48.ほどける距離
年が明けた。
領地の冬は静かで、祝祭の余韻だけが薄く残っていた。
一月ほど領内で過ごした後、私たちは王都へ向かった。
冬の空気は領地より硬く、馬車の窓から見える景色もどこかよそよそしい。
向かいに座る父と、視線が合うことはほとんどなかった。
話題は領地の課題、王宮での調整、議会で想定される反論、必要な根回し――。
理想を口にすれば、すぐに数字と現実が返ってくる。
「それでは通らん。民の感情は大切だが、それだけで制度は動かない」
何度目かわからない指摘に、私は唇を噛み、それでも視線だけは逸らさなかった。
怯ませるためだったのか、試しているのか。
その答えは、父の横顔から読み取れない。
「……まだ諦めないのか」
独り言のような声に、私は即座に返す。
「諦めませんよ。私」
父は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を外した。
「……ステラ。お前の結婚なんだが」
「今は何も考えてません!」
食い気味の返答に、馬車の空気がわずかに揺れた。
学院を卒業すれば、多くの女子は婚姻先へ向かう。
それが“当然”だった。
けれど。
騎士団への女性入団は、もう珍しい話ではない。
今では十数人の女性たちが騎士として名を連ねている。
魔法師団や研究師団にも、少しずつだが女性の姿が増え始めた。
風向きは、確かに変わっている。
だからこそ、今退けば“前例”はまた遠のく。
今が踏ん張り時だった。
王宮の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
冷たさではなく、重さ。
磨かれた石床に靴音が吸い込まれ、壁に掲げられた紋章が静かにこちらを見下ろす。
官吏たちの視線が一瞬だけ私を測り、すぐに逸れていく。
――公爵令嬢。
――王宮学院の元生徒会長。
――そして、公爵補佐。
どれも事実なのに、まだ誰の中にも収まりきっていない肩書きだ。
父の半歩後ろを歩きながら、私は背筋を伸ばした。
「おはようございます、公爵閣下。……その方が?」
挨拶に立ち止まった官吏の視線が、私へと流れる。
「娘のステラだ。本日より補佐として入る」
短い説明に、相手は一瞬だけ言葉を失い、それから丁寧に一礼した。
「失礼いたしました。公爵補佐殿」
――殿。
その呼び方に、胸の奥が小さく軋む。
学院でも領地でもなかった距離。
ここでは、もう“若い令嬢”でいる余地はない。
執務室に入ると、父の机の横に簡素な作業机が用意されていた。
書類の山は、容赦がない。
「午前中はこれを確認しろ。領地関連だが、王都側の調整が必要になる」
「はい」
返事をすると、父はもう次の書簡に目を落としていた。
書類をめくる指先が、少しだけ強張る。
言葉遣いは堅く、回りくどい。
けれど、学院で議事録を読んできたおかげで、読み取れないほどではなかった。
途中、何度か官吏や使者が出入りするたび、視線が私を“補佐”として扱おうとする者と、まだ測りかねている者とに分かれているのが、はっきり分かった。
昼を告げる鐘が鳴る頃、父がふと顔を上げる。
「どうだ」
「……想像していたより、ずっと現実的です」
私の答えに、父はわずかに口角を上げた。
「理想は悪くない。だが、ここではまず“通す”ことを覚えろ」
「はい」
簡単な昼食の後、午後は会議への同席だった。
発言は求められない。
けれど、名を呼ばれ、議事録に“同席者”として記されると、
「女性補佐か……」
「公爵家は本気なのか」
そんな低い囁きが、席の端から端へと静かに流れていく。
長く男性だけで占められてきたこの場に、初めて女性の名が加わる――その一行が、空気の重さをわずかに変えていく。
この場所に、自分が確かに存在しているのだと実感した。
夕刻、執務を終えて回廊を歩く足は少し疲れていた。
だが、不思議と心は折れていない。
重い。息苦しい。
それでも――逃げたいとは思わなかった。
ここが、始まりなんだ。
王宮の窓から見える冬の空は、低く、灰色だ。
けれど、その下で動くものは、確かに未来へ続いている。
私は今日、その一端に足を踏み入れたのだった。
数日が過ぎた。
父の隣で議事録に目を通し、必要な個所に意見を書き添える。
学院での生徒会とは違い、一つの判断が領地や国全体に影響を及ぼす重みがある。
「理想を語るのは悪くない。だが、数字を見ろ」
そう言って父が差し出す資料は、容赦なく現実を突きつけてくる。
それでも目をそらさず読み続ける私を、父は横目で見て、わずかに息を吐いた。
「……今日、王太子殿下の執務室に顔を出してこい」
父の声は、いつもより淡々としていた。
「殿下に、ですか?」
唐突な指示に顔をあげると、父は平然と書類をまとめながら続ける。
「学院改革後の人事と、今後の調整について話を通しておきたい。名目はそれでいい」
「……名目、ということは」
言いかけた私に、父は一瞬だけ視線を向けた。
その一瞬に、言葉以上の意味が宿っている。
「顔を合わせておけ。今後も王宮で働くなら、避けて通れん相手だ」
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙が“覚悟を問う”ものだと分かった。
「……承知しました」
王宮の回廊は、学院とは違う静けさに満ちていた。
磨かれた石床が冬の光を鈍く返し、足音が吸い込まれていく。
歩くほどに、背筋が自然と伸びる。
――アレン様。
最後にきちんと顔を合わせたのは、あの夜。
白い結婚という言葉と、手のひらに残った痛み。
思い出したくないのに、冬の空気が記憶を呼び起こす。
角を曲がった、その先。
魔法師団の制服に身を包んだその人が、立ち止まってこちらを見ていた。
以前と変わらない、整った顔立ち。
けれど、纏う空気は少しだけ大人びていて、王宮の一部として自然に溶け込んでいる。
「ジェームズ様……」
思わず、声が零れた。
「ステラ」
短く名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が一瞬だけ熱くなる。
プロムの夜以降、顔を合わせることはなかった。
けれど、忘れたことはなかった。
あの日、告げられた言葉。
忘れたいのに、ふとした拍子に思い出してしまう声。
――それでも。
ルカ様と再会してから、私の中で彼への想いは、恋ではなくなっていた。
私を支えてくれた記憶として、静かに胸に残っている。
「久しぶりだな」
微笑を含んだ声。
相変わらず、軽やかで、けれどどこか距離を測るような目。
「お久しぶりです」
自然と、私も微笑んでいた。
「こんな所でどうした?迷子か?」
「違います。殿下の執務室へ」
そう答えると、彼は一瞬だけ目を細めた。
「本当に公爵になるつもりなんだな」
「まだ補佐の身ですが……そのうち、必ず」
言い切ると、彼は小さく笑った。
「初の女性公爵、か。楽しみだな」
並んで歩きだす。
歩幅が自然とそろう感覚に、懐かしさが胸に触れた。
「ジェームズ様は、どちらへ?」
「……こっちの方に用があってな」
曖昧な返事。
けれど、しばらく同じ方向を歩く。
別れ際、彼は立ち止まり、こちらを見た。
「無理はするなよ。王宮は、学院よりもずっと冷たい」
「……承知しています」
短く答えると、彼はそれ以上踏み込まなかった。
その距離の取り方が、今の私たちには、ちょうどよかった。
その時だった。
回廊の先から歩いてくる人影を認めた瞬間、胸がはっきりと跳ねた。
「……ルカ様!」
声が自然と高くなる。
彼は隣にいた騎士団員と話をしていたが、私に気づくと、すぐに視線を向けた。
そして、以前と変わらない、柔らかな笑みを浮かべる。
「ステラ様。どうされました?こんな所で」
歩み寄ると、自然と足が速くなるのを自覚していた。
「殿下に御用がありまして」
「それなら、自分もご一緒します」
そう言って、隣の騎士団員に短く指示を出す。
公務の場に立つ姿は、昔よりもずっと大人びていて――
その背中を見ながら、なぜか一瞬、胸の奥に小さな寂しさがよぎった。
私は振り返り、ジェームズ様に向き直る。
「では……行ってきます」
「ああ」
短く返された声。
けれど、彼の視線は、私ではなく――すでに隣に立つルカ様の方へと向けられていた。
ほんの一瞬。
何かを測るような、静かな目。
私は気づかないふりをして、ルカ様の横に並ぶ。
歩き出してから、背後を気にするように、ルカ様がちらりと視線だけを後ろへ流した。
「……彼は?」
「学院の先輩です」
それ以上は言わなかった。
ルカ様も、それ以上は尋ねない。
「そう」
ただ、それだけ。
並んで歩く横顔は、以前よりもずっと落ち着いていて。
無駄のない足取りと、静かな呼吸。
――どうして、こんなにも。
胸の鼓動が、はっきりと音を立てていた。
少し離れた所で立ち止まったジェームズ様は、こちらを見送っている。
その視線が、最後にもう一度、ルカ様へと向けられたのを――
私は、見ていなかった。
執務室の前に立った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
冬の冷え込みのせいだけじゃない。指先が、じわりと冷たくなる。
扉の前で一瞬、足が止まったのを見て、ルカ様が小さく首を傾げた。
「……どうされました?」
「……いえ、大丈夫です」
そう答えたものの、声がほんのわずかに硬い。
言えるはずもない。
あの日、気持ちが高ぶっていたとはいえ、殿下に平手打ちをした――など。
父の言葉がよみがえる。
――今後も王宮で働くなら、避けて通れん相手だ。
ここまで来て、引き返すという選択肢はなかった。
私は小さく息を吸い、ルカ様の背を追って執務室へ足を踏み入れる。
書類の山に囲まれた室内で、アレン様が顔を上げた。
一瞬、目が見開かれる。
けれど、その戸惑いはすぐに消え、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「……久しぶりだな、ステラ」
「ご無沙汰しております、アレン殿下」
形式的な挨拶。
それでも、視線が交わった一瞬で、あの出来事が互いの胸をよぎったのがわかった。
「本日は、学院改革後の人事と、今後の調整についてご相談に伺いました。父――公爵の意向です」
そう告げると、彼は小さく息を吐き、椅子から立ち上がった。
「……そうか。なら、少し場所を変えよう」
執務机ではなく、バルコニーを示される。
ガラス戸の向こうへ出ると、冬の空気が頬をなでた。
外からは見えても、声までは届かない距離。
扉が閉まり、二人きりになる。
「……この前は、悪かった」
先に口を開いたのは、アレン様だった。
「ちょっと……焦ってた」
短い言葉だったけれど、逃げずに向き合おうとする声音だった。
「私も、申し訳ありませんでした」
思わず、こちらも頭を下げる。
「殿下に手を上げるなんて……」
「いい」
即座に遮られる。
「叩かれても仕方ないことを言ったのは俺だ。……本当にごめん」
一拍、言葉が途切れる。
「お前やルカを傷つけるつもりはなかった。ただ……」
その先は語られなかった。
けれど、沈黙の間に吹き抜けた風が、その続きを代わりに運んだ気がした。
「王宮に戻って、改めて思ったよ」
彼は遠くを見つめながら続ける。
「この場所は、正直きれいごとだけじゃ生き残れない。権謀術数が渦巻く中に、お前を置くのが……正直不安でもある」
否定はできなかった。
父の背を見てきたからこそ、王宮が安全な場所ではないことも知っている。
「ルカなら、確実にお前を守れる」
低く、確信を帯びた声。
「だが今のお前の立場で、宮廷騎士を私的につけることはできない」
こちらを見据える視線が鋭くなる。
「……それでも、お前は公爵を目指すのか?」
覚悟を問う眼差し。
「はい」
答えは、最初から決まっていた。
「……だよな」
アレン様は、ふっと息を吐いた。
「お前は、いつだって前しか見てない」
「前しか見えてないって言ってます?」
わざと眉を上げる。
「違ぇよ」
肩をすくめて、彼は苦笑した。
「前向きだって褒めてんの」
その顔につられて、私の頬も自然と緩む。
「殿下に褒められるなんて……明日は雪でも降りそうですね」
「おい。昔から褒めてただろ」
「からかわれた記憶しか――」
「相変わらずだな」
小さな笑い声が、二人分、風に溶けた。
「……でもな」
少しだけ真面目な声になる。
「気づけば、前に引っ張られてる。お前は……強いから」
「強いわけじゃありません。ただ……」
言いかけて、ふと視線を室内へ戻す。
ガラス越しに見えるのは、扉の向こうで控えるルカ様の姿。
その意味を察したのか、アレン様は小さく笑った。
「それでも進むのがお前だろ」
ひと呼吸おいて、静かに続ける。
「俺は、お前のそういうところが――好きだよ」
風が吹き抜ける。
「……好きって、それ、殿下」
少しだけ間を置いて、確かめる。
「そういう意味じゃ、ないですよね?」
「違う」
即答だった。
「俺の……戦友的な“好き”だ。ややこしくすんな」
「殿下の言い方が、ややこしいんです」
くすっと笑うと、彼も観念したように笑った。
「まあいい。お前とは、これからもこうやって笑っていたいだけだ」
「それなら……私も同じです」
恋じゃない。
でも、互いの肩にだけは、自然と預けられる重さ。
それがどんな名前の関係なのか、言葉にしなくても、二人にはわかっていた。




