53.歪みの始まり
一話分の投稿が抜けていたため、本日、抜けていた話(52話)と続きの話(53話)を合わせて再投稿しています。1月8日投稿の53.歪みの始まりを先に読んでしまった方、大変申し訳ありません。今後は気をつけて投稿していきます。
あれから――
何も、変わらない。
ジェームズ様も、ルカ様も。
まるで何事もなかったかのように、以前と同じ距離で、同じ言葉を交わしていた。
あの日、ルカ様に言われた言葉が、胸の奥でまだ疼いている。
――「幼いあなたが抱いた気持ちは、偶然が作ったものです」
――「もう、私に縛られないでください」
思い返すたびに、胸のどこかがきゅっと縮む。
たぶん私だけが、答えの在り処が見えないまま、立ち止まっている。
予定より早く終わった仕事の書類を束ね、かといって屋敷に戻る気にもなれず、王宮中庭のベンチに腰を下ろした。
夕暮れの名残を抱いた風が、噴水の水面を揺らしている。
「ステラ様」
顔を上げると、そこにいたのはハロルド様だった。
「ハロルド様……」
「少し、お疲れのようですね」
その一言で、胸の奥を見透かされた気がした。
「……ルカと、何かありました?」
言葉を返せずにいると、沈黙がそのまま答えになってしまう。
「さきほど、模擬戦で彼が珍しく負けましてね」
「え……?」
「格下相手に、です。……あなたと何かあったのでは、と」
「どうして、私だと?」
そう尋ねると、ハロルド様は困ったように、けれど穏やかに笑った。
「ルカが感情を乱す時は、いつもあなたが関わっている時ですから」
初めて知る、彼の一面。
胸が、ちくりと痛んだ。
――それなら、どうして。
どうして、あんな言い方を。
「……ハロルド様」
「はい」
「どうして、この国では……結婚に、身分が必要なんでしょう」
ぽつりとこぼれた言葉に、彼はすぐには答えなかった。
「……伝統、でしょうね。良くも悪くも」
「身分を超えて、結婚できる方法って……ないんでしょうか」
あまりに率直な問いに、ハロルド様は苦笑した。
「申し訳ありませんが、私には……あ、いや」
「何かあるんですか!?」
「『勇者の約束とご褒美』です」
思わず、肩を落とした。
「……あの、童話の」
「ええ。何も持たない勇者が竜を討ち、姫を得る話です」
「物語じゃないですか……」
「ですが、事実が元になっているという説もあります」
「でも……竜が現れたら、それどころじゃありませんよね」
「……国が、滅びかねません」
しばしの沈黙の後、二人して小さく笑った。
「……変なこと聞いて、ごめんなさい」
「いえ」
立ち上がる私に、ハロルド様は真剣な声で続けた。
「ステラ様。私も、ロイも、殿下も……あなたの味方です」
「……ありがとうございます」
その言葉に、ほんの少しだけ、背中を押してもらえた気がした。
******
執務室に現れたルカは、いつも通りだった。
だが俺にはわかる。
この顔は――限界の一歩手前だ。
「お前……寝てないだろ」
「いや、大丈夫」
笑って見せるが、目の奥がまるで笑っていない。
“信用ならない奴の顔”を、今日に限っては本気で殴りたくなった。
「ロイ」
それだけで察したロイが、無言で動く。
俺とロイで左右から両腕を掴み、強引に長椅子へ押し込む。
抵抗する気力すら残っていないのが、逆に怖い。
「はい。これ飲んで」
「……公務中なんだけど」
「気にするな。倒れたら元も子もないだろ」
「回復薬よ。安心して」
怪訝そうにしながらも、ルカはポーションを飲み干した。
「……少し、眠くなるけどね」
「――っ!」
抗議する間もなく力が抜け、瞼が落ちる。
ロイが慣れた手つきで横たえた。
エドウィンが余計なことを言ったあの日。
ステラを送って戻ってきたルカは、どこか空白を抱えたような顔をしていた。
それが今日まで、ずっと続いている。
「……最近、おかしいとは思ってたけど」
「眠れなくなるほど、とはね」
ロイの言葉に、俺は深く息を吐いた。
「……ステラの様子は?」
「表向きは、いつも通り。この子と同じよ」
“同じ”
つまり、ステラもまた、何かを抱えたまま動けなくなっているということだ。
うまくいかない。
何もかも。
そこへハロルドが戻ってきた。
「ついに力尽きましたか」
眠るルカを見て、どこか安堵したように言う。
「無理やりね。起きたら怒られるかしら?」
「ステラ以外のことで怒るところ、見たことないな」
冗談めかして言いながらハロルドを見ると、彼は小さく頷き、そして苦笑を浮かべた。
「……先ほど、ステラ様から身分を超えて結婚する方法がないか尋ねられましたよ」
「お前に相談するなんて、あいつ相当参ってるんじゃないか」
その言葉に、ハロルドはわずかに眉を寄せた。
“自分なんかが相談相手でいいのか”とでも言いたげな、微妙に拗ねた表情だ。
その顔が妙に可笑しくて、俺とロイは思わず吹き出した。
だが――笑いはすぐに消えた。
眠るルカを見下ろすと、胸の奥がじんわりと重くなる。
無理に笑ってごまかしているのは、こいつの方だ。
俺は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……結局、いちばん身分にこだわってんのは、こいつなんだろうな」
言葉にした途端、その重さが自分の中に沈んでいくのがわかった。
王子であること。
王の血を継ぐこと。
選ばれる立場であること。
――それなのに、何一つ、選べない。
「……俺じゃ、足りないのか」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。
ステラでも、ルカでもない。
たぶん、自分自身に向けた言葉だ。
王の印は、まだ父の手にある。
選ばせると誓ったはずなのに、制度も立場も二人を引き裂こうとしている。
変えられない現実と、守りたい人間。
その間で、何もできない自分が、一番腹立たしかった。
******
数日後。
魔法師団の研究室で、私はいつも通り瘴気の記録を追っていた。
けれど――“いつも通り”なのは、手の動きだけだった。
胸の奥には、あの日から続くざらついた痛みが、まだ沈殿している。
それでも、仕事をしている間だけは、考えずにいられた。
瘴気が消える直前、浮かび上がる文字。
――また、二つ。
瘴気が霧散する瞬間、重なって浮かぶ魔獣の文字。
一つは、見慣れた中級魔獣の印。
そしてもう一つ――。
「記録にない?」
ジェームズ様の声が、低く研究室に響いた。
呼び寄せられた研究員が、顔色を変える。
「魔獣研究室の分類にも、存在しません」
「じゃあ、これは……」
「可能性ですが」
研究員は慎重に言葉を選んだ。
「……“竜”に関連する古い符号と、酷似しています」
室内が、静まり返った。
「封印が……不完全になっているのかもしれません」
「封印?」
思わず問い返す。
「土地に刻まれた古い結界です。本来、瘴気を均質に抑えるものが――」
「今は、土地や魔獣と同調して、性質を変えている?」
ジェームズ様が続けると、研究員は、ゆっくりと頷いた。
「もしかしたら……竜が、目覚めている……?」
胸の奥が、冷たく締め付けられる。
背筋をなぞるような、嫌な予感。
あの童話が、ふと脳裏をよぎる。
――物語じゃ、なかった。
竜は、
世界の歪みの、象徴だったのだから。
***
古い地図に目を落とす。
最初に二重の瘴気が確認された地点。
そこに記された印を見た瞬間、胸の底で不穏な影が揺れた。
――ヒディアシ領。
この国の辺境にある領主の叔父、叔母と従兄弟たちの顔が浮かぶ。
穏やかな土地のはずなのに、地図に刻まれたその印は、どこか不吉な形をしていた。
似ている。
本来の魔獣の奥に見えた、もう一つの文字とよく似ている印が地図に記されている。
「ステラ?」
ジェームズ様が心配そうに顔を覗き込む。
「……この印、なんだかわかりますか?」
ジェームズ様が地図を覗き込み、記憶を探るように眉を寄せた。
「……これは、封印の印……?」
封印。
その言葉に、遠い記憶が呼び起こされる。
幼い頃、領地に遊びに行ったとき。
大人たちが決して近づいてはいけないと言っていた場所。
理由は教えてくれなかった。
ただ、あの場所だけは“触れてはいけない”と。
そこに、ロイ様が別の地図を広げる。
「これを見てちょうだい」
二重の文字が見えた瘴気の地点を線で結ぶ。
古地図の印と、重なった。
予感が次第に形になっていく。
あの地には、何かが閉じ込められている。
言葉にしてしまえば、引き返せなくなる、何かが。
***
重い扉が閉じられ、室内の音がすべて切り離された。
円卓の上には、いくつもの地図と報告書。
中央には、封印地と記された辺境の印が赤く示されている。
「――揃ったな。始めよう」
アレン殿下、魔法師団長、騎士団長、研究師団長。
その後方にはロイ様、そして護衛としてルカ様とハロルド様が控えていた。
視線を集めるのには慣れている。
けれど、今日のそれは、少しだけ重たかった。
「報告を」
アレン様の声に促され、私は一歩前に出る。
「先日、研究師団の調査に立ち会い、瘴気の発生地点を確認しました」
封印の地からは、離れた場所だったが、瘴気の質は明らかに異質だった。
「濃度は高く、性質はこれまで観測されてきたものとは異なります」
机上に広げられた地図を指し示す。
「私の無効化は有効でした。ただし――完全ではありません」
室内が、わずかにざわついた。
「無効化で、消えない瘴気?」
魔法師団長が眉をひそめる。
「はい。正確には“消えない”というより、“奥に何かがある”感覚でした」
言葉を慎重に選ぶ。
「瘴気が、こちらを避けるように引いたのです」
「捕捉します」
隣のジェームズ様が口を開く。
「彼女が触れた瞬間、瘴気の流れが変わりました。意思を持つような挙動でした」
研究員も頷く。
「地脈との共鳴反応が見られました。自然発生とは考えにくい」
「つまり――」
騎士団長が低い声で言う。
「高位魔獣、もしくはそれ以上の存在が関与していると?」
ロイ様が一歩前に出た。
「可能性は高いです」
全員の視線が、彼に集まる。
「瘴気の質が単一ではありません。封印由来のものと、土地そのものが変質し始めた兆候が重なっています」
「土地が、変質?」
研究師団長が息を吞む。
「はい。封印が不完全になり、瘴気が環境と同調し始めている。……このまま進めば、魔獣の性質そのものが変わる恐れがあります」
短い沈黙の後、研究師団長が、静かに問う。
「……“竜”の可能性は?」
ロイ様は一瞬だけ目を伏せ、そして言った。
「否定できません」
室内の空気が、ひりつくように張り詰めた。
「確認が必要だな」
アレン様が言う。
「瘴気の中心に近づき、実態を把握する必要がある」
私は息を吸い、前に出た。
「私が行きます」
自分の声が、驚くほど落ち着いて聞こえた。
「無効化で直接確認します。それが、被害を最小限に抑える最短の方法です」
「危険すぎる」
騎士団長が即座に反対する。
「承知しています。ですが、瘴気がこのまま拡散すれば、領地全体が影響を受けます」
「領地……?」
団長たちが地図を見る。
「そこは……ヒディアシ領です」
辺境ではあるが、国防と物流の両面で欠かせない、戦略上重要な領地だ。
もし失えば、国そのものが揺らぎかねない。
再び沈黙が落ちた。
「護衛と部隊を最大限つける」
アレン様が結論を出す。
「前線確認は、ステラ・ハワードに任せる」
その瞬間――
背後から、かすかな衣擦れの音がした。
振り返らなくてもわかる。
ルカ様が、一歩踏み出しかけて、止まった。
何かを言いかけて、飲み込んだ気配。
胸の奥が、痛む。
けれど私は、あえて振り向かなかった。
「異論は?」
アレン様の問いに、誰も声をあげない。
「では、決定だ」
廊下に出た瞬間、会議室の熱が嘘のように引いていった。
足音だけが、静かに床に落ちていく。
背中に残る視線の痛みは、まだ消えない。
振り返れば、きっと揺らいでしまう。
だから私は、ただ前だけを見た。
怖くないわけじゃない。
胸の奥のざわつきも、あの日の言葉の痛みも、まだそこにある。
それでも――。
進まなければならない。
誰かの為ではなく、自分の意志で。
私は小さく息を吸い、歩幅をほんの少しだけ広げた。
その一歩が、どれほど心細くても。
前に進むと決めたのは、私自身なのだから。




