47.公爵補佐
領地に戻ると、王都とはまるで違う空気が肌に触れた。
乾いた土の匂い、風に混じる草の青さ、遠くで鳴く鳥の声――胸いっぱいに吸い込むたび、胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていく。
領主の館へ向かう道には、すでに多くの人が行き交っていた。
文官が書類を抱え、騎士が馬を引き、使用人たちが忙しなく駆けていく。
畑や村から上がってきた報告を携えた者たちも、次々と館へ入っていく。
その光景は、王都の整った喧騒とは違う。
生活の匂いがする、息づいた忙しさだった。
「――戻ったな」
低く落ち着いた声に、私は思わず背筋を伸ばした。
父が館の前で待っていた。
軽く会釈を返し、館の中へ足を踏み入れる。
廊下を進み、自室へ向かう。
扉を開けると、そこだけ時間が止まっているようだった。
窓辺のカーテン、棚に並ぶ本、机の位置。すべてが、学院へ旅立つ前のまま。
机の上に置かれた、小さな宝箱。
そっと蓋を開けると、空気がわずかに揺れた気がした。
燕のブローチと、懐中時計。
学院時代、私を支えてくれた大切な宝物。
指先で一度だけ触れ、深く息を吸う。
そして、静かに宝箱へ入れる。
――これは、あの頃の私の証。
ここへ置いていくのは、過去を捨てるためではなく、前へ進むための区切り。
私はそっと、蓋を閉じた。
今日から私は、公爵家の娘ではなく、父の補佐として、この地に立つ。
その事を告げると、年配の執事が目を細めた。
「これはこれは……ようやく、その日が来ましたな」
その声音には、形式ばった敬意ではなく、長い年月を共に領地を支えてきた者の、深い喜びが滲んでいた。
「お嬢様……いえ、ステラ様。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
そう言って頭を下げられた瞬間、胸の奥がふっと熱くなる。
“公爵令嬢”としてではなく、“次の担い手”として迎えられている――。
その事実が、静かに、確かに伝わってきた。
最初の仕事は、父に同行して領内を回ることだった。
収穫を終えた畑、川沿いの水車小屋、修繕の必要がある橋。
父は馬を止めるたびに、必ず人々へ声をかけた。
「今年の作柄はどうだ」
「子どもの熱は下がったか」
「無理はするな。足りないものがあれば、すぐ知らせなさい」
形式ばった言葉ではない。
顔と名前を覚え、暮らしを気にかけているからこその、短く、けれど真摯なやり取り。
「お嬢様も来てくださったのですね」
そう言って頭を下げられるたび、私はあわてて首を振った。
「今日は父の勉強で……でも、何か困っていることがあれば聞かせてください」
戸惑いながらも言葉を返すと、人々は驚いたように、それから柔らかく笑った。
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――お父様は、こうして一つ一つ積み重ねてきたのだ。
馬を並べて進む父の背中は、大きく、揺るぎない。
声を荒げることもなく、威圧することもなく、それでも自然と人が従う背中。
あの背中に、いつか追いつきたい。
隣ではなく、同じ高さで、同じ責任を背負えるように。
そう心に誓いながら、私は馬の手綱をきゅっと握り直した。
少しだけ前を向く父の横顔が、陽の光に照らされて、やけに眩しく見えた。
館に戻ると、父はすぐに執務室へ向かった。
私はその後ろについて入り、机の端に用意された席に腰を下ろす。
広げられたのは、いつくかの報告書だった。
どれも急を要するものではないが、後回しにもできない内容――用水路の補修、倉の修繕、冬に向けた備蓄の見直し。
「ステラ、この件はどう思う?」
父が指したのは、村はずれの水路に関する報告だった。
老朽化が進んでいるが、全面修理をするほどではない。予算を回すかどうか、判断に迷うところだ。
私は一度、報告書に目を落とし、地図を確認する。
水路の先にあるのは、収穫量の多い畑と、数軒の農家。
「……今すぐ全面修理は必要ないと思います。でも、応急的に補強だけでもしておいた方が。あそこが止まると、秋の収穫に影響がでます」
口にしてから、少しだけ緊張した。
父の判断に口を出すことになる。
けれど父は、否定も即答もしなかった。
しばらく考え込み、それから小さく頷く。
「そうだな。今は予防に回すべきだ」
その一言に、胸の奥がほっと緩んだ。
正解だったからではない。
自分の考えが、補佐として受け止められた。その事実が、何より嬉しかった。
執務室の空気が、少しだけ和らいだ、その時だった。
控え目なノックの音が響く。
入ってきたのは、父の側近の一人だった。
「閣下。王宮より、急ぎの知らせが届いております」
王宮――その言葉だけで、胸の奥がざわりと揺れる。
父は静かに受け取り、丁寧に封を切った。
一行、二行、目を走らせた後――
父の動きがわずかに止まる。
私は、何も聞かずに、その表情を見つめていた。
父はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
その目は、領主としての厳しさではなく、ただの“父”としての痛みを湛えていた。
「……ユリウス殿下が崩御された」
言葉が、理解より先に胸に落ちた。
音だけが反響し、意味が追い付かない。
父は静かに続ける。
「……公的な発表は、これからだ。だが、王宮は間違いなく慌ただしくなる」
私は頷こうとしたが、首がうまく動かなかった。
胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。
冷たい水に沈められるように。
アレン様――
兄を失ったあの人は、今どんな顔をしているのだろう。
夜、部屋に戻り、灯りを落とす。
窓の外には、領地の夜が広がっている。
遠くで風が木々を揺らし、虫の声が重なる。
……アレン様
強引さも、鋭い言葉も、すべてが“守る”ためのものだったと、今ならわかる。
あの人は、誰よりも孤独な場所に立とうとしていた。
それでも――私は、その手を取れなかった。
取らなかったのだ。
その事実が、胸の奥で鈍く疼く。
後悔とも違う、けれど確かに痛い感情が沈んでいく。
同時に、決意のようなものも、静かに根を張っていく。
アレン様が王として立つなら。
私は、公爵補佐として、領を支える者として立つ。
それが、あの人に背を向けた私が選べる――
唯一の誠実さだった。
***
国葬の日、王都は異様なほど静かだった。
人々のざわめきさえ、どこか遠慮がちに沈んでいる。
大聖堂の鐘が、重く、低く、一定の間隔で街全体を包み込むたび、空気がわずかに震えた。
道の両脇には黒い喪服の列が続き、誰もが声を潜め、伏せた視線の奥に不安を隠していた。
王子を失った国は、ただ悲しみに沈むだけではない。
次に何が起こるのか――
その予感が、冷たい風のように人々の間をすり抜けていく。
私は父の一歩後ろ、公爵補佐として定められた位置に立った。
前へ出ることはない。ただ儀礼に従い、静かに頭を垂れる。
棺が運ばれる瞬間、空気がさらに張り詰めた。
誰かがすすり泣き、
誰かが唇を噛み、
誰かはただ祈りを捧げる。
そのすべてが、鐘の音に吸い込まれていく。
――この国は、また王子を失った。
視線をあげると、王族の列が見えた。
喪服に身を包んだアレン様は、まっすぐ前を見据えている。
背筋は伸び、表情は変わらない。
まるで、感情をすべて奥底に押し込めたように。
私は、ほんの一瞬だけ、彼を見つめた。
けれど、その視線がこちらを向くことはなかった。
目は合わない。
それでいい。
それぞれの場所で、それぞれの役目を果たす。
その距離こそが、私たちが選んだ答えなのだ。
棺が大聖堂へと運ばれ、鐘の音が、最後にひとつ鳴り響く。
私は再び、視線を落とし、静かに頭を垂れた。
遠くで立つ彼の背を、もう一度だけ胸に刻みながら。
***
年の最後の月、領内は祝祭の準備で慌ただしさを増していた。
広場には常設の市よりも多くの露店が並び、焼き菓子の甘い香りと、香草を煮込む匂いが混じり合う。
人々の声は明るく、国葬の日の沈黙が嘘のようだった。
「今年は雪が遅くて助かりますな」
酒樽を運んできた商人が笑いながら、声をかけてくる。
「ええ。準備が進めやすいですね」
そう返すと、彼は満足そうに頷いた。
父は執務で手が離せず、私は代わりに広場を回っていた。
設営の順番、火の扱い、夜警の配置。
どれも小さな決め事だが、その一つ一つに“誰かの生活”が結びついている。
日が落ちる頃、鐘楼から合図の音が鳴った。
祝祭の始まりを告げる、年に一度の音。
火が灯り、広場が一気に明るくなる。
拍手と歓声が上がり、笛の音が夜空に溶けていく。
私は少し離れた場所から、その光景を眺めた。
王都の鐘とは違う、粗くて、あたたかな音。
人々の笑い声に混じって、風に揺れる旗の音がする。
胸の奥には、まだ消え切らない影はある。
それでも――
「来年も、いい年になりますように」
誰にともなく呟いて、私はそっと目を閉じた。
遠くで花火が上がり、夜空に淡い光が咲く。
その光はすぐに消えたが、闇はもう、冷たくは感じなかった。




