52.選択の始まり
一話分の投稿が抜けていたため、本日、抜けていた話(52話)と続きの話(53話)を合わせて再投稿しています。1月8日投稿の53.歪みの始まりを先に読んでしまった方、大変申し訳ありません。今後は気をつけて投稿していきます。
殿下の執務室で、私はアレン様と向かい合い、議会に提出する議題書について意見を交わしていた。
ふと窓の外を見ると、空はすっかり夜の色に染まっている。
その時、ノックと同時に扉が開いた。
「返事を待てよ」
アレン様がうんざりした声を漏らす。
「優秀な護衛がいるんだから、問題ないだろう」
軽く笑いながら入ってきたのは、宰相補佐のエドウィン義兄様だった。
ちらりとルカ様を見て、意味ありげに微笑む。
「何の用だ」
アレン様の声は露骨に不機嫌だ。
「婚約の話だ」
その一言で、アレン様の表情がさらに曇る。
「またか」
「まただ。いい加減、真剣に考えてくれ。政務的にも悪くない縁だ――」
その流れで、視線がこちらに向いた。
「それに、ステラ。君も、そろそろ身を固める時期だろう」
善意で言っているのが、かえって厄介だった。
「王宮に出入りする以上、余計な憶測を避けるためにもな。君の立場なら、むしろ早く決めた方が得だろう?君なら候補はいくらでも――」
その時、再びノックが響いた。
控えめだが、訓練された者特有の無駄のないリズム。
「ロイ隊長、いらっしゃいますでしょうか」
聞きなれた声。
ロイ様が扉へ向かい、静かに開ける。
そこに立っていたのは、魔法師団の制服をきちんと着こなしたジェームズ様だった。
夜の執務室の灯りを受け、肩章の金糸がわずかに光る。
任務中らしい緊張感を纏いながらも、表情は柔らかい。
「失礼いたします。殿下」
深く礼を取る所作は、魔法師団らしい規律の美しさがあった。
アレン様は軽く頷くだけで応じる。
ジェームズ様が姿勢を正すのを見て、エドウィン義兄様が「ああ」と小さく声を漏らした。
まるで、記憶の引き出しが開いたように。
「そういえば……ステラ、彼のことを聞いたぞ」
視線が私に向く。
「弟からだ。プロムのパートナーだったそうだな」
突然の話題に、私は反射的に目を伏せた。
アレン様は、ほんの一瞬だけこちらを見た。
その視線は、言葉にならない何かを含んでいた。
ジェームズ様は肩をすくめ、穏やかに笑う。
「懐かしい思い出ですね」
エドウィン義兄様は、その言葉に乗るように、しかしどこか探るような声音で続けた。
「魔法師団は今、若い人材の結束が重要だと聞いている。個人の縁が組織を強くすることもある……そうだろう?」
ジェームズ様は一瞬だけ目を細めた。
政治的な意図を察したのだろう。
だが、あくまで柔らかい笑みを崩さない。
「ええ。ですが、私の立場で“縁”を口実にするのは、少し危険ですよ。誤解されやすいので」
「誤解される程の立場なら、むしろ良縁は歓迎されるはずだ」
エドウィン義兄様は軽く笑う。
「君もまだ独身だろう。どうだ、ステラは?」
「彼女さえよければ、僕は喜んで」
冗談めかした声。
悪気のない笑顔。
だからこそ、胸の底がざわりと逆立った。
「それなら早速――」
……そこで、何かがぷつりと切れた。
私はゆっくりと息を吸った。
「――その話、いつから決定事項になってるんですか?」
自分の声が、思ったより冷静だったことに、少し驚く。
「私は、誰かと結婚する前提で、ここに立っているわけじゃありません」
エドウィン義兄様が眉を上げる。
「ステラ、そういう意味じゃ――」
「そういう意味です」
きっぱりと言い切る。
「私の人生を、誰かの都合で話し合わないでください」
空気が凍りつく。
ロイ様は何も言わず、アレン様も口を挟まない。
ルカ様の気配だけが、背後に静かにあった。
「私は公爵補佐としてここにいます。仕事の話なら、いくらでも受けます。でも――」
そこで一度、言葉を切る。
「結婚相手の相談をするために来た覚えはありません」
そのまま、すっと立ち上がる。
「失礼します」
扉に手をかける瞬間、背後から何か言われた気がしたけれど、振り返らなかった。
今、ここにいたら、きっと泣くか、もっとひどいことを言ってしまう。
扉を開け、廊下に出る。
冷たい空気が、頬に触れた。
「ステラ!」
追いかけてくる足音。
振り向くより先に、声でわかった。
「待ってくれ」
ジェームズ様だった。
私は足を止めたまま、まだ彼を見ない。
「……さっきのは悪かった」
「冗談でも、嫌です」
「……ああ。わかってる」
ためらうように、短い沈黙が挟まった。
「でもね」
静かな声だった。
「冗談で言ったわけじゃない」
振り向くと、彼は真っ直ぐこちらを見ていた。
さっきまでの軽さはない。
「僕は、今でも君が好きだ」
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……私は――」
「言わなくていい」
重ねるように、彼は首を振った。
「君が誰を想っているかは、知っている。それに……彼との未来が簡単じゃないことも」
言葉に詰まる私を見て、彼は少しだけ微笑んだ。
「だから、待つよ」
その言い方は、押しつけがましくなかった。
「君が前に進むのを邪魔しない距離で。それでも、隣にいられるなら」
「……ジェームズ様……」
彼は一歩だけ近づいて、けれど触れることはなかった。
「選ぶのは君だ。どんな答えでも、受け止める」
そう言って、背を向けた。
去って行く背中を、私は呼び止められなかった。
一人になった――そう思った、その時。
「ステラ様」
肩が、びくりと跳ねる。
振り向くと、ルカ様がそこにいた。
いつもと変わらない、穏やかな表情で。
「もう暗いので、お送りいたします」
今の、聞かれていただろうか。
返事ができずにいると、
「殿下の命なので」
その一言で、断れなくなる。
私の半歩後ろを、彼が静かに歩く。
馬車が見えてきても、言葉はなかった。
「……ステラ様」
足を止める気配に、振り返る。
「昔、あなたに誓ったことを覚えていますか?」
「はい……」
「あの誓い、もう時効ですよね」
その先にある言葉が、怖かった。
「それは……ルカ様に、好きな方がいらっしゃるということですか……?」
彼はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。ただ……もう、あなたが縛られる必要はないと」
「……私は、縛られてなどいません」
「多分、あなたは勘違いをしている」
「……勘違い?」
一瞬だけ、彼の視線が揺れたように見えた。
「あなたを助けたのは偶然でした。お互いに前世の記憶を持っていたのも……ただの偶然です」
言葉を区切るたび、彼の声は少しずつ低くなる。
「幼いあなたが抱いた気持ちは……その偶然が作ったものです」
「そんなんじゃ、ありません」
「……あの時にも言いました。あなたが誰を選んでも――と」
穏やかな微笑み。
「もう、私に縛られないでください。あなたが大切に思う人たちと、幸せになってください」
その表情の裏にあるものは、何も読み取れなかった。
本心だからこそ。
何も言えなくなった。
優しい拒絶。
どうやって別れたのか、覚えていない。
気がつくと、馬車は静かに屋敷の前に止まっていた。
******
先ほどまでの彼女とのやり取りが、脳裏で勝手に反芻される。
言葉も、表情も、沈黙の間さえも。
彼の告白を聞いた瞬間――
もう、彼女を手放すべきだと思った。
――何年でも、待つ。
嘘ではない。
時効なんて、俺の中には最初から存在しなかった。
誰よりも、あの誓いに縋っているのは、自分自身だ。
「それは……ルカ様に、好きな相手がいらっしゃるということですか……?」
その問いに、ほんの一瞬、息を失った。
好きな相手。
答えは、目の前にいた。
だが、それを口にする資格はない。
首を横に振った瞬間、内側で何かが静かに崩れ落ちる。
彼女を解き放つための言葉は、同時に、自分を切り捨てる刃だった。
「……私は、縛られてなどいません」
その否定が、痛いほど刺さる。
彼女は誰にも囚われていない。
自分の意志で、ここに立っている。
だからこそ――
自分が彼女の選択肢の一つであるという思い上がりを、ここで終わらせなければならなかった。
間違っているのは彼女じゃない。
都合よく“間違い”にしなければ、俺が彼女を手放せなくなるだけだ。
「……そんなんじゃ、ありません」
その言葉に、ほんの一瞬、救われてしまう自分がいた。
だからこそ、続けた。
もう、俺に縛られないでほしい。
それは願いであり、命令であり――
何より、自分自身への戒めだった。
俺を含めない未来を、選んで。
彼女が何も言えなくなったのを見て、それ以上は何も言えなかった。
ここで一歩でも踏み出せば、俺は、彼女を“守る側”ではなく、“縋る側”になってしまう。
それだけは、許されない。
背を向けた時、胸の奥に確かな痛みが走った。
少しでも彼女に近づけるかもと掴んだ身分は、皮肉にも、彼女を遠ざけるものになった。
それでも――
彼女の姿を近くで見ていられるなら。
たとえ、誰が彼女の隣に立つことになったとしても。
……本当は、
誰よりも彼女の隣に立ちたいのに。
その願いを飲み込んだ瞬間、彼女の未来から、自分だけがそっと外れていくのを感じた。




