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無効化令嬢の恋と改革  作者: 鴨治玲


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52/62

51.それぞれの距離

「今日はここまででいいだろう」

向かいの卓で書類をまとめていたジェームズ様が、穏やかに声をかけてきた。

「はい」

机の上に残された記録用紙を整え、インク壺の蓋を閉じる。

瘴気の反応を書き留めた文字が、ランプの光に照らされて淡く浮かび上がっていた。

今日一日で得られた情報は多い。それなのに、頭の奥には奇妙な静けさがあった。


椅子から立ち上がると、張り詰めていた身体がふっと緩むのがわかった。

外はもう、夜の気配が濃い。


「もう遅いから、送ろう」

一瞬だけ、言葉に詰まる。

断る理由はない。けれど、受け入れることに、少しだけ躊躇があった。

「……お願いします」

それでも、そう答えたのは、きっとこの時間の余韻を一人で終わらせたくなかったからだ。

西棟の区画を出ると、石造りの廊下には人影もまばらで、足音がやけに響いた。

並んで歩く距離は、自然と昔と同じくらいになる。


「こうして並ぶの、久しぶりだな」

ジェームズ様が、前を見たまま笑う。

「そうですね」


学院の回廊。

あの頃も、よくこんな風に歩いた。


「忙しそうだな。公爵補佐に、魔法師団の協力まで」

「少し、欲張りすぎかもしれません」

「君らしい」

くすりと笑う声に、私も思わず口元を緩めてしまう。

気負わない会話。

無理に踏み込まない距離。

それが、心地いい。


「でも」

ふと、ジェームズ様の声が低くなる。

「前より、遠くなった気がする」

足が止まりかけて、私は視線を落とした。

「……そう、でしょうか」

「いや、悪い意味じゃない」

彼はすぐに続けた。

「手が届かなくなった、とかじゃない。君が、自分の足で立ってるってだけだ」

その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。


懐かしさはある。

感謝も、尊敬も、確かにある。


けれど――

「ジェームズ様」

名前を呼ぶと、彼はこちらを見る。

「私は……今の距離が、ちょうどいいです」

一瞬だけ、空気が止まった。

彼は何も言わず、ただ穏やかに微笑む。

「そうか」

それ以上、踏み込んではこなかった。


王宮の中庭に出ると、夜気が頬をなでる。

遠くに灯る灯りの向こう、王子の執務室がある方角に、無意識に視線が向いてしまう。

――あの人がいる場所。

自覚した瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


ルカ様。

近いはずなのに、遠い人。

手を伸ばせば届きそうなのに、届かない人。


「送ってくれて、ありがとうございました」

「気をつけてな、ステラ」

別れ際の声は、優しくて大人びている。

それでも、もう心を惑わせることはなかった。

懐かしさは、恋じゃない。

優しさも、期待とは違う。


私の心は――最初から、ずっとあの人に向いていた。

それを今夜、ようやく認めただけだ。



******



彼女を送り届けた後、足は自然ときた道を戻っていた。

魔法師団の区画へ向かう回廊は、昼間よりも静かで、靴音がやけに響く。


窓の外に目をやると、王宮のあちこちに灯りが残っていた。

まだ仕事をしている者がいる証だ。


彼女が視線を向けていた先――

殿下の執務室の方角にも、変わらず光が灯っている。


そこに誰がいるかなど、考えるまでもない。

胸の奥で、曖昧だった感情が静かに輪郭を持った。


自分は過去で、

彼は現在。


学院で過ごした時間、語り合い、並んで歩いた日々。

それらは確かに彼女の一部だ。

だが今、彼女が向き合っている現実の中心にいるのは、あの男だ。

立場、身分、環境。

どれを取っても、彼女の選択は容易ではない。

それでも、彼女の心は、あの男の方を向いている。


想いはそう簡単に消えない。


だが踏み込み方を誤れば、彼女を傷つける。

だから今は、胸の奥に想いをしまい込む。

彼女が自分の足で進むなら、その背を支える位置にいればいい。


そう、思った矢先だった。


前方から近づいてくる人影に気づき、反射的に足を止める。

相手もこちらに気づいたようだったが、視線を逸らし、そのまま横を通り過ぎようとした。


――逃がすわけにはいかない。


「……少し、いいですか」

思ったよりも、声は落ち着いていた。

呼び止められた男――ルカ・ヘイルは、足を止め、静かに振り返る。

間近で見る彼は、噂通りの騎士だった。

無駄のない立ち姿。

感情を表に出さない目。


「あなたは――」

一度、言葉を選ぶ

「ステラの気持ちを、どこまで知っているんです?」

問いは直球だった。

彼は一瞬だけ目を伏せ、やがて短く答える。

「……存じているつもりです」

その言い方に、確信と、同時に迷いが滲んでいた。

「なら、迷わせている自覚は?」

沈黙が落ちる。

否定も、肯定もない。


「僕は、彼女が好きです」

告白というより、事実の確認だった。

彼の表情は変わらない。

だが、視線の奥に、わずかな緊張が走ったのがわかる。

「……自分はステラ様の幸せを一番に願っています」

その言葉は、嘘ではない。

だからこそ、胸の奥が痛んだ。

「ええ。だからこそ、聞いているんです」

踏み込むでも、引くでもない距離。

それ以上は、言わなかった。


彼は何も答えず、静かに背を向ける。

騎士としての歩幅で、音もなく去って行った。


その背中を見送りながら、思う。

彼もまた、逃げてはいない。

だが、選んでいる。


彼女のそばに立ち続けることを。


――なら、自分はどうする?


答えはまだ出ない。

けれど、一つだけ、確かなことがあった。


この想いは、まだ終わらせない。

彼女を奪うためではなく、彼女が自分で選ぶ、その瞬間まで――。


踵を返し、再び魔法師団へ向かう。

夜の回廊は、先ほどよりも少しだけ、重く感じられた。



******



背を向けて歩き出したあとも、足取りは自然だったと思う。

少なくとも、自分ではそう信じている。


廊下の石床に響く靴音が、やけに大きく感じられた。

振り返らなかったのは、意地でも、逃げでもなかった。


――迷わせている自覚は?


彼の言葉が、遅れて胸に落ちてくる。

迷わせている。

その指摘を、否定できるほど、俺は傲慢ではない。


ステラの顔が、否応なく浮かぶ。

俺の顔を見ると、嬉しそうな、安心したような、微笑み。

あれを――

俺が、縛っているのだとしたら。

「……」

思わず、息を吐いた。


平民――しかも貧民街出身。

騎士団に所属したところで、彼女の隣に立つには不釣り合いだと、誰より自分が知っている。


結ばれないと、伝えるべきか。

それが、優しさなのか。


だが――言えるだろうか。


彼女の幸せを誰よりも願っているのに。

手を離すことも、引き留めることも、できない。


廊下の突き当りで立ち止まり、天井を仰ぐ。

石造りのアーチが、ひどく遠い。


もし、俺が彼女の前から消えれば、彼女は少しは楽になるのだろうか。

そう思った瞬間、胸の奥に、確かな痛みが走った。

幸せを願うと言いながら、自分が耐えられない未来から、目を逸らしているだけだ。

答えは出ない。

だけど、俺はきっとまた彼女に会えば、いつも通りに接してしまう。


本当は――

手放したくないから。


その事実から、まだ目を逸らし続けている。


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