26.-王宮学院編-それぞれの想い
誰もいない生徒会室。窓から差し込む夕日が、長机の上に斜めの影を落としていた。
会長席に腰を下ろすと、古びた椅子が低く軋み、重責の音を響かせる。
五年間―、常に一位であるために、眠る時間すら削ってきた。努力は裏切らなかったが、その代償に心の柔らかい部分を削り取られてきた気もする。
来月には騎士団の入団試験が控えている。今年は女子や平民も参加を許されるという。
「これは仕組まれているのか…?」
呟きは、静まり返った室内に吸い込まれていった。
従妹ステラが学院に平民を迎え入れると宣言した時、愚かだと思う一方で、確かに新しい風を感じた。もし賛成してやれたなら――彼女の笑顔を守りながら、未来を拓くこともできたかもしれない。だが、危険は常に背後に潜んでいる。彼女を守るためには、反対の立場を取るしかなかった。
弟のトビアスには、板挟みを強いた。心優しい彼には酷だっただろう。
だが、もう卒業だ。
学院という盾がある限り、モハメドも容易には手を出せまい。
扉がノックされ、静寂が破られる。副会長ジェームズが顔を覗かせた。
「待たせてしまいましたか?」
「いいや」
立ち上がり、引き継ぎの資料を手渡す。軽薄に見える後輩だが、能力は確かだ。
「――、以上だ。何かあるか?」
「いいえ。今までとやることは大して変わりませんし、あとは…」
ジェームズの口元に、くすりと笑みが浮かんだ。
「じゃじゃ猫をどう抑えるか―、ですかね?」
ステラのことだと、すぐに分かった。
「すまないな。あいつの扱いが一番面倒かもしれない」
「なんとか手綱をひいてみますよ」
軽口のやり取りに、思わず肩の力が抜ける。厳格さばかりを纏ってきた自分には似合わない空気だが、次の会長にはこれくらいの柔らかさが必要なのかもしれない。
同性から見ても端正な顔立ちの男は、楽しそうに笑みを浮かべていた。その笑みを見て、静かに頷いた。
―託すべき相手は、もう目の前にいる。
******
兄が去った余韻は、まだ胸の奥に残っていた。
生徒会室の椅子に刻まれた軋みの音が、胸の奥で繰り返し響く。あの席に座る兄の姿はもうない――そう思うだけで、講堂の厳粛な空気が一層重く感じられていた。
卒業式が行われている講堂は、静かな空気に包まれていた。壇上に立つ兄の背中は、家で見せる顔と変わらず厳格で、感情をほとんど表に出さない。
ステラは「あの石頭!」といつも怒っていたが、それがすべて彼女を守るためだったことを、彼女は知らないまま兄は卒業していく。
「少しぐらいステラに話しても…」
苛立ち混じりに兄へこぼしたこともあった。だが、兄は首を振り冷たく言い切った。
「些細なことが命取りになりかねない。絶対にあいつには言うな」
従兄として、生徒会長として、常にステラを守ってきた存在は、今日でいなくなる。
明日からは、俺がその役目を担うことになる――だが、兄のような強い意志を持って彼女を守れる自信はない。
卒業式を終えた後、兄の部屋を訪ねた。
プロムの準備を終え、窓辺に立つ兄は、どこか暇を持て余しているように見えた。
「かっこいいね、兄さん」
「お世辞はよせ」
「本当にそう思っているって」
短い会話の後、沈黙が落ちる。
「…兄さん、今までありがとう」
ステラの分も込めて頭を下げると、兄は顔を背けて窓の外を見つめた。
「俺は俺の仕事を成しただけだ」
「それでも俺たちは兄さんに助けられてきた」
返事はなかったが、やがて兄は静かに言った。
「お前はお前らしく、あいつのそばにいてやるだけでいい。無理に守ろうとか考えるな」
「何もしなくていいってこと?」
「ああ。それだけで救われることも沢山あるんだ」
振り返った兄の笑顔は、厳格な仮面の下に隠されていた優しさだった。
兄さんの様にはいかないかもしれない。
それでも、俺なりに彼女を守っていこう。そう決意を固めた瞬間、背中を押されたような気がした。
******
新学期を迎える朝、生徒会室の扉を開けると、まだ誰もいない静けさが広がっていた。
窓から差し込む光が机の上に散らばり、引き継ぎの資料が淡く照らされている。会長席に腰を下ろすと、椅子がぎしりと鳴った。
その音に、前会長―ゲランドが残した重みを思い出す。
僕には彼のような威厳はない。早々に諦めている。軽さこそが自分の信条だ。だが、託された者として、守らなければならないものがある。
前会長に託された仕事は二つ。会長職と、ステラ。
危ういほど真っ直ぐな彼女の言動は、時に周囲を巻き込みかねない。
前会長はそれを理解した上で抑え、守っていた。
僕は―ただ目で追うことが増えているだけだ。
あの笑顔を曇らせたくない。その為にできること、やるべきこと。
ふっと自嘲して「らしくないな」と呟く。
軽口ばかりの僕が、一人の女性のために何かを考えるなんて初めてだ。
生徒会室の扉が音を立てて開いた。思い浮かべていた彼女が、まるで呼ばれたように姿を現す。
「ジェームズ様、早いですね」
「確認しておきたいことがあってね」
彼女が机の上の資料を覗き込もうと身を寄せる。自然に椅子を引いてスペースを作ると、ステラは小首をかしげた。
「気を使わなくてもいいのに」
「いや、僕が見やすいからさ」
―本当は近づきたいだけだ―と、心の中で苦笑する。
ステラは資料を指でなぞりながら、ふと笑みを浮かべた。
「ゲランド様からの引継ぎって、どんなこと言われたんですか?」
「二つだよ。会長職と…じゃじゃ猫の世話」
「じゃじゃ猫?」
「さて、誰のことだろうな」
むっとした顔を見せる彼女に、思わず笑みがこぼれる。冗談の裏で、本気で守るべき存在だと分かっているのに、言葉にはできない。
ステラが抗議のために振り上げた手を、とっさに握って止めた。
―この手、離したくないな。
理性を保ち、ゆっくりと手を離す。
「暴力はんたーい」
「もう!」
ふくれっ面で離れていく姿すら、かわいく見えてしまう。
―重症だな。
******
ジェームズ会長とステラの掛け合いを、扉の前で聞いていた。
軽やかな笑い声が生徒会室に響く。二人の間に流れる空気は、私には眩しすぎる。あの人たちは自然に笑い合えるのに、私はいつも言葉を選びすぎて、誰とも近づけない―。
新学期を迎える寮の机に向かい、余計なことを考えない様に勉強していた。だが、空腹に集中が途切れ、食堂に向かう。
お昼を過ぎた時間帯のせいか、長テーブルにはぽつぽつとしか人がいない。
「サラ様!」
突然背後から声をかけられ、体が跳ねる。
振り向けば、後輩のステラ・ハワードが太陽のような笑顔を浮かべていた。
「びっくりさせちゃいました?ごめんなさい!」
「ううん。大丈夫」
「今からお昼ですか?」
「うん。ステラは?」
「今さっき食べ終わったところです。今日のデザート、おいしかったですよ」
太陽のように眩しい笑顔。
周りを明るく照らし、温かな空気をまとう。――だが時にそれは、狂暴な光にもなる。
ランチのプレートを受け取り、一人で席に着く。親しい友人がいない私は、いつも時間をずらして食事をとる。
孤独を隠すようにスプーンを動かすが、苺のムースの甘さは喉を詰まらせるだけだった。
思い出すのは、平民の王宮学院への入学が初めて語られた日のこと。胸に湧き上がったのは、反発と期待。
できるわけがないという気持ちと、―自分と同じことを考えていた者への賛同。
声に出す勇気はなかったが、心の奥では確かに頷いていた。
初めての試験で首位をとった日、努力が報われた喜びは、すぐに塗りつぶされた。
放課後の教室。雨が降りそうな空は、教室の中をも暗く塗りつぶす。
ミック・ステュアートが机を蹴り上げ、仲間とともに私を囲んだ。
「たかが男爵家の分際で、生徒会に入りやがって!」
机が倒れる音に、身体がすくむ。
「自分の立場、わかってんだろ?お前の家の所領は本来なら誰のものだ?」
「……ステュアート家です」
「だよなぁ!俺の家から借りてるんだよなぁ!そんな俺を差し置いて生徒会?調子乗んな」
彼の言葉に逆らうことはできなかった。補佐に指名しろと命じられ、私は従うしかなかった。
それからは―、
常にミックの言いなりだった。
ミックの意見が『学年の総意』となり、私自身の声は封じられた。生徒会役員でありながら彼の操り人形のように見えたのだろう。反発は強まり、いつしか私の周りから人がいなくなっていった。
孤独は、恐怖と同じくらい重くのしかかった。
それでも、努力を怠ることだけは嫌だった。首位を守ることで、自分の中の誇りを繋ぎ止めた。だが、ミックの支配は変わらない。
一年が過ぎ、ステラが生徒会に入ってきた。
輝かしい金髪の令嬢は、臆することなく意見を述べ、停滞した空気を一変させた。
ミックに苛立ちを抱かせながらも、公爵令嬢という立場と、会長・副会長の盾が彼女を守っていた。
そう。ミックには身分しかない。
そして私は、その身分にすら勝てないのだ―。




