50.魔法師団
王宮の西棟へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
石と薬草の匂いが混じり合い、肌の表面に薄い緊張がまとわりつく。
学院の魔法教室とは違う。
ここにあるのは――実践と研究、その両方を背負う者たちの呼吸がある。
すれ違う魔法師たちは、私に一瞬だけ視線を向けるが、すぐに自分の仕事へ戻っていった。
その無駄のない動きが、この場所の重さを物語っていた。
「ここが、魔法師団の中枢よ」
隣を歩くロイ様の声は、静かで、しかし確かな重みを帯びていた。
「瘴気の調査、魔獣討伐の補助、魔法理論の検証、魔道具の作成。表に出ない仕事も多い。あなたが学院で見てきた“魔法”とは、少し違うかもしれない」
「……覚悟はできています」
そう答えると、ロイ様はわずかに目を細めた。
「あなたに頼みたいのは、瘴気の質を見極めること。そして――無効化」
執務室の扉が開く。
机いっぱいに広がる地図と魔法陣、壁際に積まれた封印箱。
その光景を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに形を取り始めた。
「今まであなたに解析してもらった瘴気を元にポーションを作ってきたけれど……最近、同じ魔獣由来のはずなのに、反応が揃わなくなってきているの」
ロイ様は図を指でなぞりながら続ける。
「あなたなら、それが“どこから来たものか”を見分けられる。そして、武具や結界への一時的な無効化付与。これは魔法師団だけでは補えない領域ね」
期待と慎重さが入り混じった視線が向けられる。
私はゆっくりと頷いた。
「私ができることであれば、協力します」
その言葉を聞いたロイ様は、少しだけ苦笑した。
「ただ、あなたは一人で頑張りすぎるから、サポートをつけたいと思ってる」
「サポート……ですか?」
「そう。記録、検証、実地確認。あなたの判断を即座に解決できる者が必要なんだけど――」
ロイ様が人選に思案していたその時。
「それなら、僕でどうでしょうか」
聞き覚えのある声が、少し離れた場所から響いた。
振り向くと、ジェームズ様が立っていた。
「瘴気分析と補助魔法は、今は僕の担当分野です。それに――」
一瞬だけ、私を見る。
「僕なら彼女の力を良く知っていますし、いざという時は回復魔法もかけられます」
ロイ様は私たちを見比べ、短く息を吐いた。
「……確かに、一番の適任ね」
そう言ってから、私へ視線を戻す。
「ステラ、彼をサポートにつけたい。いいかしら?」
私は一拍置いてから、はっきりと答えた。
「はい。よろしくお願いします、ジェームズ様」
「こちらこそ」
交わした言葉は簡潔だったけれど、その瞬間、“自分の役割”が輪郭を持って立ち上がるのを感じた。
公爵補佐として。
そして、無効化の力を持つ者として。
***
公爵補佐としての一日は、思っていた以上に慌ただしい。
朝は父の執務室で各地から上がってくる報告書に目を通し、昼を過ぎてからアレン様の執務室へ向かう。
そこは――私にとって、ただの仕事場以上の意味を持つ場所だった。
扉をノックすると、ルカ様が柔らかな笑みで迎えてくれる。
その笑みだけで、張り詰めていた心が少し緩む。
「アレン様、この書類にご署名をお願いします。こちらは可否の判断を。それから――」
「……仕事持ってきすぎ」
「仕方ありません。頑張ってください、殿下」
アレン様はため息をつきながらも、手は止めなかった。
別の机で仕事をしていたロイ様から、声をかけられる。
「ステラ、瘴気の件で追加の資料が来ているから、後で魔法師団に顔を出してくれる?」
「わかりました」
部屋を出る時、ルカ様が扉を開けてくれた。
交わす言葉はない。
縮まらない距離。
それでも、同じ空間にいられるだけで十分だと、今はそう思うしかなかった。
公爵補佐の仕事がひと段落したところで、魔法師団に向かう。
同じ王宮にありながら、西棟に近づくにつれ空気が変わっていく。
師団の重い扉を開けると、ちょうどジェームズ様が出迎えてくれた。
「ステラ、ちょうどよかった。追加資料が来ているんだ」
「はい。ロイ様から伺ってます」
案内された部屋は、私の研究室になる場所だった。
瘴気の標本、本棚に並ぶ関連書籍。
ここで私は、自分の役割を果たすのだ。
資料に目を通し、該当の瘴気に無効化をかける。
瘴気がほどける瞬間、指先にかすかな痺れが走った。
――いつもと違う……?
気のせいと言い聞かせても、胸に小さな棘のように残る。
「……この地域から届いた魔石だけ、反応が揃わない」
呟いた声に、ジェームズ様が分析を加える。
「同じ魔獣由来のはずなのに、干渉の仕方が違うな。……瘴気そのものが“変質”している可能性もある」
私は自然と頷く。
議論の呼吸が昔と同じだと気づいてしまうのが、少し悔しい。
「ステラ、これを見てほしい」
差し出された資料に視線を落とす。
彼の指先が近い。けれど、触れない。
その距離感が、以前よりも慎重に見えた。
「……辺境周辺だけ、瘴気が安定している?」
「ああ。まるで、何かに“抑えられている”ように」
ジェームズ様は私の反応を確かめるように、ちらりと視線を寄こした。
学院時代のような、少し柔らかい眼差し。
「昔みたいだな」
ぽつりと彼が言った。
「こうして一緒に考えていると」
一瞬、言葉に詰まる。
確かに、空気は似ている。けれど――
「……でも、同じではありません」
そう告げた私の声は、思ったよりもはっきりしていた。
彼が少し驚いたように目を瞬かせる。
「私は今、自分の選んだ場所に立っています。戻ったわけではありません」
ジェームズ様はすぐには返事をしなかった。
けれど、微かに笑う。
「そうだな。……それでも、君の隣で考えることは許されるだろう?」
私は否定できなかった。
仕事としては、彼の存在は心強い。
ただ――もう、心は揺らがない。
***
数日後。
黒く纏わりつく瘴気は、私の掌の下でほどけるように消えていく。
いつもと同じ――の、はずだった。
……違う。
瘴気が消える瞬間、指先に冷たい痛みが走った。
その奥に、はっきりと浮かんだ文字が――
二つ。
思わず息を止めた私の隣で、ジェームズ様が異変に気づく。
「……何か、見えたのか?」
低い、確認するような、確信めいた問い。
「はい。見えました」
私は視線を戻したまま、答える。
「いつもは、一つだけなのに……。今回は……二つ」
ジェームズ様は一瞬だけ目を見開き、無効化された角片を見下ろした。
「一つは確かにこの角の魔獣のものです。でも……もう一つは見覚えがありません」
学院に入る前から、瘴気を解析してきた。今ではもう数えきれないほどに。
瘴気を持つ魔獣であれば、ほとんど全て、文字の癖まで覚えている。
だからこそ、今目の前にある“知らない文字”が、静かに背筋を冷やした。
「見たことのない魔獣……?だとすると……」
彼は少しだけ考えるように黙り、それから言葉を選ぶ。
「瘴気が発生したんじゃなくて――」
「“通った”、ですか……?」
視線がぶつかる。
「同じことを考えたか」
「同じ魔獣由来のはずなのに、反応が揃わない。それはつまり――」
「魔獣が変わったわけじゃない」
胸の奥が、すうっと冷えていく。
「魔獣は、ただ触れただけだ。もう一つの瘴気の“主”は別にいる」
「……だから、文字が重なる」
「そうだ」
ジェームズ様は息を吐いた。
「魔獣の印の奥に、付着した証である印が残る」
「……今の話、本当?」
開いた扉から、ロイ様が現れる。
私たちは同時に振り向いた。
「無効化の瞬間、二つの文字が出たのね?」
私は頷いた。
「はっきりと見ました。付着した瘴気が薄れていたことを考えれば……今まで見えなかった理由にも説明がつきます」
「……やはり」
ロイ様は苦笑に近い表情を浮かべた。
「瘴気の供給源が、他にもある可能性を考えていたの」
「魔獣は媒介……ですか?」
「あるいは、通過点」
ロイ様はそう言ってから、私たちを見比べる。
「あなたたち、同時にそこまでたどり着いたのね」
「偶然です」
「必然だよ」
ジェームズ様は静かに言った。
「彼女が見て、僕は整理した。それだけです」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも――同時に、感覚のどこかが、ひやりと警鐘を鳴らした。
「ロイ様」
「うん?」
「この瘴気……まだ正体はわからなくても、かなりの規模で動いています」
「そうね」
ロイ様は重く頷いた。
「そして、魔獣ですら“触れただけ”で汚染されるほどの存在」
室内に、短い沈黙が落ちる。
ジェームズ様が、私の横で静かに息を吸った。
「……魔獣討伐じゃ、終わらないな」
「ええ。これは――瘴気そのものを追わないといけない」
二つの文字が、はっきりと脳裏に焼き付いていた。
まだ姿も名も知らない、“何か”の文字が。
世界の均衡が、静かにずれ始めている。
そして私は――
その変化の中心に立つ役割を、確かに自覚していた。




