あじさいの咲く庭で8
「もう、昔の話だ。久しぶりに戻ってきたら、あの洋館も、この庭の紫陽花もあったから、つい懐かしくてさ。この町も、随分と賑やかになったよなぁ。お前は見たところ、祓う力もないようだが、どうしてここに?アサジの縁者か?」
その声はどこか気遣うようで、正幸は、はっとして顔を上げた。こんなに沈んでばかりいては、トガクも自分と居る事に嫌気が差してしまうかもしれない、正幸は焦って気持ちを切り替えた。
「えっと、僕らの家族がここで暮らし始めたのは、僕の祖父が料理人として、ここの洋館の主人に引き抜かれたからなんだ。祖父は、この家の専属シェフになって、その当時から、この離れで家族と暮らしてたって聞いたよ。洋館の主人が亡くなった後、親族の人達が、ここをレストランにしようって話になったんだって。人が多くて賑やかな方が、故人もうかばれるだろうって。それで、祖父が料理長になって、父もその後を継いだんだ」
もしかしたら、アサジがここに住んでいたのは、祖父がこの洋館に来るずっと前なのかもしれない。祖父がこの洋館に来た時には、既に山は切り開かれ、この洋館は町からも見える場所にあった。
「へぇ…その割には、店の方は静かだな」
トガクは、レストランである洋館の方へと目を向けた。トガクがそう思うのも無理はない、店から人気がしないのは、雨音がその賑わいを遮っているからだけではない、閑古鳥が鳴いているからだ。それでも店が成り立っているのは、お得意様がいるからで、同じ町にある宿泊施設で料理を提供しているからだ。
「経営が難しいんだって。もしかしたら、手放すかもって言ってる」
「そっか…まぁ、それも仕方ないのだろうけど、寂しくなるな…」
しんみりと呟いた一言には、上辺だけではない思いが込められている気がして、正幸は胸に切なさが過った。
この洋館に、トガクは懐かしさから立ち寄ったのだ、もしかしたら、言葉にする以上に、トガクにとってこの場所は大事な場所なのかもしれない。一人羽を休めるような、心を休めるような、そんな場所なのかもしれない。だとしたら、洋館がレストランでなくなったら、この家や庭はどうなるのだろう。住みたいとか、使いたいという人が居なければ、この場所はなくなってしまうかもしれない、もし買い手が見つかったとしても、今までのように使ってくれるかは分からない。ここには、アサジがトガクの為に植えた紫陽花だってある。それを思うと、正幸の胸はどうしても騒ついてしまうけれど、それ以上に、トガクが悲しむ顔は、もう見たくなかった。
「ぼ、僕がいるから!」
咄嗟に出た正幸の言葉に、トガクはきょとんとした。正幸だって、自分で言っておきながら驚いている。こんな風に衝動に突き動かされて、思うままに言葉を口にするなんて。
それでも、目の前にトガクがいるなら、彼の為になるのだとしたら、抱えていた未来への不安も大した事ではないような気さえしてくる。正幸は、心を決めて再び口を開いた。
「あ、えっと、その、僕がこの店を守っていくから、大丈夫だよ!」
こんな事、トガクに会うまでは思いもしなかった。弱い体は、まともに体を起こしていられない日も多々あるのだ、そんな自分が店を守るなんて、祖父から続くこの場所を受け継ぐだなんて、思っていても言葉になんて出来なかった。自分に資格があるのか、果たして自分に務まるのか、そもそも両親は、自分に店を任すなんて考えていないのかもしれない。そう思えば、不安が恐怖に塗り変わって、未来を思い描くことすら避けていたのに。
トガクに会ってしまったばかりに、正幸の世界は更に先まで広がってしまった。
そんな具合で、気合い十分といった様子の正幸をトガクは暫し見つめていたが、やがてくしゃっと表情を緩めた。
「…はは、お前、良いやつだな」
「わっ、」
そのまま、くしゃくしゃと撫でられた頭が、擽ったくて堪らなくなる。
自分の体力では、このレストランを継いでいくのは難しいかもしれない。少し冷静になれば、そんな考えもやはり頭に過るのだが、それでも、トガクが喜んでくれるなら、トガクにとっての思い出の場所を守っていけるのだとしたら、自分も彼の居場所になれるのかもしれない。正幸は、どうしたってそんな事を考えてしまい、その顔を真っ赤に染めた。
心の居場所を教えてくれたトガク、正幸はどうしたって、彼が特別で仕方なかった。




