届かない場所
この気持ちが何なのか、もうわかっていた。
――嫉妬。
――劣等感。
名前を付けてしまえば簡単なのに、どう扱えばいいかわからなかった。
礼拝堂の中央には十字架の代わりに、王のような威厳をまとった神、ディアレクの像が静かに立っている
。
その前に立つ自分が、なんだかひどくちっぽけで、醜い心を見透かされているようで、息が詰まった。
「……やだな」
誰もいない礼拝堂に、私の声だけがむなしく響く。
こんなの、私らしくない。
そもそも、今日は貧民街の現状を知るためにわざわざ連れてきてもらったのに。
ぎゅっと目を閉じて、深呼吸をする。
胸の奥に沈んだざらついた感情を押し流すように、もう一度息を吸って、吐いた。
――大丈夫。目的を忘れないで。
そう自分に言い聞かせて、私は礼拝堂をあとにした。
外に出ると、子どもたちの笑い声が風に乗って広がっていた。
鬼ごっこに夢中になっている子、ままごとに笑い合う女の子たち。
その笑顔が、さっきまで胸に刺さっていた棘を、少しだけ遠ざけてくれる。
あちこちから弾む声が園庭に広がり、空気が柔らかく揺れていた。
その光景に、私は思わず足を止める。
さっきまで歩いていた貧民街の、重く沈んだ空気とはまるで別世界だった。
「あなたから見て、ここの子たちはどう見える?」
シスターの穏やかな声に振り返る。
「……楽しそうに見えます」
本当に、心からそう思った。
貧民街に足を踏み入れて、初めて本物の笑顔を見た。
それが、孤児院の庭だったことに、胸が少し痛んだ。
「それならよかったわ。ここは血のつながりはないけど、家族なの。院長がね、子どもたちから笑顔を奪わないようにって、ずっと守ってきた場所。昔はもっと貧しかったけど、最近はルカやディナのおかげで、子どもたちに少しはいい思いもさせてあげられるようになったのよ」
シスターの微笑みは、まるで光のように優しかった。
教会では、親のいない子たちが守られている。
一方で、親のために薬を煎じようとする子もいる。
どちらも、必死に生きている。
――何が正しいのか。
――どうすればいいのか。
ただ“見る”だけでは足りない。
この場所に立って、私はようやくそれを理解し始めていた。
答えはまだ見つからない。
でも、目を逸らしてはいけない。
そう思った。
その時、近くで遊んでいた子供たちが「あーあ……」と声をあげた。
「どうしたの?」
そう尋ねると、木の上を指す。
見上げると、枝の間にボールが引っかかっている。
子どもたちが懸命に木を揺らしてみるけど、弱い腕ではびくともしない。
私は枝ぶりを見あげながら、ふと前世で木登りをして遊んだ記憶がよみがえった。
「これなら……いけるかも」
そう思って、枝に手をかける。ズボンだったのが幸いした。
それを見た子供たちから歓声の声が上がったのに気をよくして、どんどんと登っていく。
「気をつけてね!」
シスターの心配する声が飛んでくる。
「大丈夫です!」
そう返しながら、慎重に枝を渡る。
ボールがひっかかっている枝にまたがり、手を伸ばす。
指先がかすかにふれるけど、まだ届かない。
もう少し――そう思って、体を前に滑らせると、枝がミシッと音を立ててしなった。
あと少し――思い切って腕を伸ばし、ボールをはたき落とす。
「やったー!」
子どもたちの歓声が上がる。
ほっと息をついたその瞬間。
バキッ
またがっていた木が折れた。
体が重力に引きずられる感覚。
「きゃあっ!」
思わず悲鳴がこぼれた。
「ステラ!」
名前を呼ぶ声が聞こえた。
バキバキと落下の衝撃に合わせて、細い枝が折れ、葉が舞う。
地面に激突すると思ったが、衝撃はなかった。
恐怖につぶっていた目をあけると、ルカ様に抱きとめられていた。
「ステラ! 大丈夫? 怪我してない?」
私を立たせて、心配した顔で矢継ぎ早に怪我がないか確かめた。
どこも痛くない。
服は少し汚れてしまったが、布に守られた肌はかすり傷一つ負ってなかった。
「……よかった」
ルカ様は安堵した表情を浮かべる。
後ろからディナさんたちが走ってきた。
「大丈夫かい?」
シスターが私の汚れた服をはたいて、葉を落とす。
「はい。ルカ様に助けていただいたので……」
ルカ様の方を見ると、手首を押さえていた。
その姿を見たディナさんが、その手首を取ると、ルカ様の顔が痛みにゆがむ。
――怪我をさせてしまった。
青くなった私の顔を見た彼は、大したことないと笑顔を浮かべる。
「大丈夫だよ」
そう言ったディナさんが私に笑顔を向けたその瞬間、彼女の右手がルカ様の手首にかざされて温かい光が彼の手首を包んだ。
――これは。
光が消え、どう?とディナさんが聞くと、ルカ様は手首を振って頷いた。
「治った。ありがとう、ディナ」
「それは……回復魔法ですか?」
私が尋ねると、彼女は自信に満ちた笑みを浮かた。
「そう。独学だけどね。どうやらアタシ、天才だったみたい」
軽やかに言い放つその言葉とは裏腹に、彼女の笑顔の奥には、積み重ねた努力の影が見え隠れしていた。
魔法には、才能以上に鍛錬が必要だ。
貴族の子なら家庭教師がつくし、平民でも魔法学校に通えば基礎から学べる。けれど、それには相応の費用がかかる。
彼女は、そうした環境を持たずに、独学でここまでの力を身につけた。
しかも、呪文を唱えることなく魔法を操る――それは、並の修練では届かない領域だ。
その凄さを噛みしめていた矢先、彼女はさらりと続けた。
「この魔法のおかげで、“灰狼の牙”にも入れたんだよねー。あ、そういえばルカ、あんたパーティー組んだって本当!?」
「……まぁ、うん」
「団長、ショック受けてたよ。あんなに誘っても断られてたのにってさ」
“灰狼の牙”――この国でも屈指の冒険団。
その一員になれるほどの魔法師。
天才――その言葉が、ただの自称ではないことを、彼女自身が証明していた。
そして、そんな冒険団に仲間に誘われるほどのルカ様もまた、同じく並外れた力を持つ人なのだと、改めて思い知らされる。
届かない。
二人が立っている場所が、遠く感じた。
――静かに。確かに。
「……テラ。ステラ」
名を呼ぶ声に、ハッとした。
「どうした? どっか痛いか?」
心配そうにこちらを見つめる、ルカ様の目。
「ううん。大丈夫です」
帰り道。
私はずいぶんと上の空で、貧民街を抜けて、いつの間にか大通りの側まできていた。
ルカ様はつないだ手を離すと、急に私を抱き上げた。
突然のことに小さく悲鳴をあげる。
「元気ないな。どうした?」
抱き上げられたせいで、近くなった顔を見られなくて、私は黙り込む。
「……」
「ステラ、前から思ってたけど軽すぎない? ちゃんと飯食ってる?」
思わぬ方向からの言葉に、思わず顔を上げてしまう。
「た、食べてます!」
「もっと食べなよ。魔力って使うとお腹すくんでしょ?」
「魔力……」
再び落ち込む私に、「どうした?」と、彼は優しく問いかける。
「……うまくいってないんです」
「魔法が?」
頷く。
最近の修練のことを話し始めると、次から次へと弱い自分がこぼれ出てくる。
「普通の魔法が何一つ使えないんです。今日だって、私に力があったらルカ様のケガも治せたし、そもそも木に登らなくてもボールを落とせたかもしれない。やっぱり私、なんの力もないんじゃって思って……」
魔法だけじゃない。
この街の人たちのために自分ができることも思いつかない、無力な自分がもどかしい。
言葉にならない声は涙になって流れていく。
「ロイはなんて?」
「たぶん、無効化の力のせいかもって。でもロイ様も詳しいことがわからないからちょっと待っててって……」
あふれる涙を、ルカ様は袖で拭ってくれる。
「大丈夫だよ。ロイは待っててって言ったんでしょ」
でもそれは、私に力がないことをはっきりさせるのが酷だと思ったからかもしれない。
「俺たちはあの時、君の力をはっきりと見た。だから、今でもアンさんは君の隣にいる。君の力は本物だよ。焦らなくて大丈夫だ」
鳶色の目がまっすぐに私を見つめる。
その瞳は火のように赤く輝いて、胸の奥に沈んだ冷たい絶望を、少しずつ溶かしていく。
「大丈夫だよ。だから……ちゃんとご飯食べよ?」
思わぬ言葉に、涙が引っ込んだ。
「……ふふっ、ちゃんと食べてますってば」
笑った瞬間、お腹が鳴った。
真っ赤になった私に、ルカ様も笑いだす。
「なんか食べにいこうか。食べたいものある?」
「……屋台のお肉が食べてみたいです」
「食べたことないの?」
アンに止められていたことを話すと、ルカ様は口元に指をあてて言った。
「じゃあ、アンさんには内緒で」
「その前に、降ろしてください!」
「ああ、ごめん。軽いから忘れてた」
地面に降ろされ、差し出された手を握る。
握った手のぬくもりが、遠くに感じていた場所へ、一歩踏み出す勇気をくれた。
私の心は、もう前を向いていた




