41.プロムの夜
卒業式の後には、学院最後の夜を飾る恒例の舞踏会――プロムが待っている。
この日のために仕立てたドレスに、そっと袖を通す。
深い青のサテンは光を柔らかく受け、ハートラインの胸元と引き締められたウエストが、鏡の中に優美な輪郭を描き出す。足元へ流れ落ちるスカートと、歩くたび静かに揺れるトレーンが、いつもより少しだけ背筋を伸ばしてくれた。
髪にはドレスと同じ色の宝石をあしらった髪飾り。
胸元には真珠のような淡い光を宿すネックレス――レン様とロイ様から贈られたものだ。
冷たい感触が肌に触れるたび、胸の奥がわずかに引き締まる。
ブローチと懐中時計は、この装いには似合わない。
それでも手放すことができず、ドレスの内側にある小さな隠しポケットへ、そっと忍ばせた。
二人を想う気持ちだけは、どうしても置いていけなかった。
今日の私に、パートナーはいない。
何人かに声をかけられたけれど、そのすべてに首を横に振った。
三年前、ジェームズ様と踊ったあの夜のことが、胸から離れなかった。
音楽も、明かりも、彼の手のぬくもりも――今も思い出せてしまう。
彼への想いが、何なのか。
私はまだ、自分自身で答えを見つけられずにいる。
もし、いつか再会してしまったら。
その瞬間、私はまた彼に心を傾けてしまうのだろうか。
それとも―。
ずっと胸に残る別の想いが、私を引き留めるのだろうか。
大広間へと続く扉をくぐった瞬間、華やかな音楽とざわめきが一斉に押し寄せた。
魔法の光球が天井の装飾を照らし、磨き上げられた床に無数の光が揺らめく。
その眩しさに思わず瞬きをしたとき――
真っ先に目に入ったのは、腕を組んで立つトビアスとフレイヤだった。
一月前、トビアスからプロムに誘われたのだと、フレイヤは頬を染めて打ち明けてくれた。
今、隣に並ぶ二人の距離は近く、言葉を交わさずとも互いを意識しているのが伝わる。
胸の奥が、きゅっと静かに締め付けられた。
羨ましさではない――そう言い聞かせながら、私はそっと視線を和らげる。
仲睦まじい二人に目を細めつつ、声をかけるのは控えた。
この空気を壊したくなかったし、何より――
自分の心を、もう少し整えておきたかった。
会場に入り、手渡されたグラスを口に運ぶ。
冷えた液体が喉を滑り落ち、ようやく呼吸が落ち着いた。
友人たちと他愛のない言葉を交わしていた、そのとき――
会場の一角から、ひときわ高い黄色い声が上がった。
視線を向けると、ここからではよく見えないが、位置的に王族が着座する一角だ。
ざわめきの質が、明らかに変わる。
―第三王子、アレン様。
やがて音楽が切り替わり、最初のダンスが始まった。
弦の音が空気を震わせ、人々が一斉に動き出す。
その瞬間――
人の流れを割るようにして、一人の男性がこちらへ歩いてくる。
顔にかかるヴェール。
それは、王族であることを示すもの。
ざわめきが背後で膨らみ、無数の視線が私に集まるのを感じた。
目の前で足を止めたその人は、ためらいもなく、私へと手を差し出す。
王子からの誘い。
断れるはずが、ない。
それでも―
胸の奥に、一つの疑問が静かに沈んだ。
なぜ、私なのだろう。
******
人の波の向こうに、彼女の姿を見つけた瞬間、足が止まった。
深い青のドレスが、光を受けて静かに揺れている。
その色と同じ宝石を散らした髪飾り――あの頃、彼女を想いながら選んだ色だ。
夜の光を纏ったようなその姿は、記憶の中の少女とは違う。
けれど、変わらないものも確かにそこにあった。
胸の奥がじんと熱を帯びる。
――変わった。
けれど、変わらない。
あの頃、冒険者を装っていた自分を、ただの一人として扱ってくれた少女。
身分も立場も関係なく、まっすぐに向き合う彼女がいたから、今の自分があると言ってもいい。
公爵を目指し、王宮学院の生徒会長となった彼女。
その横に立てるだけの男に、自分はなれただろうか――
そんな問いが胸をかすめる。
だが、今夜だけは迷わない。
最初に、手を差し出す相手は決ていた。
ただの義務でも、気まぐれでもない。
彼女が気づかない、この胸の淡い熱を、確かめるために。
******
差し出された手を見つめながら、私は一瞬、呼吸を忘れた。
白い手袋越しでも分かる、迷いのない所作。
王族の証であるヴェールが、彼の表情を隠しているのに――
その手だけは、まっすぐに私へ向けられていた。
胸の奥がざわつく。
どうして私なのか。
そんな疑問が浮かんだのに、指先は自然とその手へ伸びていた。
触れた瞬間、軽く導かれるようにして、私はダンスの輪の中へと引き入れられた。
周囲の視線が一斉に集まるのを感じ、思わず背筋が強張る。
足運びに意識を向けようしたその時――
目の前の相手の肩が、かすかに震えた。
……笑っている?
「いい加減、気づけよ」
低く、どこか懐かしい声。
胸の奥が跳ね、思わず顔をあげる。
次の瞬間、彼は指先でそっとヴェールを持ち上げた。
覗いた緑色の瞳を見た途端、胸の奥で何かが弾ける。
記憶の中の青年と、目の前の王子の顔がぴたりと重なった。
「レン様⁉」
思わず上げた声は、想像以上に響いてしまい、周囲の視線がさらに集まる。
慌てて口元を押えると、彼は楽しそうに目を細めた。
「あははっ、驚きすぎ」
軽やかに笑いながらもステップだけは一切崩さない。
その余裕が、余計に私を混乱させた。
「……驚かせるつもりでした?」
どうにか声を整えて尋ねると、彼は肩をすくめる。
「半分はな」
そのまま、くるりと私を回転させる。
反射的に体がついていき、スカートの裾がふわりと広がった。
「でも、ちゃんと踊れてるだろ」
「それは……嫌でも練習しますから」
そう返すと、彼はまた笑った。
楽しそうで、どこか懐かしい笑み。
音楽が盛り上がり、周囲の会話が遠のく。
私は彼の表情を伺うように見つめた。
「髪の色…」
「ああ、前は染めてたんだよ。こっちが地毛」
プラチナブロンドの髪に、光が落ちてきらめく。
瞳と同じ色に髪が染められていた理由。
身分を偽って冒険者を装っていた過去に、何があったかは分からない。
私は返す言葉を見つけられず、ただ音楽に合わせてステップを踏み続けた。
曲が終わっても、彼は私の手を離さなかった。
そのまま、迷いのない動作で私を導くように歩き出す。
「こっちに来い」
有無を言わせない声音。
けれど、不思議と拒む気持ちは湧かずに、足は自然と彼の後を追っていた。
階段を上がると、王族の席が設えられた一角が広がる。
ホール全体を見渡せる高みで、舞踏の輪も、人々の表情も、すべてが視界に収まった。
立ち止まったその瞬間――
「ステラ」
呼びかけられた声に、思わず顔をあげ、そして再び声を上げる。
「ロイ様!ハロルド様!」
そこにいたのは、五年という歳月を経ても、記憶の中とほとんど変わらない二人だった。
懐かしさが胸にこみ上げ、張り詰めていたものが、ふっと緩む。
レン様は何事もなかったかのように椅子へ腰を下ろし、ヴェールを外すと、用意されていたグラスの中身を一気に飲み干した。
「……どういうことなんでしょう」
自分でも情けないほど、困惑が滲む声になる。
「私、まだ、よくわかっていなくて……」
助けを求めるようにロイ様へ視線を向けると、彼は昔と変わらない、穏やかで柔らかな笑みを浮かべた。
「そうでしょうね」
その一言に、胸がどきりと跳ねる。
――知らないのは私だけ。
ロイ様は小さく息を整えると、静かに真相を語り始めた。
「レン様が……アレン王子で、ロイ様とハロルド様が、その側近だった…」
自分の口から言葉にすると、ようやく現実味を帯びてくる。
アレン王子は苦笑しながら肩をすくめた。
「だますつもりはなかったんだけどな。言う機会も、なくて」
「だまされたとは、思っていません。」
胸に残る動揺を押し込めながら、そう答える。
「ただ…びっくりしました。すごく」
「だろうな」
彼はどこか照れたように笑った。
その表情に、胸の奥がふっと緩む。
――変わっていない。
あの頃と、同じ顔。
してやったり、と言わんばかりのその笑みに、懐かしさが込み上げる。
ふと、胸の奥に残していた言葉を思い出した。
もしアレン王子に出会えたら、伝えたいと思っていたことがある。
「…アレン王子」
少しだけ呼吸を整えてから、言葉にする。
「平民入学の件、支持してくださったと聞きました。ありがとうございます」
一瞬、彼は驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな表情に戻った。
「あれは、俺が成したことじゃない」
静かに首を振る。
「お前がやったんだ。…よく頑張ったな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「…はい」
短く答えるのが、精一杯だった。
そして、一つの記憶が浮かぶ。
アレン王子が後押しした、もう一つの改革――
平民の騎士団入団。
もしや、と思う気持ちが、胸の内で小さく膨らむ。
淡い期待を隠しきれず、私は尋ねていた。
「あの…ルカ様は、今…?」
その問いに、王子はほんの一瞬だけ黙り込み、次の瞬間、唇の端をわずかに持ち上げた。
「ここに、きているよ」
アレン王子の言葉が落ちると、私の心臓が跳ね、指先がじんと熱を帯びる。
五年分の記憶が一気に押し寄せ、視界の端がわずかに揺れた。
――ルカ様が、この場所に。
その事実だけで、胸の奥が強く、痛いほど高鳴る。
会いたい。
確かめたい。
あの別れの続きを、ようやく――。
思考より先に、身体が動いていた。
「探してきます!」
声が震えていたのは、自分でも分かった。
けれど止まれなかった。
今行かなければ、また会えなくなる。
そんな焦燥が、胸の内側から強く背中を押した。
「待っていればそのうち戻ってくるぞ」
背後からアレン王子の声が追いかけてきた気がした。
けれど、振り返る余裕などなかった。
王族席の高みから階段を降りる足は、もう止まらない。
まるで、五年間閉じ込めていた想いが、今になって一気に解き放たれたかのように。
――もし、あの時。
足を止めて、その言葉をきちんと聞いていたら。
私の運命は、また少し違う形を選んでいたのかもしれない。
廊下には騎士団の面々が配置され、静かに警備についていた。
すれ違うたびに向けられる視線に、胸がわずかに跳ねたる。
落ち着こうとしても、心臓の鼓動は早まるばかりだった。
この離宮は舞踏会のために造られた場所だ。
装飾こそ華やかだが、構造は単純で、巡回する場所も多くない。
それでも、普段は立ち入らない一角ばかりで、どちらへ進めばいいのか、方向感覚が徐々に怪しくなっていく。
ルカ様……どこに……
焦りが胸の奥で膨らみ、足が自然と速くなる。
突き当りまで進み、左右を見渡した、その時だった。
右手の角を曲がった先に、騎士団の制服が一瞬だけ見えた。
見覚えのある髪色。
横顔の輪郭を捉えた瞬間、胸が強く高鳴る。
「ル――」
呼びかけようとした名は、背後から伸びてきた手に口元を塞がれ、途中で遮られた。
息が詰まる。
何が起きたのか理解するより早く、強い力で腕を引かれ、体が後ろへと引きずられる。
「っ……!」
足が床を滑り、視界が揺れる。
連れ込まれたのは、明かりの落とされた小部屋だった。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
薄闇の中に、複数の影が浮かび上がった。
誰もが顔を隠し、こちらを見下ろしている。
声を上げようとしたが、口を塞ぐ手がさらに強く押し付けられ、息が漏れるだけだった。
「暴れるな」
低く、荒い声。
聞き覚えがあるような気がして、背筋が凍る。
腕を押さえつけられ、足も動かせない。
逃げ場は、どこにもなかった。
「やめ……っ」
言葉にならない声が喉でつぶれた瞬間、顎を掴まれ、顔を無理やり上向かされる。
冷たい液体が、容赦なく口の中へ流し込まれた。
「っ…! けほっ……!」
本能的に拒もうとして激しくむせる。
苦みとも甘みともつかない、金属のような味が舌に広がり、喉が焼けるように熱くなる。
「吐くな。全部飲め」
耳元で低い声が落ちる。
その声音に、ぞわりと嫌な寒気が走った。
必死に首を振るが、顎を押さえつけられ、再び液体が流し込まれる。
視界が滲む。
呼吸が乱れ、胸が苦しい。
――何、これ……?
頭がぐらりと揺れた、その時。
ガチャリ、とドアノブが回る音がした。
影たちが一斉に動揺する。
「おい!誰かいるのか!?ここを開けろ!」
外から強く叩く音。
扉は開かない。
鍵がかかっているらしい。
「…やばい!逃げろ!」
誰かが叫ぶと、室内の影が一斉に窓の方へ走り出した。
足音が重なり、空気が乱れる。
私は必死に手を伸ばし、すれ違った一人の袖を掴んだ。
「離せ!」
荒々しく振り払われ、指先の力が抜ける。
その衝撃で、私は床に崩れ落ちた。
――バンッ!
扉が破られる音と同時に、最後の一人が窓の向こうへと消えていく。
「待て!」
怒号とともに、誰かが踏み込んできた。
その声は、混乱の中でもはっきりと耳に届く。
逃げていった者たちを追おうとしたその人影は、床に崩れ落ちた私の姿に気付くと、動きを止め、まっすぐこちらへと駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
揺れる視界の中で、顔をあげる。
鳶色の瞳が、驚きと焦りを滲ませながら私を見下ろしていた。
「……ルカ様……?」
かすれた声で名を呼ぶと、彼は一瞬、息を呑んだように目を見開き――
「……ステラ」
確かに、私の名を呼んだ。
胸の奥が熱く震える。
五年分の距離が、一気に縮まったように感じた。
けれど――
その直後だった。
ドクン、と脈が跳ねる。
次の瞬間には、制御できないほど早く、激しく打ち始める。
「っ……!」
呼吸が荒くなり、胸が上下する。
視界が揺れ、倒れそうになった瞬間、
強い腕が私の身体を受け止めてくれたのが分かった。
「ステラ!しっかりしろ!」
ルカ様の声が聞こえる。
けれど、それはまるで水の底から届くように、くぐもって、遠ざかっていく。
身体から血の気が引いていくのがわかる。
指先が冷え、力が抜けていく。
あの時、無理やり飲まされた液体。
あれは、一体……。
「ステラ!」
強く抱き寄せられる感触だけが、かろうじて現実につなぎとめてくれていた。
けれど、もう抗えなかった。
音も、光も、彼の声さえも遠ざかっていく。
世界が、静かに、深く、沈んでいった。




