願いごと
王立学院から、無事に合格の知らせが届いた。
試験の後も落ち着かない日々が続いていたけれど、ようやく胸を撫で下ろすことができた。
張り詰めていた糸がふっと緩み、心に静かな安堵が広がっていく。
今日は、ロイ様の家に通う最後の日。
そして――ルカ様とも、もう会えなくなる。
そう思うと、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
最後の授業は、いつもと変わらず穏やかに終わった。
「ステラ、今までお疲れさま。よく頑張ったわね」
微笑むロイ様は、変わらず気品に満ちて美しい。
私の力を引き出すために、影でさまざまに尽力してくれた彼の想いを思うと、胸が熱くなる。
「ロイ様、本当にありがとうございました。ロイ様が私の先生で、本当に良かったです」
立ち上がって深く頭を下げると、ロイ様はそっと私を抱きしめてくれた。
その腕の温かさに、思わず目を閉じる。
「いいのよ。あなたと出会えて本当によかったわ。これからもよろしくね」
身体が離され、代わりに右手が差し出される。
その手をしっかりと握り返し、「はい」と満面の笑みで応えると、ロイ様も柔らかな笑顔で返してくれた。
「さぁ、下に行きましょう」
ロイ様に促され、階段へ向かう。
ふと気づくと、いつも後ろにいるはずのアンの姿が見えない。
先に降りているのだろうか――
そんなことを考えながら、扉を開けた瞬間。
そこには、いつもと違う景色が広がっていた。
木目の質素なテーブルには、淡いピンクのテーブルクロスが丁寧に敷かれ、その上には大きなケーキ。
周囲にはアフターヌーンティーの彩られた焼き菓子、スコーン、サンドイッチなどの軽食が美しく並んでいる。
まるで夢の中の食卓のようだった。
驚いて後ろを振り返ると、ロイ様はいたずらっぽく微笑んだ。
「合格祝いよ」
そのまま、立ち止まっていた私の背中をそっと押してくれる。
椅子に腰を下ろすと、レン様とハロルド様が「合格おめでとう」と声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
嬉しさと少しの照れくささが混ざって、自然と笑みがこぼれた。
けれど――ふと気づく。
彼がいない。
最後の日なのに。
こんな大切な日に、どうして。
「……あの、ルカ様は……?」
思わず口にした問いに、場の空気が一瞬止まったような気がした。
「……あの子、一週間ほど前に出て行って、それっきり戻ってきていないの」
その表情には、心配と少しの諦めが滲んでいた。
「何かあった場合は、ギルドから連絡が来る手筈になっているから、無事だとは思うんだけど……」
「そうですか……」
胸の奥がじんと痛む。
でも、ここで沈んではいけない。
せっかく私のために祝ってくれているのに、暗い顔なんて見せたくない。
気持ちを切り替えて、できるだけ明るい声を出す。
「仕方ないですね。戻られたら、よろしくお伝えください」
私の顔を見て、ロイ様はほっとしたように微笑み、「ええ、もちろん」と優しく請け負ってくれた。
それからは、用意してくれたお菓子を心ゆくまで味わった。
甘さと香ばしさが口いっぱいに広がり、胸の奥にじんわりと温かさが満ちていく。
ひと段落ついた頃、ロイ様が綺麗に包装された箱を渡してきた。
「これは、お祝いの品よ」
「えっ、いただいてもいいんですか!?」
「もちろん。あなたのために選んだの」
胸が高鳴りながら箱を開けると、白く輝くしずく石のペンダントが現れた。
硬質な冷たさと、真珠のような柔らかな光を併せ持つその石は、手のひらの中で静かに存在感を放っている。
「綺麗……」
「この石には魔力を共鳴・増幅する力があるの。あなたの特異な魔法にも、きっと寄り添ってくれるはずよ」
私の力を理解し、支えようとしてくれるその思いに、胸がいっぱいになる。
「ありがとうございます、ロイ様」
ロイ様は優しく頷いた。
続いて、ハロルド様が少し照れたように花束を差し出してきた。
「君をイメージして選んだんだ」
鮮やかな黄色の花々がふわりと香った。
明るく、希望を感じさせる色。
昔の私には似合わないと思っていた色を、今の私に重ねてくれたことが嬉しかった。
「素敵です……ありがとうございます」
ハロルド様は、私の反応に安堵したように微笑んだ。
「俺からはこれ」
向かいの席から、レン様が小さな箱をぽんと投げてよこす。
慌てて受け取って開けると、深い青の石があしらわれた髪飾りが入っていた。
湖のように澄んだ青。
――ルカ様と見た、あの湖の色。
ひと目で気に入ってしまった。
「これ……高かったんじゃ……?」
「その辺で買った安物だ。気にするな」
本当かどうかはさておき、彼の照れ隠しのようなそっけなさが、かえって温かい。
「ありがとうございます。レン様」
「……ん」
顔をそらす彼の横顔に、思わず笑みがこぼれた。
ルカ様に会えなかったのは、やっぱり寂しかった。
胸の奥にぽつりと穴が開いたようで、時折そこがひりつく。
それでも――
最後の時間は、名残惜しいほどに楽しくて、温かくて。
この家で過ごした日々が、どれほど私を変えてくれたのか。
そのことを噛みしめながら、私はそっと胸に手を当てた。
馬車に乗り込み、皆に別れを告げると、涙がこぼれそうになった。
「ステラ」
名前を呼ばれて振り向くと、レン様が真剣な表情でこちらを見ていた。
いつもの軽さとは違う、静かな決意を宿した瞳。
「王宮で待ってる」
その言葉は、まるで未来への道しるべのようだった。
「え……?」
問い返す間もなく扉が閉じられ、馬車は動き出す。
今のは――一体どういう意味なのだろう?
窓から外を見れば、ロイ様たちがなぜか後ろを向いている。
その視線の先に、馬に乗って、駆けてくる人影があった。
「ステラ!」
その声に、胸が跳ねる。
馬車を止めてもらい外に飛び出すと、ルカ様が荒い息をつきながら馬を降り、私の前に立った。
「悪い、間に合うつもりだったんだけど……思ったより長引いてさ」
手には大きな紙包み。
「急いで戻ってきたんだけど、ギリギリだったな」
包みを受け取ると、想像以上の重さに身体がよろける。
すぐにルカ様が支えてくれた。
「ごめん、重かったよな」
そのまま馬車の中に乗せた。
「中身は……サロアン牛」
「えっ?」
「探すのに手こずってさ。一週間あれば余裕だと思ってたんだけど、なかなか見つからなくて」
「私のために……?」
「うん。前に食べたいって言ってただろ?」
何気なく話したことを覚えていてくれた。
その事実だけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
「でさ」
ルカ様は私の前で片膝をつき、視線を合わせるようにしゃがんだ。
「何を贈ろうか迷ったんだけど、これっていうものが見つからなくて」
「でも、サロアン牛をくださったじゃないですか」
「それは、元々みんなで食べる予定だったやつだから」
「それでも、十分嬉しいです」
ふっと笑った彼の顔が、次第に真剣な表情へと変わっていく。
「君の願いを叶えたいって思った」
「……私の、願い?」
「俺にできることなんて限られてるけど、それでも、できることがあるなら叶えたい」
その言葉に、胸がじんと熱くなる。
何を願えばいいのか、すぐには答えられなかった。
彼は困ったように笑って、「火鼠の皮衣とか、燕の子安貝とか?」と冗談を言う。
「ふふ、竹取物語じゃないんですから」
私も笑いながら返す。
――でも、あれは求婚を断るための無理難題。
なら私は、逆の意味で、無理を言ってみてもいいのかもしれない。
「……時間を」
「時間?」
「ルカ様の時間を、私にくださいませんか?」
彼は少し戸惑ったように眉を寄せた。
「どういうこと?」
「これから五年間、もし誰かを好きになっても……結婚しないでほしいんです」
言いながら、自分でもとんでもないことを言っていると気づく。
撤回しようとしたその瞬間――
「いいよ」
あまりにもあっさりと、でも確かに耳に届いた。
「これから五年間、俺の心を君に預ける」
そう言って、彼は私の左手の甲にそっと唇を触れさせた。
この国の誓いの仕草。
胸が高鳴る。
「ま、待ってください! 私、今すごく勝手なことを言いました!」
「?」
「五年ですよ!? 冷静に考えてください」
「俺は冷静に判断してるけど?」
「だって…ディナさんは?」
「なんでディナがでてくるの?」
彼は目を丸くする。
「……前に裸の付き合いだって……」
「違う! それ子どもの頃の話!」
焦る彼を見るのは初めてだった。
「あそこの子供たちは男女関係なく風呂に入れられるんだよ。それをあいつがいっつも変な言い方するから……」
両肩を掴まれて、大きくため息をつかれる。
「ディナとは、そういうんじゃないからな」
「……でも、これから先、素敵な人が現れたら? あなたが誰かを好きになったら? 私のお願いは、その想いを捨てろって言ってるようなものです」
「だとしても、五年ぐらい大したことないよ。それに――」
彼は私の耳元にそっと囁いた。
「総司だった頃から、好きな女ができたことないし」
なんと。
小説で読んだあれやこれは、本当にフィクションだったのか。
「だからって……!」
言いかけた唇に、彼の指がそっと触れて、言葉を止められる。
「いいんだよ。むしろ五年だけでいいの? 十年でも二十年でも俺は構わない」
「……どうして、そんなふうに言えるんですか? 私、めちゃくちゃなこと言ってるのに」
「君は俺の恩人だから」
「助けられたのは、私の方ですよ」
彼は微笑んだまま、それ以上は語らなかった。
「……後から、こんな約束しなければよかったって思っても、知りませんからね」
「思わないよ。誓っただろ? それに――」
彼は少しだけ視線を逸らし、静かに言った。
「五年後、君が俺を選ばなくてもいい。でも、俺は待つ」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
こんなにもまっすぐに、私の未来を信じてくれる人がいるなんて。
私は強く頷いた。
「五年、待っていていただけますか?」
「待ってる」
迷いのない声だった。
こうして私たちは、五年という長い、でも確かな約束を胸に、しばしの別れを告げたのだった。




