33.-王宮学院編-返答
「欲しいものはある。けど…今は言わない」
一瞬だけ射抜かれた瞳に、胸が強く跳ねた。
その鼓動の余韻を残したまま、ジェームズ様は視線を逸らし、背を向けて歩き去って行く。
残された空気は、言葉にならない問いを私の中に置き去りにした。
王宮からの返答はまだ届かない。
生徒会室には初夏の陽射しが差し込んでいるのに、空気は重く沈んでいた。書類をめくる音さえ、緊張を煽る。
窓の外では鳥が鳴いているのに、室内は息を潜めるような静けさに支配されていた。
そんな中で、私の意識は別の場所に引き寄せられていた。
ジェームズ様への「借り」をどう返すか。
あの瞳を思い返すたび、胸の奥が落ち着かず、指先が机の縁を無意識に探る。
「ステラ、また考え込んでるわね」
「提言書作成で仕事たまってるんだけど?」
フレイヤとトビアスの声が現実に引き戻す。
私は机に頬をつけたまま、かすれた声で答えた。
「だって…色々と…もやもやする…」
二人は肩をすくめ、「仕事をすれば気がまぎれる」そう言って、私の前にどっさりと書類を置いていった。
「でも…もうすぐ、くるかもな」
窓辺に立つトビアスの一言に、室内の空気をさらに張り詰めさせる。
王宮からの返答が近づいている――未来を決める影が、確実に迫っていた。
私は胸元のブローチに触れる。
借りを返す。
王宮からの返答。
二つの思いが交錯し、心は揺れ続けていた。
王宮からの返答が近い――その噂が学院全体に広がる。
生徒会室の窓をあけると、雨を孕んだ空が重く垂れこめ、湿った空気が頬を撫でる。
その冷たさに胸の奥がざわめき、呼吸が浅くなる。
「元気がないな」
背後から届いた声に振り返ると、ジェームズ様が、いつもの軽い笑みを浮かべていた。
「…返答がくると思うと…」
言葉を濁す私に、彼は歩み寄り、机の上に置かれた書類を指ではじく。
「まぁな。だけど、君はよくやった。討論会も提言書も、な?」
その言葉に胸の奥がじんと温かくなる。
借りを返さねばと焦っていた心が、不意にほどけていく。
「…私、ジェームズ様に何も返せていません」
「返す?そんなものはいらないよ」
彼は少し笑った。
フレイヤの言葉が蘇る。――「ジェームズ様は借りだなんて思っていないと思うけど」。
肩に置かれた手に、鼓動が一拍早まる。
「ステラ」
彼が低く名前を呼ぶ。
「もし王宮の返答が厳しいものでも…君の信念は伝わっているはずだ」
その言葉は、返答の影におびえていた心を静かに照らす灯だった。
―その日、学院の門前に王宮の使者が姿を現した。
重厚な馬車が石畳を軋ませ、揺れる紋章旗が曇天に映える。
「来た…」
誰かの小さな声が、教室の中を落ち着きなくさせる。
放課後、学院長室に集められた生徒会役員五人の目の前で、封印された書簡が学院長によって開かれる。
その瞬間、胸の奥に冷たい影が広がった。
未来を決める返答が、今ここにある。
指先が震える。胸元のブローチに触れながら、私は必死に呼吸を整えた。
学院長が文面を読み上げる。
――提言を「検討に値する」と認める。
承認でも拒絶でもない。
だが、確かに扉は開かれた。
「やった…!」
私の小さな声が室内に広がり、安堵と緊張が入り混じったざわめきが生まれる。
学院長の咳払いの後、さらに言葉が続く。
―まずは少数を試みに加え、その成否を見定める。
成果あらば制度として定め、王国の恒久の秩序とする。
また、この件につき学院と王宮はさらに議を重ね、慎重に道を定める所存である。―
隣のジェームズ様が拳を握り、私に向かって微笑む。
「これからが本番だな。だが、君は一人じゃない」
その言葉が王宮からの返答と重なり、胸の奥に新たな揺れが走る。
未来はまだ定まらない。
けれど、確かに支えてくれる声がある。
学院にとっては前進でありながら、王宮との協議が来年度に持ち越されることが重くのしかかる。
「決まる頃には、俺はいないな」
明るい調子で告げられたその言葉に、生徒会室の空気が一層沈む。
窓から差し込む陽射しは強いのに、心の奥は曇っていた。
「大丈夫だよ。トレヴァーをはじめ、君たちは優秀だ。一名ほど、突っ走っていきそうなのがいるが、優秀な補佐が彼女の手綱を引いてくれるだろう」
「それ、誰のことですか。っていうか私のことですよね」
軽口に合わせて、沈んでいた空気が少しだけ和らぐ。
「学院内の制度や構造的な問題、卒業までの間にできる限り解決しておくよ」
頼りになる生徒会長がいなくなる―その現実が、思っていた以上に心を波立たせる。
窓の外では、夏の陽射しが白く燃え、影を濃くしている。
未来の協議と彼の卒業。
二つの影が重なり、心は再び揺れ続けていた。
ジェームズ様が卒業するまであとひと月。
生徒会室には、来年度の協議に向けた資料が積み上げられていた。
窓から差し込む光の中で、彼はいつものように椅子に腰かけ、静かに書類をめくっている。
会長職の引継ぎはすでに終わっているはず、卒業までできる限りのことは手伝うと、こうして顔を出してくれる。
「ステラ。予算案、また数字がずれてる」
「えっ!? ちゃんと確認したのに……!」
「僕を卒業させたくないなら、もっと手の込んだ作戦で来てくれ」
「妨害なんてしてません!」
「だよな。…君にそんなことされたら、本気で残りたくなる」
胸の奥で小さな波紋が広がる。
気づかないふりをして、帳簿を指さした。
「じゃあ、残りたい分だけこの帳簿を写してもらえます?今日中に終わらなくて」
私の言葉に、ジェームズ様が一瞬だけ目を丸くする。
そのやり取りを聞いていた役員たちは、そっと顔を見合わせて、笑いを堪えていた。
冗談めいた空気に包まれながらも、私は真剣なまま追加の資料をぱさっと机に置く。
緊張感に支配された生徒会室も、その瞬間だけは柔らかい空気に満ちていた。
日が落ちるのが遅く、帰り道はまだ昼のような明るさに包まれていた。
私はジェームズ様と並んで歩いていた。
胸の奥には別れの影が忍び寄っている。
けれど、その沈みゆく影を振り払うように、彼の横顔は何かを決意しているように見えた。
言葉にならない緊張が、二人の間に静かに満ちていく。
「ステラ、ちょっといいか?」
いつもの軽さのないその声に、心の奥が落ち着かなくなる。
彼の足は庭園へと向かい、温室の前で立ち止まった。
胸に広がる、かつて彼に助けられた場所―その記憶が静かによみがえる。
今は花壇に夏の名残を留める薔薇が咲き、淡い香りが風に乗って漂う。
噴水の水音が静かに響き、鳥の声が遠くで交錯する。
石畳には影が伸び、時間が止まったような静けさが広がっていた。
振り返った彼の瞳が、まっすぐこちらへ向けられた。
「…前に欲しいものがあるか聞いてきただろ?」
「はい…」
胸の鼓動が高鳴る。
彼は一歩近づき、低く言葉を落とした。
「僕が欲しいのは――君だ」
噴水の水音さえ遠のき、世界が静止したように感じた。
「ステラ、君が好きだ」
その言葉は、庭園の静けさに落ちて、心をかき乱す。
ずっと気づかないふりをしていた。
いつからか、彼が私をミャーではなくステラと呼ぶようになった意味に。
考えなければ、心はまだルカ様のものとして守られていられたから。
無意識に胸元のブローチを握る。
「……ごめんなさい。私、好きな人がいます」
彼の瞳が揺れた。
だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「…知っている。そのブローチの送り主だろ?」
その言葉に、あの頃の彼の苛立ちの理由がようやく理解できた気がした。
「でも、婚約者ではない。君ほどの家柄の娘が婚約できない相手となると、身分違いの男か、道ならぬ相手か?」
図星をつかれ、言葉を失う。
「俺なら、君を幸せにできる」
私を認め、支えてくれる。
伯爵家の次男としての確かな立場。
それでも、私の心は別の人に占められていたい。
「…待っていてもらってるんです。学院にいる間、結婚しないでって。だから、私―」
「……そうか。でも、君が誰を想っていても、僕の気持ちは変わらない」
沈黙が流れる。
断ったはずなのに、胸の奥がなぜか痛む。
庭園の薔薇が風に揺れ、香りが切なさを増した。
ふっと彼が笑った。
「卒業のプロム、君と出たいんだけど」
「え、でも…」
突然の提案に、私の戸惑いを気にせず、彼は続ける。
「告白を断られたのに誘うなんて、ずるいかな。でも、最後に一緒に過ごしたいんだ」
庭園に響くその声は、優しさを帯びている。
その瞳に宿る誠実さが、私の心を縛る。
―断れなかった。
「…わかりました」
小さく頷くと、彼の表情が柔らかくほどけた。
噴水の水音が再び耳に戻り、庭園の静けさが二人を包んだ。




