55.前へ立つ理由
ステラたち前線確認の部隊が王宮を立ってから、三日――。
嫌な胸騒ぎが、朝から消えなかった。
執務室の廊下を進んでいた時、伝令の声が聞こえた。
切迫した、抑えきれない焦りを含んだ声だった。
「――辺境伯より、緊急の報告です!」
扉が開かれ、紙束が机にたたきつけられる音がする。
俺はその場に足を止め、自然と中の様子を伺っていた。
「竜が……目覚めた、のか?」
「確認はとれていません。しかし瘴気が急激に濃くなっています。既存の結界が追い付かず、領地内で混乱が――」
竜。
その単語が耳に入った瞬間、血の気が引いた。
「前線確認部隊との連絡は?」
「……現在、安否は不明です」
安否不明。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
――ステラ。
無意識に、拳を握りしめていた。
******
「殿下――王がお呼びです」
その一言で、胸の奥が嫌な音を立てた。
報告が入ってからの王宮は、まるで別の場所だった。
廊下を行き交う騎士たちの足音、装備を整える金属音。
命令が飛び、書類が運ばれ、空気そのものが張り詰めている。
――こんな時に。
父からの呼び出し。
王宮に戻ってから、ろくに顔を合わせてもいない。
必要最低限の言葉だけを交わし、互いに距離を保ったままの日々だった。
執務室に入るなり、父は俺を一瞥しただけで言った。
「ついてこい」
それだけだった。
父の足は、王宮の下へと向かっていく。
明かりの数が減り、空気が冷たくなる。
やがて、普段は封鎖されている回廊へ入った。
ここは――
王家の血を引くものだけが、立ち入ることを許される場所。
扉が開いた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。
部屋に入った途端、胸の奥がざわつく。
中央に置かれた台座。その上に、静かに横たわるもの。
それが、空気を歪ませている。
「竜は、通常の武器では死なない」
低く、重い声だった。
父は一歩横に避け、俺にそれを見せた。
「これは……」
息をのむ。
王家に伝わる弓と、一本の矢。
飾り気はない。
だが、近づくほどに、皮膚の下を針でなぞられるような感覚が走る。
まるで“触れるな”と告げられているようだった。
喉が、ひとりでに鳴った。
「竜を止めるためには、神に認められた一矢が必要だ」
父の視線が、俺を射抜く。
その重さに、背骨がわずかに軋んだ。
「行け。神の意志だ」
命令ではない。
だが、拒む余地もない。
俺は黙って頷き、弓と矢を手に取った。
たった一本の矢。
それで、すべてを終わらせろというのか。
この国――いや、この世界の“王”は、神の意志ですべてが決まる。
王位も、血も、未来も。
そして、この国の王は代々ヴィレル家から生まれてきた。
例外はない。
だからこそ、後継ぎが必要だ。
王の血を引く――“次”が。
けれど。
俺には、まだ王の印が現れていない。
神に選ばれた証は、今も父の手にある。
――それでも、父は俺に、この弓を持てと言った。
王宮の広間に戻ると、空気が先ほどよりも重く沈んでいた。
高い天井に魔道灯の光が揺れ、淡い青白さが床の石に冷たく反射している。
その光の下、騎士団と魔法師団から選抜された者たちが整然と並んでいた。
中央の長卓には、討伐用の武具と魔道具、研究資料が整然と並べられている。
どれも触れられるのを待つように沈黙している。
その沈黙がかえって不吉な予兆のように思えた。
「――以上が、現在判明している状況です」
研究師団長の報告が終わると、広間の空気が一段と冷えた。
瘴気の急激な濃化、封印の不完全化、竜の覚醒。
言葉としては理解していたはずなのに、こうして並べられると、現実が重くのしかかる。
そして――
討伐部隊の指揮官は、俺だ。
「殿下、やはり危険です」
騎士団長の声が、硬い石壁に反響する。
続く声も、どれも焦りを隠しきれていなかった。
「王家には、もはや殿下しか――」
「あなた様でなくとも、方法は――」
俺は手を上げ、すべてを制した。
「この弓を引けるのは、俺しかいない」
静かな声だったが、広間に響いた。
「それが、この討伐の条件なら――俺が行くのが筋だ」
誰も言い返せなかった。
王家の弓を前にして、反論できる者はいない。
「それに」
一呼吸、置く。
「これは、俺自身の意志だ」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
広間に、ざわめきが残っている。
鎧が触れ合う微かな音、呼吸の乱れ、張り詰めた沈黙。
俺は一歩、前に出る。
「――俺は、王子としてここに立つわけじゃない」
その言葉に、数人がわずかに顔を上げた。
予想していた訓示とは違う、という戸惑いが伝わってくる。
「王家の人間として――」
弓を持つ手に、意識的に力を込める。
弦が、低く鳴った。
「この国の未来に、責任を持つ者として、俺は前に立つ」
今度は、はっきりと空気が変わった。
誰かが息をのむ音。
誰かが、背筋を伸ばす気配。
「この討伐は、命令じゃない」
視線を巡らせる。
騎士団も、魔法師団も、全員の顔がこちらを向いていた。
「俺は、お前たちに“従え”とは言わない」
その決意を託すように、静かに間を置く。
「――貸してくれ」
弓を掲げる。
「お前たちの力を、誇りを、そして、その未来を」
沈黙が落ちる。
だが、それは拒絶ではなかった。
最初に動いたのは、前列の騎士だった。
剣を鳴らし、片膝をつく。
それに続いて、魔法師団の者たちが胸に手を当てる。
次々と、音が重なっていく。
最後には、全員が一斉に敬礼していた。
声はなかった。
だが、そこにあったのは、迷いのない意志だった。
――この者たちとなら、行ける。
俺は弓を握り直し、静かに息を吸った。
「出発は、今から一刻後」
宣言した瞬間、空気が引き締まった。
――ステラたちは、無事だろうか。
彼女なら。
彼女たちなら、きっと。
必ず、全員を生きて連れ帰る。
それが王家の役目であり、俺自身の選択だ。
******
アレンの声が、広間に静かに落ちた。
誰かを煽るような大声でも、英雄めいた言葉でもない。
それでも、あの場にいた全員の背筋が伸びるのがわかった。
――王子としてではなく。
――王家の人間として。
――この国の未来に責任を持つ者として。
その一つ一つが、矢のように胸に刺さる。
……ずるいな。
そう思った。
前に立つ覚悟を、あそこまで迷いなく示されてしまえば、ついていくしかない。
周囲の空気が変わる。
騎士団も、魔法師団も、言葉を交わさずとも同じ方向を向いていた。
敬礼が揃う音が、遅れて響く。
アレンの横顔を見た。
以前よりも、少しだけ遠い。
けれど――その背中に、安心して預けられると思った。
考えるより先に、足が前へ出ていた。
「殿下」
呼びかけると、アレンはすぐにこちらを見た。
その目に、驚きはない。
俺が何を言うか、最初からわかっていたような顔だ。
「先遣隊を、志願します」
広間が、わずかにざわめいた。
「前線確認部隊と、連絡が途絶えています。瘴気の濃度も上がっている。本隊が到着するまでに、状況を掴み、道を切り開く必要があります」
それは理屈だった。
だが、本音は別にある。
――彼女が、そこにいる。
その一言を飲み込むと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
息が少しだけ浅くなる。
ステラの笑顔が、脳裏をかすめた。
アレンは、ほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……行け」
短い言葉だった。
「頼んだぞ、ルカ」
胸の奥が、わずかに熱くなる。
「はい」
それだけ答えて、踵を返した。
隣に立った男が、軽く俺の背中を叩く。
「俺も行く。あそこには――俺の家がある」
同期のゲランドだった。
騎士団に入ったばかりの頃から、身分を理由に距離を置くことなく接してきた男。
平民出身の俺に対しても、それは変わらなかった。
以前、彼がステラの従兄だと聞いた時、妙に腑に落ちたことを思い出す。
彼女の周りにいる人間は、どこか似ている。
「無茶だぞ」
そう言いながらも、止める気はなかった。
「だからだ」
ゲランドは短く笑う。
言葉はそれ以上いらなかった。
彼の後ろに、さらに数名の騎士が無言で並ぶ。
誰も名乗らず、理由も語らない。
だが、その立ち方と視線だけでわかる。
精鋭だ。
説明はいらない。
俺は一度だけ、アレンの方を振り返った。
アレンは何も言わず、ただ視線で頷いた。
「行くぞ」
その一言で、すべてが決まった。
ステラ。
名前を、声に出さずに呼ぶ。
止めた。
突き放した。
それでも――。
胸の奥が、焼けるように痛む。
「待っていろ」
誰に言うでもなく呟いて、馬に跨る。
馬の腹を蹴ると、王宮が一気に遠ざかっていった。
その時――風が、不自然に止んだ。
空の端に、黒い雲がゆっくりと渦巻いているのが見えた。
嫌な予感が、背筋を冷たく撫でた。
それでも、行くしかない。
馬は、闇の方へと駆けていった。




