43.提案
目を覚ました時、見慣れた天井が目に入った。
宮殿の白い天井ではなく、寮の部屋の、少し色の褪せた天井。
――戻ってきたんだ。
そう理解するのに、少し時間がかかった。
身体を起こすと、頭の奥に鈍い痛みが残っている。
昨夜の出来事が、途切れ途切れによみがえった。
舞踏会。
暗い部屋。
男たち。
そして――ルカ様。
胸元に手を当てる。
息は、きちんとある。
「……夢、じゃない」
呟いた声は、思ったよりも小さかった。
そこへ、アンが外から戻ってきた。
起きている私に気づくと、すぐに駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか?」
「うん……」
声に出してみて、自分の声が思ったよりも弱っていることに気づいた。
「ロイ様からポーションを預かっています。飲めますか?」
頷き、差し出された小瓶に口をつける。
一口喉を潤すと、張り付いていた頭の痛みが少しだけ、引いた気がした。
その時、部屋の扉が控え目にノックされた。
アンがドアを少しだけ開けて、外を確認する。
「少しお待ちください」
そう言って戻ってきたアンは、私の肩にガウンを掛け、乱れていた髪を手早く整えた。
「ロイ様です。お通ししてもよろしいですか?」
私はポーションを飲み切り、静かに頷いた。
「ステラ、大丈夫?」
部屋に入ってきたロイ様は、昔と変わらない穏やかな佇まいだった。
ただ、魔法師団の制服に身を包んでいるその姿は、寮の一室には少し不釣り合いに見える。
「大丈夫です。……まだ少し、ぼんやりしますけど」
そう答えると、ロイ様はほっとしたように微笑んだ。
「それならよかった。少しだけ、話をしてもいいかしら?」
ベッドの横にある椅子に腰かけ、その視線が机の上に向けられる。
――割れたネックレス。
五年前、ロイ様から贈られ、昨夜も身に着けていたものだ。
石が割れていることに、今さら気づいて息が止まる。
胸の奥がひやりと冷え、指先がわずかに震えた。
その動揺を見透かしたように、ロイ様は静かに口を開く。
「あなたの身を守ったの。覚えてる?石には魔力を共鳴・増幅する力があるって」
「……はい」
「これ」
ロイ様の手の上、黒く鈍い光を放つ石が現れる。
「昨夜、あなたの手から渡された石よ。…これは、あなたの体内から取り出された魔石」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……体内、ですか?」
「ええ。あなたの力は、瘴気を取り除くことができる。体内に入り込んだ瘴気を、魔石という形で外に排出したと考えられるわ」
「飲まされたものの中に、瘴気が……」
「あなたの無効化の力がなければ、今ごろ身体は瘴気に侵されていたでしょうね」
背筋に、冷たいものがすっと走った。
喉の奥がひりつく。
「……私じゃなかったら……」
脳裏に浮かぶクラスメイトたちの顔。
もし、あの場にいた誰かが同じものを飲まされていたら――。
「……あなたがいれば、誰であっても助けられたわ」
震える私の手を、ロイ様がそっと包み込む。
その温度に、十歳の頃の記憶が、わずかによみがえる。
「でも、どうしてそんなものが存在しているんですか?」
問いながら、自分の声がかすかに揺れているのが分かった。
「何者かが、故意に作ったとしか思えない」
ロイ様は一呼吸おいて、そう言い切った。
「……本来、回復薬として使われるポーションに瘴気が混入することはありえない。魔獣が倒れた時点で瘴気は消え、魔石には魔力だけが残る。……この石も、今は魔力だけよ」
手の上の石を、つまむように持ち上げる。
「……私は、狙われたんでしょうか……?」
「それについては、まだ調べている段階よ」
その言葉の“隙間”に、言えないことがあるのが分かった。
胸の奥に、小さな棘がひっかかるように残る。
ロイ様の言葉が途切れたあと、部屋の中に静けさが落ちた。
窓から差し込む光が、手のひらの石に淡く反射して揺れる。
胸の奥に残った棘の感触が、まだ抜けない。
「今日は無理をしないでね。アンちゃんにも伝えておくわ」
そう言ってロイ様は立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
その温もりは優しいのに、どこか遠く感じる。
魔法師団の制服が揺れ、扉が静かに閉じられると、部屋は再びひっそりとした。
再び扉が叩かれたのは、午後の光がわずかに傾き始めた頃だった。
アンが顔をあげるよりも先に、部屋の空気がわずかに引き締まるのを感じる。
控え目で、けれど迷いのないノック。
アンが扉を開け、姿勢を正す。
「アレン殿下がお越しです」
「お通しして」
自分の声が思ったより落ち着いていたことに、少しだけ驚く。
扉が開かれ、アレン様が室内に足を踏み入れる。
いつもの穏やかな微笑みはなく、王族としての顔をはっきりと纏っていた。
後ろにいた護衛のハロルド様は中へは入らず、扉の外に控える。
アレン様はアンとすれ違いざま、低く短く告げた。
「人払いを」
アンは一礼し、静かに部屋を出る。
扉が閉まる音が、思いのほか大きく響いた。
部屋には私とアレン様の二人きり。
「……体調はどうだ」
「はい。もう起き上がれるくらいには」
そう答えると、アレン様は近づいてきて、椅子に腰を下ろした。
「無理はするな。今日は――」
一瞬、言葉が途切れる。
視線が揺れ、何かを選び取るように沈黙が落ちた。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
「お前に、伝えておくべきことがある」
その声音は、覚悟を固めた者のものだった。
「まず、犯人は確保された」
その名を聞いた瞬間、私は思わず息を呑む。
「……知っている者か?」
「はい。一つ上の先輩で、一時期、生徒会の補佐を」
「恨まれる覚えは」
「あります」
間を置かずに答えると、アレン様は小さく息を吐いた。
その吐息は、ほんのわずかに苦みを含んでいた。
「平民入学の件か」
「はい。彼は反対派の中心でした」
私は、当時学院で何が起きていたのかを簡潔に語った。
正論を武器にした対立。
それが、こんな形で――しかも何年も経ってから、私自身に向けられるとは思っていなかった。
「……ステラ」
名を呼ぶ声が、いつもより低い。
「俺から、提案がある」
その声音に、胸の奥がざわつく。
「俺と……形式上の婚約を結ばないか?」
一瞬、意味を理解できなかった。
「……は?」
差し込んでいた陽が、雲に隠れたのか、室内がわずかに陰る。
「冗談、ですよね?」
笑って受け流そうとした。
けれど、彼の表情は変わらない。
その瞳の奥に、かすかな焦りの影が見えた気がした。
「王族の婚姻は、盾になる。お前を公に守れる立場を得られる」
淡々とした説明。
それが、なおさら現実味を帯びて胸に刺さる。
「王妃なら、国政にも関われる。ルカを正式に、お前付きの騎士として置くこともできる」
胸の奥が、きしりと軋む。
「……俺との間に、夫婦の実はいらない。白い結婚でいい」
白い結婚。
偽装。
名目だけの繋がり。
声が、震えた。
「バカなこと、言わないでください」
「これは命令じゃない」
アレン様は、はっきりと言った。
その目は逃げず、ただまっすぐにこちらを見ている。
「拒否するなら拒否していい。ただ――」
言葉を切り、視線を逸らす。
その一瞬に、彼の“本音”が滲んだ。
「お前が望めば、ルカはお前のそばに立つ。……それ以上の関係になることも、俺は止めない」
胸の奥が、強く揺れた。
踏み込まれてはいけない場所に、土足で触れられた感覚。
「……っ」
考えるより先に、体が動いていた。
パンッ、と乾いた音が部屋に響く。
自分でも驚くほど、はっきりとした音だった。
叩いた掌がじんと熱を持つ。
「……ルカ様を、あなたの都合で語らないで」
声は震えていなかった。
それがかえって、自分の中にある怒りの深さを示している気がした。
アレン様は、何も言わなかった。
叩かれた頬に手をやることもなく、ただ静かにこちらを見つめている。
怒りでも、困惑でもない。
想定を超えた言葉を真正面から受け止めた者の、沈黙だった。
しばらくして、アレン様は小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけだった。
言い訳も、弁明もない。
けれど、王子としての仮面が、ほんのわずかに揺らいだのが分かった。
この人は今、守るために差し出したはずの選択肢が、私を最も傷つけたことに
――気づいたのだ。
沈黙が、重く床に落ちたまま続く。
やがて、アレン様はゆっくりと立ち上がった。
その動作は慎重で、こちらを刺激しないようにしているかのようだった。
「俺は王子だ」
低く、断定する声音。
「お前を守るために、使えるものは全て使う」
視線が外れることはない。
逃げ道を作らない目だった。
「その中に、俺自身が含まれているだけだ」
それ以上、言葉は重ねなかった。
正しさを主張するでもなく、理解を求めるでもなく、ただ“そういう立場にある”という事実だけを置いていくように。
私は何も返さなかった。
返せる言葉がなかった、という方が正しい。
アレン様は一瞬だけ、何かを言いかけるように唇を動かし――
しかし、結局それを飲み込んだ。
踵を返し、扉へ向かう。
扉に手をかけたところで、立ち止まる。
振り返りはしないまま、静かに言った。
「今日は、ここまでだ」
扉が開き、外の気配が流れ込む。
それが閉じると、部屋は急に静かになった。
少しして、控え目なノックとアンの声。
「……ステラ様」
「入って」
アンが入ってくる。
私の顔を見て、何も言わずに「お茶をお持ちしますね」と言った。
机にカップを置く、その仕草はいつも通りだ。
けれど、いつもならすぐに下がるはずの彼女が、今日はその場に留まった。
「……お話にならなくても大丈夫です」
視線を落としたまま、アンが言う。
声は小さいのに、不思議と部屋の隅々まで届くようだった。
「でも、ここにおります」
その一言が、胸の奥に静かに染み込んでいく。
張り詰めていた何かが、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
「ありがとう」
それだけ言うと、アンはほっとしたように微笑んだ。
その笑みは、私が崩れてしまわないように支えるための、細い糸のようだった。
私は湯気の立つカップに手を伸ばす。
温もりが、ようやく指先に戻ってきた気がした。




