き立てる。
渾身の一撃。
鱗が砕け、肉が裂ける。熱い血が顔に飛び散る。
同時に、横合いから轟音。
ハロルドが馬上から大剣を振り下ろし、竜の脚を叩き潰した。
巨体が揺らぐ。
だが、まだ終わらない。
「アレン……!」
視線の先で、アレンが弓を構えていた。
だが――躊躇している。
――足りない。
俺にもわかった。
******
ルカが竜の真上に飛ぶ。
その軌跡が、朝焼け前の空に一瞬だけ白い線を描いた。
ステラの無効化が押し広げた“道”を、彼は迷いなく駆けあがっていく。
――今しかない。
だが。
竜は倒れない。
どれだけ傷を刻んでも、巨体は揺らぐだけで崩れない。
瘴気は薄れたが、まだ竜の核は眠っていない。
「……足りない」
喉の奥で、言葉が零れた。
自分でも気づかないほど、小さな声だった。
何が足りない?
最後のピースがまだわからない。
視界の端で、ステラが膝をつきかけていた。
それでも、前線を支えるために立ち続けている。
彼女を犠牲にしないと約束した。
なのに――。
竜の眉間。
そこに矢を打ち込むべきなのはわかっている。
弓は手にある。
だが引けない。“条件”が満たされていない。
オリヴィアの言葉が脳裏をよぎる。
――弓は“鍵”。それを真に竜に届かせるには、別の条件がある。
別の条件。
記録には残っていない。
だが、童話には――。
思い出せ。あの物語を。
子どもの頃、何度も聞かされたあの一節。
――姫の元に、天から降りてくる弓矢。
そうだ。弓矢は姫の元に降りてきた。
勇者はそれを受け取っただけだ。
――ならば
本来、弓を撃つべき者は――
次の瞬間――
俺は、矢を握りしめ、その刃で自らの手のひらを裂いた。
熱い痛みが走り、赤い血が矢に滴り落ちる。
触れた瞬間、矢が脈動した。
まるで長い眠りから呼び覚まされたかのように。
光が走る。
弓も、矢も。
王家の証――いや、もっと古い、“神の意思”そのものが形を取ったように輝き始めた。
胸の奥が震えた。
これだ。
これが“足りなかったもの”。
「道を開ける!」
ロイの叫びと同時に、空気が裂けた。
魔法が一直線の光の道を作る。
風が唸り、世界が矢の軌道だけを残して静まり返る。
俺は弓を引いた。
血で濡れた指が震える。
だが迷いはない。
――この戦いを終わらせる。
その思いだけが、腕を支えていた。
放たれた矢は、光の道を迷いなく駆け抜け――
竜の眉間を、正確に射抜いた。
******
竜の眉間を射抜いた光が消えた瞬間――
世界が、音を失った。
竜の巨体が崩れ落ち、地面が低く震えた。
俺は反射的に腕で顔を覆い、舞い上がる砂塵の中で息を整える。
――終わった。
そう思った途端、膝が震えた。
視界の端で、ステラがふらりと傾く。
ジェームズが慌てて支えに入るのが見えた。
胸が、痛いほど締め付けられる。
俺は深く息を吐き、剣を地に突き立てた。
喉の奥が焼けるように熱い。
言葉が出ない。
まだ、声にできるほど気持ちが追い付いていない。
けれど――
確かに、背中は守られていた。
最後の瞬間まで。
俺が剣を振るうよりも、ずっと強く、まっすぐに。
夜明けの光が、静かに戦場を照らし始める。
その光の中で、ステラの姿だけがやけに鮮明に見えた。
******
竜が――完全に沈黙した。
ハロルド様が竜に近づき、巨体に触れる。
反応はない。
瘴気も、もう感じない。
「……討伐、完了!」
その声が上がった瞬間、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
歓声。安堵の叫び。誰かの泣き声。
地に伏していた者たちが立ち上がり、互いの無事を確かめ合う。
その喧騒が、どこか遠くに聞こえた。
膝から力が抜け、視界が揺れた。
地面が近づく――そう思った瞬間、腕を掴まれた。
「ステラ!」
ジェームズ様の胸に支えられ、前に倒れるのを免れる。
額が彼の胸当てに触れた時、ようやく自分が限界だったことを理解した。
「……ポーションを……」
かすれた声でそう言うと、彼はすぐに私の身体を支えたまま、回復魔法を流し込んでくる。
温かな魔力が巡るのに、足りない。
身体の奥に残った痺れと痛みが、まだ抜けない。
「無理をするな。もう十分だ」
「まだ……」
首を振る。
「瘴気を浴びた人たちが、いる。……放っておけない」
彼は一瞬、何か言いかけて――やめた。
代わりに無言でポーションを差し出してくる。
私は受け取ると、一息に飲み干した。
喉を焼くような感覚とともに、視界がはっきりする。
「……ありがとうございます」
そう言って、彼の手をそっと離れ、走り出す。
倒れている兵士の元へ。
呻く声、黒ずんだ瘴気の痕。
私は膝をつき、震える指先で無効化を流し込む。
一人。
また一人。
隣ではジェームズ様が回復魔法を重ねてくれている。
彼は何も言わない。
ただ私が倒れないよう、常に手の届く距離にいてくれた。
――守られている。
でも同時に、私は今――
この手で、誰かを守っている。
その事実が、胸の奥を静かに熱くした。
******
竜の巨体を見上げたまま、しばらく動けなかった。
あれほど暴れ狂っていた存在が、今はただの影のように横たわっている。
耳の奥で、まだ戦いの余韻がざわついていた。
終わった。
本当に――終わったのだ。
「ルカ」
名を呼ばれて振り向くと、アレンが立っていた。
俺が地面に座りこんでいるのを見て、苦笑する。
「……立てるか?」
差し出された手を取る。
引き上げられながら、全身が軋んだ。遅れて痛みが押し寄せ、思わず息が漏れる。
立ち上がった視線の先で、彼女が走っていた。
倒れた兵士たちの間を縫うように。
迷いなく、膝をつき、震える手で無効化を流し込んでいく。
限界を超えているはずなのに、まだ前を向いている。
――ああ。
胸の奥が、静かに熱を帯びた。
――強い。
どうしようもなく、強い。
「ステラって、強いんだな」
ぽつりと零れた言葉に、隣からすぐ返事が来た。
「今さら気づいたのか」
アレンが呆れたように笑う。
その笑い方が、どこか優しかった。
「遅いな」
言い返せなかった。
ただ、頷くしかない。
「……本当にな。俺は、いつも気づくのが遅い」
彼女の背中から、目を離せない。
守っているつもりだった。
けれど――守られていたのは、俺の方だった。
胸の奥に、抑えきれない感情が溢れ出す。
痛みとも、安堵ともつかない熱が、静かに広がっていく。
――好きだ。
ずっと、わかっていたはずなのに。
失うかもしれないと思うたびに、蓋をしてきた。
どうすれば、彼女を幸せにできるのか。
その答えは、まだわからない。
けれど――逃げる理由も、もうどこにもない。
そんな俺の迷いを見透かしたように、アレンが言った。
「ステラなら、自分でどうにかするだろ」
短い言葉だった。
けれど、不思議と胸に落ちた。
そうだ。
彼女はきっと、自分の足で未来を選ぶ。
ならば俺がすべきことは――
背中を向けない。
想いから逃げない。
そして――伝える。
「ところでお前、『勇者の約束とご褒美』知ってる?」
アレンが唐突に言った。
「童話だろ?なに、いきなり」
「最後の部分だけ、実話なんだ」
そう言って、アレンは動かなくなった竜の元に歩いていく。
最後――、
勇者が王から願いを一つ叶えてもらえると言われ、姫と結婚する。
視線を、もう一度、彼女へ向ける。
今度は、離さない。




