35.-王宮学院編-プロムの夜
卒業式の壇上に立つジェームズ様の姿を見つめながら、私はフレイヤの言葉を思い返していた。
「正直な気持ちを伝えるだけで十分」
その言葉は胸の奥で何度も反響し、視線を交わすたびに心を揺らす。
約束を交わした人のことが頭をよぎり、罪悪感が胸を締めつける。
「笑顔で一緒に過ごすことも、また優しさ」―そう信じたいのに、笑顔を見せることさえ裏切りになるのではないか―そんな恐れが、私の唇を固く閉ざしていた。
式が終わると、学院は一気に華やぎを増す。
寮へ戻り、アンに髪を整えてもらいながらドレスに袖を通す。
いつもなら迷わず身に着けるレン様からの髪飾りも、今日は机の上に置いたまま。
ロイ様から贈られたネックレスも、燕のブローチも。
どれも大切なものなのに、今夜は身に着ける勇気がなかった。
金色のホルターネックのドレスは、首元を優雅に縁取り、胸元からウエストへ流れるように煌めく装飾が施されている。幾重にも重なる透け感のある生地がふわりと広がり、歩くたびに光を受けて揺れる。
ドレスの脇に隠された小さなポケットへ、そっと小箱を忍ばせた。
学院の敷地の奥にそびえる白亜の別棟――普段は式典や来賓を迎えるために使われる大広間が、その夜だけは華やかな舞踏会場へと姿を変えていた。
重厚な扉には学院の紋章が刻まれ、内側から音楽と光が溢れ出す。
「ステラ?」
背後から呼びかけられた声に振り向くと、そこにジェームズ様が立っていた。
黒の燕尾服に金糸の刺繡が走り、白いシャツと漆黒の蝶結びが夜の帳を引き締める。
長い髪をひとつに束ねた姿は、凛々しさと華やかさを兼ね備えていて、思わず息を呑んだ。
「…変か?」
戸惑うような声に、慌てて首を振る。
「違います!変じゃないです。むしろ…」
言葉の続きを飲み込む。視線を合わせるのが怖いのに、目をそらすこともできない。
胸の奥がそわそわと落ち着かず、体温だけがじわりと上がっていく。
ふと気づけば、彼もまた私を見て言葉を失っていた。
「そのドレス、すごく似合ってる」
伸ばされた視線が、そっと触れてくるようで。
褒められただけなのに、胸がひっくり返りそうになる。
彼は気を取り直すように微笑み、静かに腕を差し出した。
私はその腕に、そっと手をかけた。
フロアは既に多くの生徒たちで賑わっていた。
星々のように瞬く魔法の光球が天井から降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床が鏡のようにドレスの裾を映し出す。
奥のステージから流れるオーケストラの旋律に合わせ、中央のダンスフロアでは色とりどりのドレスが波のように揺れている。
笑い声やグラスの音が重なり合い、祝祭の熱気が空気を満たしていた。
「緊張してる?」
隣に立つジェームズ様が、軽やかな口調で問いかける。
「していません。たぶん」
言ったそばから胸が跳ねて、説得力がない返事になってしまう。
彼は小さく笑い、手を差し出した。
指先が触れ合った瞬間、温度が伝わり、心臓がさらに早く打ち始める。
「じゃあ、証明してもらおうか」
彼の腕がそっと腰に添えられ、次の拍で身体が導かれる。
奥のステージでは弦が軽やかに波打ち、その響きに合わせて二人は緩やかな円を描く。
「意外と踊れるんだな」
「意外って何ですか?でも…ジェームズ様のリードがお上手だからです」
反発しながらも素直に褒めると、彼はふっと微笑む。
その横顔に、光球が細い金の輪郭を落とし、胸の奥が熱を帯びる。
「今夜は、いつもより綺麗に見えるな」
「……っ、そんなこと…」
言葉を返す前に、彼はくすっと笑い、ほんの少しだけ距離を縮めた。
「本当だよ。君が僕を見てくれるから」
音楽の旋律が華やかに響く中、私の心はずっと揺れていた。
――その揺らぎを、彼もまた感じ取っていた。
音が途切れ、次の曲へ移るわずかな静寂の間。
腕の中でステラが小さく息を整える。その仕草ひとつが、どうしようもなく意識に刺さる。
指先に返ってきた温もりは軽いのに、離したくないと思ってしまう。
大理石の床を滑るようにまた一歩踏み出すと、天井の光球が揺れ、彼女の髪に金の粒を落とした。
月光をまとったようなその姿に、押し隠したい鼓動がわずかに跳ねる。
ふと顔をあげた彼女が、ほんの少しだけ頼るように視線をよこす。
まるで僕の心を試すように。
誘導に従うたび、スカートが柔らかく揺れ、控えめな笑みが浮かぶ。
その笑顔は、この会場のどんな装飾よりも目を奪う。
「大丈夫。僕に合わせて」
そう声をかけると、自分の声が少し低くなっているのに気づく。
気取るつもりはなかった。
彼女の緊張が伝わったのか、それとも自分が浮足立っているだけなのか。
彼女の指先が控え目に力を返してくる。
それだけで胸が高鳴る。
―けれど、その微笑みの奥に影を感じた。
瞳は揺れていて、言葉にできない距離がある。
笑顔を向けてくれていても、その心は別の誰かを想っている。
そう悟った瞬間、胸の奥に痛みが広がった。
それでも彼女の笑顔が見られるなら、この夜に意味はある。
音楽が終わり、手を放す瞬間。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
だが、言葉を間違えれば、彼女を困らせてしまう。
深呼吸を一つして、迷いを押し隠すように。
僕は、ほんの少しだけ距離を詰めた。
「少し暑いな。外のテラスに行こうか」
声に出した瞬間、自分が逃げ場を求めていることに気付く。
彼女を休ませたい気持ちと、胸のざわめきを隠したい思いが、重なっていた。
彼女はすぐに頷き、柔らかな笑顔を見せる。
「はい。少し休みたいなって思っていました」
ざわめきの戻るホールを抜け、並んで歩く。
光球の下を過ぎ、大理石の床が木製の扉へ向かって続く。
扉を開ければ、夜気が頬を撫で、ホールの熱気が後ろに引いていった。
「足元、気をつけて」
自然にそう言って、手を差し出す。
彼女がその手を取った瞬間、喧騒から切り離された静けさが広がった。
二人の距離は、触れれば届くほど近いのに、どちらも一歩を踏み出せない。
心地いい風が二人の間を抜けた時―。
「ジェームズ様、これ、受け取ってください」
彼女が小箱を差し出してくる。
だが、その手を受け取る前に思わず動きを止めた。
「…どうしても、伝えたいことがあります。私、まだ迷っているけど…ジェームズ様に支えられたことへの感謝だけは本当で、揺るぎません」
彼女の瞳に嘘はなかった。
だからこそ、返す言葉を選べず、沈黙が重くのしかかった。
彼女が差し出した小箱の中には、陽光のようにきらめく琥珀のカフスボタンが並んでいる。
月明かりを受けて、柔らかく光った。
「…太陽みたいだな」
思わず口をついた言葉に、彼女は静かに続ける。
「ジェームズ様は私にとって、太陽でした。迷った時も弱った時も、ジェームズ様の明るさと強さが支えになっていました。…これはそのお礼です」
胸のどこかで、期待と痛みが同時に跳ねる。
「……まいったな。本当に君って子は…」
笑おうとしたのに、声がかすれる。
「…勘違いしそうになるよ」
冗談に逃げたつもりだった。
けれど、彼女の瞳が揺れた瞬間、心臓が強く打った。
その言葉に、ステラの頬がわずかに紅潮し、視線を逸らせないまま胸の奥が甘く震えた。
言葉を続ければ、彼女を追い詰めてしまう。
黙れば、想いは伝わらない。
―その狭間で、言葉を選ぶ葛藤が喉を塞ぐ。
一瞬ためらったが、胸ポケットから小箱を取り出し、彼女に差し出した。
「俺からも」
銀の懐中時計。
蓋の内側には、明けの明星が刻まれている。
「こんな…高価なもの、受け取れません」
「価値なんてないよ。でも、これを見つけた時…君に渡したかった」
彼女が星に指先を触れると、微かな魔力が光を返した。
「夜明け前に一番強く光る星。迷ってる誰かの道しるべになるって言われてる。君みたいだなって思った」
「私、そんなんじゃ…」
首を横に振る彼女を否定するように、言葉を重ねる。
「僕も、サラも、学院も。君がここまで導いた。だけど、君は誰よりも遠くを見て、誰よりも自分を後回しにする。もし、立ち止まった時が来たら、この星が君を夜明けまで連れて行けるようにと思ったんだ」
互いに思いを込めた贈り物を手にした瞬間、言葉より先に微笑みが二人の唇に宿った。
「ありがとうございます。…大切にします」
「…うん。君が笑っていてくれたら、それでいい」
そう言いながら、内心では必死に思う。
本当はそれじゃ足りない。―でも、今はこれ以上望めない。
胸にしまったカフスが、軽いはずなのに重い。
彼女の言葉は、純粋な感謝だとわかっている。
だがそれが、余計に胸に沁みた。
届かない場所へ伸ばした手を、そっと握り返されたような感覚。
彼女の心に誰かがいることくらい、とっくに気づいていた。
だけど、あの瞳の揺らぎ。
ほんの一瞬、言いかけて飲み込んだ言葉。
もしも―
―ほんの少しでも、僕にチャンスが残されているのなら。
そう願った瞬間、自分の心がまだ彼女から離れられないことを痛感した。
けれど、声は喉の奥で凍り付いたまま。
夜気の中に沈黙だけが残り、その重さが、彼女と並ぶ最後の時間を静かに締めくくっていた。




