56.封印の地
王都を出てから三日が過ぎた。
連絡手段として使っていた魔獣の鳥が瘴気によって機能を失った。
空は、鈍く濁っている。
雲ではない。
瘴気だ。
それが大地に垂れ込み、視界を奪い、空気を重くしている。
「……想定より、濃いですね」
研究員の声が、どこか遠くに聞こえた。
封印の地に近づくほど、瘴気は濃くなり、呼吸をするたび、肺の奥が軋む。
魔法による簡易結界を張っていても、この圧は無視できない。
――竜。
まだ姿は見えない。
森の奥深くか、地の底か。
けれど、確実にそこにいる。
「ステラ、大丈夫か」
ジェームズ様の問いに、私は小さく頷いた。
「はい。……でも、早くしないと」
この地は辺境だ。
けれど、私にとっても、国にとっても――決して失ってはならない、重要な土地。
だからこそ、私たちはここにいる。
遠くで、大地が低く唸るような音がした。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
瘴気の中心に近づいている。
ここから先は、逃げられない。
それでも――行くと決めたのは、私自身だ。
足裏に、鈍い衝撃が伝わった。
「……今の、何だ?」
地面が、わずかに揺れている。
錯覚ではない。
立っている全員が、同時に息を止めた。
――ドン、ドン。
今度ははっきりとした地鳴り。
まるで、大地そのものが鼓動を打っているかのようだ。
「……下から、来ます」
研究員の声が震える。
私は無意識に、地面へと手を伸ばした。
触れた瞬間、ぞっとするほどの“違和感”が走る。
「……まさか」
言葉にするより先に、空気が変わった。
瘴気が、一気に濃くなる。
霧だったものが、視界を塗りつぶす黒へと変質していく。
空気が、ひと呼吸ごとに別のものへ入れ替わっていくような、耳鳴りにも似た圧が胸を締めつけた。
反射的に、無効化の結界を展開する。
その瞬間――世界の“色”が揺らいだ。
地の底から突き上がる咆哮。
いや、音ではない。
骨の内側を直接叩くような振動。
――ゴオオオォ……
魂そのものを揺さぶる、低く、長い――
「……目覚めた」
喉が、ひくりと鳴る。
次の瞬間。
ズズズ……ッ!
遠くで岩盤が持ち上がり、崩れ、封じられていた“何か”が、ゆっくりと姿を現す。
黒く、巨大な影。
瘴気を纏い、空気を焦がす存在。
――竜。
その目が、ゆっくりと開いた瞬間、私は確信した。
――もう前哨ではない。
竜が、ゆっくりと首をもたげた。
瘴気が奔流のように溢れ出し、辺境の地全体が、悲鳴を上げる。
前方の空気が、ふいに歪んだ。
風ではない。地鳴りでもない。
何かが、こちらに向かってきている。
ぞわり、と背筋を這う感覚。
これは――竜ではない。
だが、確かに竜に連なる禍の気配だった。
「何かが来ます……!」
視界の向こう、瘴気の揺らぎの中から姿を現したのは――魔獣ガルム。
狼に似た輪郭をしているが、一回り大きく、四肢の先で爪と牙が狂暴な光を放っていた。
赤黒く濁った眼がこちらを捉え。口元からは泡立つ涎が糸を引いて垂れる。
息づかいのたび、瘴気がその身体に絡みつき、脈打つように揺れた。
「……数が、多い」
一匹、二匹ではない。
十を超える影が、地を蹴り、同時にこちらへ殺到してくる。
反射的に騎士団員たちとジェームズ様が前に出た。
研究員を庇うように陣形が組まれる。
「結界を張る!」
ジェームズ様の魔法陣が展開され、淡い光の壁が立ち上がる。
だが次の瞬間――
ドンッ!
魔獣たちは、ためらいもなく結界へ体当たりした。
視界に入っていないかのように。
痛覚も、恐怖も、すでに失っている。
「――竜の瘴気に、侵されている……!」
剣を振るった騎士の一人が、魔獣の顎に嚙みつかれた。
悲鳴。
噛まれた箇所から、黒い靄が一気に広がる。
「下がって!」
私は叫び、彼を結界の内側へ引きずり込んだ。
無効化を展開し、瘴気を消し去る。
続けてポーションを傷口に振りかけ、血を止める。
――間に合った。
けれど。
「……だめ……」
結界の外では、なおも魔獣が押し寄せてくる。
衝撃が、何度も、何度も叩きつけられる。
ミシリ、と音がした。
結界が、軋んでいる。
「ステラ、下がれ!」
その声と同時に、ひときわ大きな影が跳躍した。
裂けた結界の隙間を狙い、魔獣が――
「っ……!」
考える暇はなかった。
私は前に出て、無効化を“壁”として展開する。
衝突。
魔獣の身体が弾き返される。
――効いた。
けれど。
弾かれたはずの魔獣が、なおも地を蹴った。
狂ったように爪を振り上げ、再び突っ込んでくる。
「ステラ!」
ジェームズ様の声が、切迫して空気を切り裂いた。
今、彼は結界の維持に意識と魔力を取られている。
こちらへ伸ばされた手は、結界の縁で止まり、私にまで届かない。
鋭い爪が、無効化の膜をかすめた。
次の瞬間には、私の胸元へ届く――
――だめだ。
その一瞬だけ、世界が細く狭まり、死の気配が肌に触れた。
ガキン、と金属音が響いた。
視界の端を、黒い影が切り裂く。
影は私と魔獣の間に滑り込み、迷いなく剣を振るった。
一閃。
魔獣の体が、横倒しになる
ひるがえったマントの影。
そこから覗いた顔を見た瞬間、息が止まった。
――ルカ様。
言葉を交わす暇もなく、彼は踏み込み、次の一匹へ。
風のような動き。
剣が唸り、瘴気ごと魔獣を断ち切っていく。
一匹、また一匹。
群れが、確実に削られていく。
やがて、最後の魔獣が倒れ伏した。
静寂。
荒い息の音だけが残る。
その中で――彼と、目が合った。
息を吸うことすら忘れた私を、彼の腕が強く引き寄せる。
胸にぶつかる。
体温が触れた瞬間、張り詰めていた何かが一気に崩れ落ちそうになった。
「……無事でよかった」
耳元で落とされた声に、心臓が痛いほど脈打つ。
けれど、それは一瞬だった。
すぐに身体は離され、彼はもう戦場の顔に戻っている。
「負傷者は?」
何事もなかったかのように、被害確認に入る背中。
「ハワード様」
名前を呼ばれて、はっと我に返る。
瘴気を浴びた騎士が、まだいる。
私は無効化を施しながら、それでも――
意識は、ずっと彼の背中を追っていた。
研究員の一人が、魔道具を掲げたまま、蒼白な顔で固まっていた。
「……竜は」
絞り出すような声。
「目が覚めているかもしれませんが、完全には動けないようです」
その言葉に、周囲の空気が張り詰めた。
「どういう意味ですか?」
誰かが問う。
研究員は唾を飲み込み、魔道具に浮かぶ光の波形を指し示した。
「瘴気の濃度は、急激に上がっています。ですが……波形が安定していない。封印と覚醒が、拮抗している状態です」
「膠着……している、と?」
私の問いに、研究員は小さく頷いた。
「はい。目覚めかけてはいる。ですが――まだ、完全にはこちらを世界として認識していないようです」
視線の先。
瘴気の揺らぎの向こうに、竜の影がある。
確かに、そこに在るのに、動いてはいない。
呼吸をするように瘴気を吐き出しながら、ただ、そこに横たわっている。
――でも。
「……その瘴気にあてられた魔獣が、活発化している可能性があります」
研究員の言葉に、先ほどの光景が脳裏をよぎる。
赤黒い眼をした、魔獣――ガルム。
「ええ。竜そのものよりも、今は周辺の影響が深刻です」
猶予は、ない。
私たちは急ぎ、森を抜けて領主館へと向かった。
こうしている間にも、瘴気は土地を伝い、広がっている。
「叔父様!」
領主館に駆け込むと、叔父がすぐにこちらを振り返った。
「ステラ!無事だったか」
互いの無事を確かめ合い、私たちは地下へ案内された。
厚い石壁と古い文様が刻まれた壁面に囲まれた空間。
灯された炎が揺れ、影が重なり合うその中心に――叔母が立っていた。
黒髪が炎を受けて淡く光り、まるでこの場所そのものに秘密を映しているようだった。
「ここは――竜の封印地よ」
静かで、しかし逃げ場のない響きだった。
「この土地は、昔から痩せていると言われてきたわ。作物も育ちにくく、魔獣すら寄り付かない。忌み地だと、そう教えられてきたでしょう?」
恵まれない土地。
誰もが避ける場所。
ただし、代々領主を務めるスタンリー家だけは違う。
叔母は、ゆっくりと首を振った。
「本当は、竜を封じるために、土地そのものを器として使ってきた」
背中の奥に、ひやりとした気配が落ちた。
研究員が、魔道具を見つめながら続けた。
「封印は地脈と同調し、長い年月をかけて維持されていました。ですが……」
叔母が言葉を継ぐ。
「封印の力が弱まり始めたの。地脈が揺らぎ、器がひび割れていくように」
その先を、私は自然と口にしていた。
「瘴気が変質し始めた今、土地も魔獣も、竜に引きずられている」
だから、ガルムが現れた。
だから、森が騒ぎ始めている。
――目覚めは、もう始まっている。
******
村の広場には、人があふれていた。
怒号と泣き声が入り混じり、空気が張り詰めている。
ステラたち前線確認の部隊を領主館に送り届けた後、俺は領地の兵士とともに領民の避難に当たっていた。
「荷は最低限でいい!家畜は繋げ、無理に連れていくな!」
叫びながら走る兵士の声が、混乱の中に埋もれていく。
泣き叫ぶ子供を抱え上げ、女が震える足で歩いている。
老人は足をもつれさせ、兵に支えられていた。
瘴気にあてられた牛が柵を壊し、暴れまわっていた。
「森に入った若者が戻らないって……」
「畑が、一晩で枯れたんだ……」
断片的な言葉が耳に刺さる。
瘴気は、目に見えるほど濃くはない。
だが確実に、命を蝕んでいる。
「完全に目覚めていれば、この程度では済まないでしょう」
研究員が言っていた言葉が、今になって重く胸にのしかかる。
「今は……前触れです」
前触れ。
つまり、まだ始まっていない。
だが、それは同時に――必ず来る、ということだ。
家畜、土地、人。
弱いところから、少しずつ。
「負傷者!瘴気症状あり!」
呼びかけに即座に応じ、兵を回す。
軽傷でも油断はできない。進行が早い。
ようやく、大半の領民を避難させ終えた頃、伝令が駆け込んできた。
「王宮からの部隊が到着します」
視線の先、街道の向こう。
王国の旗が翻り、見慣れた気配が近づいてくる。
胸の奥で、わずかに息をついた。
だが、安心は一瞬だった。
瘴気の流れが、また変わる。
地面の奥で、何かが動いた気配が足に伝わる。
周囲がざわめく。
竜は、眠りと覚醒の狭間で、息を潜めている。
けれど、それは永遠じゃない。
次に目を開いた時、この土地も、ステラも、すべてが呑み込まれる。
そうなる前に――。
俺は剣の柄を握りしめ、瘴気の向こうを睨み据えた。




