57.前夜
夜更けの領主館。
窓の外は灯りがまばらで、闇が森の奥へと沈んでいくようだった。
焚き火が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
地下に続く回廊は、夏だというのにやけにひんやりとしている。
扉を開けると、すでに討伐の中心となる者たちが揃っていた。
討伐隊の騎士団は領主であるレオナルド――過去に王宮騎士団の副団長を務めていた――が率いる。魔法師団はロイ。研究師団からは師団長直々の参戦。俺の後ろにはハロルドとルカが立っている。
長机の上には地図が広げられ、魔道灯の淡い光が、赤い印と書き込みを浮かび上がらせていた。
誰も無駄口を叩かない。
この場にいる全員が理解していた。
――これは、失敗が許されない戦いだ。
「改めて、確認する」
俺が口を開くと、視線が一斉に集まった。
「竜は現在、完全には覚醒していない。封印と覚醒が拮抗した状態だ。だが、この均衡は長くは続かない」
研究師団長が頷き、補足する。
「瘴気は既に土地と魔獣に同調し始めています。覚醒すれば、被害は辺境に留まりません」
レオナルドが地図の一点を指で叩いた。
「この地点が封印地。周囲の森は既に汚染が進行中。接近は困難です」
「まずは周囲の被害を抑えるために、広範囲に結界を張る」
ロイが頷く。
「それから――無効化と魔法、剣で道を作り、最後に――これを放つ」
手にした弓は、古い意匠だ。
だが、触れた空気がわずかに張り詰めるのを感じた。
俺は弓を見下ろしながら、言葉を選んだ。
「竜に決定打を与えられるのは、これだけだ」
沈黙。
誰もが理解している。
つまり、俺が前に出るということを。
「殿下」
研究師団長が顔を上げる。
「やはり危険すぎます。王家に何かあれば――」
「だから俺が行く」
遮るように言った自分の声は、思ったより静かだった。
「この弓を引ける条件を満たしているのは、俺しかいない」
「……理屈としては、否定できません」
研究師団長が苦い顔で視線を伏せる。
「理屈だけの話じゃない」
俺は弓を握りしめる。
「これは、俺自身の意志だ。……だから、この弓を引く責任は、俺が負う」
しばしの沈黙の後、全員が頭を下げた。
「……我らの力、すべて殿下にお預けします」
その言葉を噛みしめ、俺は深く息を吸った。
「出発は夜明け前だ」
視線をあげる。
「生きて帰るぞ」
短い言葉だったが、空気が変わった。
会議はそこで解散となった。
レオナルドと入れ替わるように、彼の妻――オリヴィア――がそこにやってきた。
「殿下、人払いをお願いできますか」
頷くと、室内には俺と彼女だけが残った。
「アレン殿下」
静かな声だった。
「あなたに、今夜どうしても伝えなければならないことがあります」
彼女の表情は、領地を預かる者のそれではなかった。
もっと個人的で、もっと――切実な色をしている。
「殿下は『勇者の約束とご褒美』をご存じですか」
「ああ。……子供向けの童話だろう」
オリヴィアは小さく笑った。
「そう、皆そう思っています。でも――あれは、事実を削った物語です。本当は……犠牲がありました」
彼女は机の引き出しから、一冊の古い書を取り出した。
装丁は傷み、角は擦り切れている。
「これは、代々スタンリー家に伝えられてきた記録です」
机に置かれたその書を開くと、見慣れない古語と図が現れる。
竜。
封印陣。
そして――弓。
ページをめくる指が震えているのが見えた。
「童話では、勇者が天から授かった弓で竜を倒したことになっています」
オリヴィアの指が、ある一説をなぞった。
「でも実際には、竜は倒されていません。……封じただけ」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「封印には、条件がありました」
彼女は一度、言葉を切る。
「無効化の力を持つ者を、封印の核にすること」
――理解してしまった。
「……それが、犠牲だと?」
「ええ」
オリヴィアは、目を伏せた。
「勇者は、姫を守るために選びました。その血は、この領地に受け継がれています」
「スタンリー家は……」
「勇者と姫の末裔です」
はっきりと告げられた言葉が、重く胸に落ちる。
「この土地は瘦せ、魔獣も寄りつかなかった。竜を封じる“器”として、使われ続けてきたのです」
俺は、無意識に拳を握っていた。
「では――今回も、同じことが起きると?」
「……ええ」
彼女の声が震える。
「ステラが無効化の力を持っていると聞いたとき……因果なのかと思いました。ならばなぜ、スタンリーの血を引く我が子ではなく、夫側の姪なのかと……」
オリヴィアは顔を上げ、まっすぐ俺を見た。
「ですが、彼女は、封印のために生まれてきたわけではありません」
強い声だった。
「お願いです、殿下。ステラを犠牲にしないでください」
空気が張り詰める。
「……完全に竜を倒す方法は、まだわかっていません」
「弓には……何かが足りない?」
「はい」
オリヴィアは、静かに頷いた。
「弓は“鍵”です。ですが、それを真に竜に届かせるには、別の条件がある」
「それは?」
「……それだけは、記録にも残っていません」
彼女は苦笑した。
「あるいは、意図的に消されたのかもしれません」
しばしの沈黙の後、オリヴィアは深く頭を下げた。
「殿下。どうか、ステラを救ってください。犠牲ではなく、終わりを――」
その姿を前に、俺は一歩踏み出した。
「顔を上げて」
オリヴィアが驚いたようにこちらを見る。
「俺は――この弓を引く」
はっきりと告げる。
「誰かを差し出すためじゃない。この戦いを、終わらせるために」
弓の意味が、はっきりと形を持った瞬間だった。
「約束する。ステラを犠牲にはしない」
オリヴィアの目に、ようやく光が戻る。
「……ありがとうございます」
二人の間に落ちた沈黙は、もう恐れではなく、覚悟の色を帯びていた。
******
夜風が石壁を撫でていく。
馴染みのある領主館が、今は別の顔をしている。
「ステラ」
不意に呼ばれて、足を止めた。
振り返ると、廊下の影から姿を現したのはトビアスだった。
灯りに照らされたその顔は、学院で見慣れたものと同じはずなのに、どこか大人びて見える。
それでも、目が合った瞬間に浮かべた表情は――やはり、いつもの従兄弟だった。
「トビアス!あなた――」
「それ以上は言うなよ」
軽く肩をすくめて、彼は先に言葉を遮る。
「ここは、俺の家でもあるんだから。討伐に志願するのは当然だろ」
その言葉に、喉が詰まる。
だって、彼だけじゃない。
この館には、彼の兄たちもいる。
「……でも」
「分かってるって」
苦笑して、トビアスは後頭部をかいた。
「って言ってもゲランド兄さんみたいに前線で剣を振るうわけじゃない。俺は後方の支援部隊だよ」
少し照れたように言うその口調が、妙に現実的だった。
「アンソニー様は?」
思わずそう尋ねると、トビアスは一瞬だけ視線を逸らした。
スタンリー家の長兄。
領地を継ぐはずの人。
「さすがにな。父上に止められた」
短く息を吐く。
「母上を守るために、家に残る。……万が一の時は、逃げられるように」
“万が一”という言葉が、胸に重く沈んだ。
「でも……」
私は、彼の顔を見上げる。
「あなたにだって、フレイヤがいるのに――」
その名前を口にした瞬間、トビアスの表情がわずかに緩んだ。
「――絶対に帰るって約束した」
静かだけれど、迷いのない声。
「……お前を連れてな」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
彼はいつもと変わらない、人懐っこい笑みを浮かべた。
「フレイヤ、怒ってたよ。危ないことしないってステラが言ってたのに、前線に飛び込んで行っちゃうんだもん、ってさ」
その声音を思い出しただけで、視界が滲んだ。
笑って、心配して、怒ってくれる――あの親友の顔。
「……謝らなきゃ……」
ぽろりと零れた言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「うん」
トビアスは、いつもより少しだけ真面目な顔で頷く。
「ちゃんと帰って、謝ろうな」
松明の炎が揺れて、影が壁に踊った。
私は胸の前で、そっと手を握りしめる。
――誓う。
心配ばかりかけてしまっている親友のためにも。
この地で暮らす人たちのためにも。
私は、絶対に戻らなければならない。
この力で、全員を守る。
誰一人、欠けることなく――王都に帰る。
そう心に刻み、私は前を向いた。
トビアスと別れた後、領主館は、夜の気配を吸い込んだように静まり返っていた。
遠くで灯る松明の火が、石壁に揺れる影を落としている。
曲がり角を抜けた先で、背の高い影が前を歩いていた。
見間違えるはずもない。
「……ルカ様」
呼び止める声は、思ったよりも小さくなった。
その背中は止まらない。
逃げられる――
そう思った瞬間、私は衝動的に手を伸ばしていた。
布を掴む感触。
彼のマントの端を、ぎゅっと握りしめる。
ルカ様は、振り向かなかった。
それでも、足は止まっている。
「ルカ様……先ほどは、助けていただいてありがとうございました」
「……任務ですから」
低く、抑えた声。
振り向かないままの言葉が、胸に刺さる。
それでも、いい。
今、言わなければ――
明日、もう言えないかもしれない。
「……そのままで、聞いてください」
風が吹き抜け、灯りが揺れた。
掴んだ指先が、冷たく震えた。
「……私は、ルカ様が好きです」
言葉にした瞬間、胸の奥が軋んだ。
痛いほどに。
「勘違いでも、思い込みでもありません」
一歩も動かない背中に向かって、続ける。
「ずっと……初めて会った時から……いえ、その前からずっと、あなたのことが好きです」
言葉が、夜に溶けていく。
返事はない。
それでも、止めなかった。
「だから……あなたに好きな人ができるまでは、好きでいさせてください」
ここで声が震えそうになって、私は一度息を吸った。
「それが、私の幸せなんです」
沈黙だけが、答えだった。
マントを掴んだ指先に、そっと力を込めてから、指を緩めた。
握っていたマントが、するりと手から離れる。
この人は、いつも前に立つ。
だからせめて、その背中だけは――。
背中を向けたままのルカ様に、無理やり声を明るくして言う。
「竜、絶対に倒しましょうね」
前線に立つ者として。
仲間として。
踵を返す。
足音が、静かな廊下に響く。
背中に視線を感じる。
けれど、振り返らない。
――これでいい。
夜は、嵐の前のように静かだった。




