16.前世
いつもロイ様の家に行く日は、楽しみで早く起きてしまう。
けれど最近は、ルカ様に避けられているような気がして、布団の中でぐずぐずと時間を引き延ばしてしまう。
目を閉じて見ても、前回の訓練の失敗や自分の失言が頭をよぎるばかりだった。
そんな朝、アンが用意してくれた服をみて、私は思わず眉をひそめた。
黒の長ズボンにサスペンダー。襟元に赤いリボンが付いたフリルシャツ。
乗馬の時以外にズボンをはくことは滅多にない。動きやすくて嫌いではないけれど、今日の予定にはそぐわない気がした。
「どうして今日はこれなの?」
問いかけると、アンは少し間をおいて答えた。
「ロイ様のご指示です」
その言い方に、どこか棘のようなものを感じて、それ以上は聞いてはいけない気がした。
訓練は今日も思うようにいかなかった。
無効化の魔法は、成功と失敗を繰り返している。最近は特に、失敗の方が多い。
ロイ様が静かに問いかける。
「魔法は心理的な影響を受けやすい。何か悩み事でもある?」
言いかけて、飲み込んだ。
ルカ様に避けられているかもしれない―そんな個人的なことを、ロイ様に打ち明けるべきではないと思った。
ロイ様はそれ以上何も言わず、静かに告げた。
「少し早いけど、今日はおしまいにしましょう」
不甲斐ない自分が嫌になる。
どんな心の状態でも、魔法を使えるようにならなければならないのに。
階段へ向かってドアを開けると、そこにルカ様がいた。
思わず息を呑む。胸が跳ねる。
驚きと、再会の喜びが一気に押し寄せてくる。
私の顔を見たルカ様は、ゆっくりと階段を上がってきた。
「なんか、久しぶりだね」
少し照れたような笑顔が、胸の奥を優しく打つ。
後ろにいたアンに、ルカ様が声をかける。
「それじゃ、ステラをお借りしますね」
え、どういうこと?
「ご承知のことと思いますが、くれっぐれもお嬢様にケガを負わせないでくださいね」
アンの言葉に、ルカ様は少したじろぎながらも「わかってます」と答えた。
「じゃ、行こう」
そう言って私の手を取る。
優しく、でも迷いのない力で引っ張っていく。
「え?え?」
戸惑いながら振り返ると、ロイ様がにこやかに手を振っていた。
まるで、すべてを知っていたかのように。
馬に乗って森の中に入っていく頃には、ようやく頭の中が整理されてきた。
どうやらこのお出かけは、アンとルカ様たちとの間で事前に決まっていたらしい。
いきなりのことで驚いたけど、久しぶりにルカ様に会えたこと、そしていつもと変わらない態度で接してくれたことが、何より嬉しかった。
避けられていると思っていたから―。
背の高い草木を抜けると、視界がぱっと開けた。
そこには、青く澄んだ湖が広がっていた。
湖面は陽光を受けてキラキラと輝き、風に揺れてさざ波が立っている。
「きれい…」
思わず漏れた言葉は、胸の奥に焼き付くような感動を伴っていた。
「こんな素敵な場所が近くにあったなんて…」
「知らなかった?」
「はい」
湖から視線を外し、隣に立つルカ様を見上げる。
その横顔は、どこか決意を秘めているように見えた。
「ところで、どうしてここへ?」
少しの沈黙の後、彼は静かに答えた。
「…二人きりで、話がしたかったんだ」
その言葉に、胸が跳ねる。
淡い期待をしてはいけないと思いながらも、心が勝手に浮き立ってしまう。
けれど、次の瞬間―
「ステラ」
真剣な眼差しが私を射抜く。
風が吹き抜け、鼓動と連動するように湖面を揺らす。
髪がなびき、手で押さえたその瞬間、思いがけない言葉が耳を打った。
「君は何者だ?」
意味を測りかねていると、さらに衝撃的な言葉が続く。
「どうして、沖田総司を知っている?」
頭が真っ白になる。
―どうしてルカ様がそのことを?
思考が追い付かず、脳がパニックを起こす。
けれど、ルカ様は容赦なく言葉を重ねる。
「君と初めて出会った日、君は覚えていないかもしれないが、確かに呟いたんだよ。沖田総司の名前を」
記憶に…ない。
あの日、アンが目を覚ましたところまでは、はっきりと覚えている。
でもその後の記憶が、ぽっかりと抜け落ちている。
次に意識が戻った時は、もう自室のベッドの上だった。
ルカ様に抱えられて帰宅したと、後からアンに聞かされた。
きっとその間に、私は無意識のまま、“あの名前”を口にしてしまったのだろう。
推しの名を、寝言で―。
よりによって、それを聞いたのが、
前世が沖田総司だったかもしれないルカ様だったなんて。
「驚いたよ。まさかこの世界でその名前が出てくるなんて思わなかったから」
ルカ様はどこか自嘲的に笑いながら続けた。
「最初はさ、俺と同じ前世の記憶を持ってるのかと思った。新選組の誰かか、八木家の人間か、あるいは長州や敵対する誰かかもしれないって」
けれど―と、彼は私をまっすぐに見つめる。
「君を見ていても、誰にも思えなかった。…君は、いったい何者なんだ?」
鳶色の瞳が揺れている。
疑いと、戸惑いと、ほんの少しの期待が混ざったようなまなざし。
私は、その瞳から目をそらさずに、静かに息を吸った。
「やっぱり…あなたは沖田総司様なんですね」
言葉にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
それは確信というより、祈りに近かった。
けれど、ルカ様の瞳がわずかに揺れたのを見て、私は確信に変わるのを感じた。
彼は息を呑んだように見えた。
「いつから気づいていた?出会った時から?」
私は首を横に振る。
「気づいたのは最近です。その刀」
視線を彼の佩刀へと向ける。
「大和守安定、ですよね?」
その名を口にした瞬間、ルカ様の目が大きく見開かれた。
その反応が、何よりの答えだった。
「沖田総司の愛刀と言われてましたから。確証はなかったけど、もしかしたらって…」
「なぜこれが安定だとわかった?」
「レン様が、ルカ様は刀に名前を付けているっておっしゃっていたので」
「…あいつ、本当におしゃべりだな」
口調は呆れたようだったが、どこか楽しげでもあった。
その様子に、思わず微笑んでしまう。
けれど、次の瞬間には空気が変わった。
「で?安定まで知っている君は、何者なんだ?」
口角は上がっているが、瞳はするどく、まるで刃のように私を見据えてくる。
その視線に思わず息を詰めそうになる。
けれど―、逃げてはいけない。
私は静かに息を吸い込んだ。
そして、その瞳と正面から対峙した。
今度は―、私の番だ。
私の正体を、話す番だ。
「私は…、沖田様が亡くなってから約160年後の日本で暮らしていた者です」
声が震えないように、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ごく普通の、沖田様とは何の関係もない人間でした。―前世の記憶として、それを持っているだけです」
風が湖面を撫でるように吹き抜ける。
水のさざめきと、遠くで鳴く鳥の声だけが静寂を破っていた。
「…160年後?」
絞り出すような声に、私は静かに頷いた。
「どうしてそんな未来の人間が、俺のことを知っているんだ?」
疑念を含んだ瞳が、私を試すように見つめる。
「新選組の活躍は、小説や映画になって語り継がれていて…あ、この世界には映画はまだありませんよね」
言いながら、わかりやすいたとえを探す。
「えっと…忠臣蔵、ってご存じですか?」
「赤穂浪士の?」
「はい。沖田様が生まれるより前の話ですが、忠臣蔵の様に、新選組も劇や本で語り継がれているんです」
ルカ様は、信じられないような顔で私を見つめる。
「俺たちが……そんな風に?」
「はい。池田屋事件の話が特に有名です」
思わず熱が入ってしまう。
「そういえば池田屋で沖田様が倒れた原因って喀血だったんですか?」
「え、いや…あの頃はまだ。やたら暑くて、途中から意識がもうろうとしてた記憶はあるけど…」
「やっぱり熱中症だったのかも。昔は喀血って言われてましたけど、最近の研究では熱中症説もあって…」
我に返る。
「すみません、つい…」
「いや、…本当に俺たちの話が残っているのか。じゃあ、俺が死んだ原因も?」
「労咳、ですよね」
ルカ様は小さく頷いた。
「本当に…知ってるんだな」
ため息のような声に、少しだけ安堵が混じっていた。
彼の表情に、静かな愉快さが滲んだ。
「勇さんや歳さんにも教えてやりたいな。二人とも絶対喜ぶ。…でも歳さんは、からかうなって怒りそうだ」
そう言って笑ったルカ様の目に、涙が浮かんでいた。
その涙は彼自身も予想していなかったようで、そっと背を向けて座り込む。
私は彼の背中を見つめ、そっと背中合わせに座った。
けれど、互いの背は触れ合っていない。
その距離感が―今の私たちだ。




