12.無効化の力
「待たせたわね」
ロイ様の声は明るく装っていたが、その顔は今までで一番やつれていた。
美しい瞳の下には深いクマが浮かび、肌は青くくすんで見える。
「ロイ様、お加減が…」
「大丈夫。ちょっと寝不足なだけよ。それより、あなたの力を引き出していくわよ」
私の力―
精霊たちに力を借りられない魔力に、意味があるのか。
ずっと悩んでいた。
ルカ様に打ち明けてから、少しだけ前を向けるようになったけれど、魔法書に載っている魔法は一向に使えないままだ。
「ごめんね」
ロイ様がふいに言った。
「私自身、あなたの力のことをちゃんと把握できていなかった。不安だったわよね」
隠していた気持ちが、見抜かれていた。
「無効化の力を持つ人を一人だけ知っているの。ロアミオ国にいる人でね。その人に手紙を出したんだけど、忙しいみたいでなかなか返事がこなくて。一昨日、ようやく届いたのよ」
「じゃあ、私の力は…無効化なんですか?」
ロイ様は静かに頷き、言葉を続けた。
「無効化は、精霊の力を打ち消してしまう。だから精霊に頼る魔法が使えない。あなたが魔力を持ちながら魔法を使えなかったのは、そのせいだと思う。―だから今日は、思い切ってその力を使ってみましょう」
そう言って、紙の束を私の前に置いた。
「無効化魔法の呪文よ」
無効化魔法師が独自に編み出した呪文だという。
元の字があまりに悪筆で読めなかったため、ロイ様が丁寧に書き直したらしい。
顔色が優れない理由が、少しだけわかった気がした。
呪文はなくても魔法は使える。
けれど、初心者の私は、詠唱した方が集中しやすい。
無効化は使える人自体が少ないため、教本には載っておらず、独自に作るか、細々と伝えられているだけだという。
「…本当は、あなたを彼の元に預けたい。でも、あなたにはあなたの夢があるでしょ」
「はい」
「だから、できうる限りのことを、私の下で学んでいってほしいの」
私は力強く頷いた。
紙束の呪文を一通り読んでみる。
詩のように美しい言葉が並んでいる。
対象は植物か、生物か、無機物か。
状況によって変わる呪文。
「覚えられるかな…」と呟くと、ロイ様は微笑んだ。
「全部覚える必要はないわ。呪文はあくまで手本。時には自然と口をついて出てくることもあるし、ほとんどの魔法師は詠唱なしで魔法を使っているわ」
確かに、ディナさんも詠唱なしで回復魔法を使っていた。
「じゃあ、始めましょう」
ロイ様は瓶に入った一輪の花を取り出した。
バラのような形だが、葉も茎も花弁も黒い煤のようなもので覆われている。
瘴気除けの手袋をはめたロイ様が、慎重に瓶を開ける。
「これは、瘴気に侵された花。この花から瘴気を無効化してみましょう。まず、魔力を花にあてて、第一の呪文を唱えてみて」
私は花の上に手をかざし、紙束の一番上に書かれた呪文を唱える。
植物から瘴気を除く呪文。
集中して――
「星の記憶よ、花に宿りし闇を照らせ。 月の涙よ、静かに降りて命を潤せ。時の風よ、穢れを抱いて去れ」
空気が震え、光が現れた。けれどそれは、一瞬で消えてしまった。
がっかりする私に、ロイ様が優しく言う。
「最初からうまくいくものじゃないわ。魔法は、言葉に魔力をのせて紡ぎだすもの。ただ読むのではなく、楽器の調べのように、魔力と詠唱が合わさった時に発動するの。ゆくゆくは、無詠唱でも使えるようになるわ」
その時―
階下からバタバタとしたあわただしい音が聞こえた。
「ロイ!」と呼ぶレン様の声。
何かが起こった。
「どうしたの!?」
私たちは部屋を飛び出し、階段を駆け下りる。
玄関から続く廊下に、皆が集まっていた。
その中心に、猫のジェットが倒れていた。
黒毛は煤のようなもので覆われ、身体から血を流している。
息も絶え絶えで、いつもの艶は失われていた。
「ジェット!」
かけよろうとした私を、ハロルド様が制した。
「瘴気だ。近づいてはだめだ」
傷あとを見たルカ様が、眉をひそめて呟いた。
「レピュースに刺されたか…あいつの角には瘴気がたっぷり含まれてるからな」
森や洞窟に棲む魔獣。
まれに人里に現れ、動物や人を襲うことがある。
領内でも年に何度か耳にする話だ。
そんな傷を負いながら、ジェットはここまでたどり着いた。
ロイ様が手をかざすと、金色の粒子が傷口を包み、少しだけ、呼吸が落ち着いた。
けれど、煤のようなものは残ったままで、ジェットは苦しそうにしている。
瘴気除けの手袋をつけたロイ様の手が、ポーションを口に流し込む。
だが、ジェットは飲み込めずに吐き出してしまう。
「ジェット、頑張って飲んで!」
何度試しても、ポーションはこぼれてしまう。
生物から瘴気を無効化する呪文。
一度見ただけ。正確かわからない。
でも、このまま見ているだけじゃ、絶対後悔する。
私は歩み出て、ジェットの傍に座り、手をかざした。
できるかわからない。
でも、やらなきゃ。
この小さな命を守りたい―!
両手に暖かな空気が集まる。魔力だ。
「穢れの霧よ 退き給へ かの命を 護り給へ 我が祈り 星に乗りて 清き光 今ぞ降り来む」
柔らかな光が両手から放たれる。
初めて魔力を発動した時と同じ、優しい輝き。
けれど、すぐには何も起こらなかった。
ジェットの体を包む光は、ただ静かに揺れている。
私の魔力が届いていないのか―
そう思った瞬間、ジェットの黒毛にまとわりついていた煤のようなものが、ゆっくりと浮かび上がり始めた。
ぽつぽつと空中に舞い、やがて小さな粒となって凝固していく。
その中に、かすかに文字のようなものが見えた。
次の瞬間、それは一気に霧散した。
ジェットには、もう傷も煤もついていない。
いつもと変わらない姿に戻り、小さくも落ち着いた呼吸で眠っている。
「もう、大丈夫そうね」
ロイ様の声に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「…それにしても、すごいな!ステラは!」
そう言ってレン様が少し乱暴に私の頭を撫でる。
その手の暖かさに、ようやく現実感が戻ってきた。
ルカ様と目が合う。
その瞳に、静かな光が宿っていた。
「やっぱり君の力は本物だったね」
その声はいつもより少し柔らかくて、胸の奥にすっと染み込んだ。
私は言葉の代わりに、そっと頷いた。
レン様がジェットを抱えて部屋に入る。
私も立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、ふらりとよろめいた。
「おっと」
ルカ様がすぐに支えてくれた。
その腕の中で、私は長椅子に座らせられる。
ジェットを抱えるレン様のように、ルカ様は私を抱えてくれた。
その時、ふと視線の端に映ったロイ様がふらりと壁に手をついた。
すぐにハロルド様がそっと支える。
「…ロイ、少し休め」
「平気よ。ステラの前では、しゃんとしていたいの」
その言葉に、ハロルド様は何も言わず、ただ静かに頷いた。
私はそのやりとりに気づかず、ジェットの寝顔を見つめていた。
「はい、あーんして」
促されるままに口を開けると、ルカ様の指先から魔力回復の飴が舌の上に転がった。
それを見たレン様が、くくっと笑う。
「ジェットと変わらねぇな」
ルカ様は「確かに」と苦笑しながら、そっと私の髪を撫でた。
その瞬間、胸の奥に灯った光が静かに広がっていく。
私の力は、誰かを傷つけるものじゃない。誰かを守るためにある。
―ルカ様に認められたことが、何より嬉しくて、何より誇らしかった。
そして、最後に現れた“文字のようなもの”が、心の片隅に残り続けていた。
何か深い意味があるのだろうか。
けれど今はー
この小さな命が静かに眠っていること。
それだけで、十分だった。




